力 なき 者 たち の 力。 Eテレ 100分de名著「ヴァーツラフ・ハヴェル「力なき者たちの力」「第1回「嘘の生」からなる全体主義」」

lg.ripley.cl:カスタマーレビュー: ヴァーツラフ・ハヴェル『力なき者たちの力』 2020年2月 (NHK100分de名著)

力 なき 者 たち の 力

100分de名著「「力なき者たちの力」 「第3回「並行文化」の可能性」」 1か月で名著1冊を読んでいく番組。 司会はさん、アナウンサーです。 今月はの戯曲家ハヴェルの本「力なき者たちの力」です。 指南役はさんです。 第1回目は、の管理体制の中の「嘘の生」 第2回目は、個人が理性、良心、責任を持ち、周りがどうあろうと自分の心を形にする「真実の生」 についてでした。 第3回目の今日は 「文化や芸術の側面から、真実の生をどう表現するかを見ていきます」 冒頭にいきなり写真が出されたのは「The Plastic People of the 」というロックバンド 長髪でいかにもハードだが、なぜロック?と思ってしまうが、 彼らが活躍したのは、1970年代。 当時のは、の次の「正常化」の時代で、 英語名のグループや歌詞は禁じられていた時代の人たちなのだそうです。 阿部さんによれば、 「多くのバンドは、当たり障りのない名前に改名したりしていたんですが、 彼らはそれを拒み、長髪も切らずに活動していた。 それで、当局に活動を制限されていた」 この彼らの反体制的な態度にハヴェルは共感した… という話から始まっていました 〇The Plastic People of the このバンドは、当局に屈せず、英語名、英語の歌詞、長髪などを変えなかったので、 反体制派とみなされた コンサートも解散を命じられ、そのとき見に来ていた観客も 単に音楽を聴きに行っただけなのに、逮捕されてしまったそうです その後、彼らは公的な活動ができなくなったので、 友人の結婚式など、プライベートな場に活動拠点を移す 彼らの芸術監督だったイヴァン・イロノスは、 これを「もう一つの文化フェスティバル」と呼んでいたそうです。 しかし、このイロノス自身の結婚式でバンド活動をしたことで 逮捕され、裁判にかけられてしまう ハヴェルは、彼らがプライベートな場で、好きな音楽をしていた、 というだけの理由で逮捕されたことに大きな危機感を持った 「その裁判で対応したのは、二つのではなく、 生をめぐる2つの概念だった。 一方ではポスト、という、制度の無菌のピューリタリズムであり、 もう一方は、ただ「真実の生」を営もうとした無名の若者たちがいた」 「の音楽への攻撃は、 最も重要で最も基本的なものへの攻撃であり、 すべての人を結びつけるものであると、誰もが理解したのである。 つまり「真実の生」が真に目指すものに対する攻撃である」 ハヴェルは、彼らの音楽を「(英語で地下、の意味)」と呼ぶ ハヴェル自身も、戯曲が公的には認められず、「地下」出版していた この「文化」への迫害の意味合いについて、阿部さんは 「好きな音楽を演奏する権利を奪われる、ということは、 哲学や政治、愛について語ることすらも奪われることだ、 とハヴェルは感じた。 これは「真の生」への攻撃だと感じたんですね」 単にロック音楽を否定するものではなく、精神や生き方も否定することだ、と。 それからこのグループへの裁判はほかにも意味合いがある、と阿部さんは指摘する。 「いろんな人が集まりますよね。 このグループは20第くらい、ハヴェルは40代くらい。 なので、色んな世代やいろんな立場の人が集まった。 これはのちに「憲章77」が生まれる機運となっていった」 「真の生」を追求する人たちが、世代を越えて集まる契機となった、と。 〇芸術や文化は「前政治的な領域」 阿部さんによると、 「ハヴェルは、ポストと個人の生が目指すものは、根本的に違うと言っている」 ポスト(体制)…統一性、単一性、規律(嘘の生) 個人の生…複数性、多様性、独立した自己形成や自己編成、自身の自由の表現(真実の生) 「体制にとっては、物事の基準を統一する方が楽なんですが、 それは個人の生が望むこととは違う」 それから、ハヴェルは、芸術や文化は「前政治的な領域」と言っているそうです 安部さんが 「芸術や文化は、政治とは関係がなさそうですが…」と尋ねると 阿部さん 「いずれこの領域は、政治的な要素が入ってくる、と。 だから政治が介入してくるんだ、とハヴェルは言っている」 伊集院さんは 「お笑いもそう(前政治的)で、 民衆の声みたいなもの、民衆がどう思っているか、を分かっている人が、 世の中を突くような笑いを作っていくようなところがある」 「例えばツービートが「赤信号 みんなで渡れば怖くない」って言ってましたよね。 あれで、さんが世の中を壊したんだ、みたいなことを言う人がいるけど、 そうじゃなくて、世の中はすでに壊れる寸前で、 そういう世の中を察知して、たけしさんはユーモアを言ったんだと思う」 「音楽でも同じで、こんな教科書みたいな世の中は嫌だ、 めちゃめちゃギターかき鳴らすような音楽が聴きたい、 という人がたくさんいる世の中だったから、そういう音楽に人が集まったんだろうね」 阿部さん 「教科書的な生き方以外の生き方や表現があるんだ、 と教えてくれるのが芸術や文化の領域なんですね」 安部さん 「そうか、だから前政治的、なんだ…」 伊集院さん 「そこで興味深いのは、 教科書が面白ければ、人はそんなにストレスはたまんないはずなんですよね」 文化や芸術は、生き方や精神そのもの。 政治は、そういう生き方や精神を実現化するための手段、 と考えれば、文化や芸術は政治の前段階、というのがわかる気がする。 やも、音楽や芸術を利用して民衆を支配しようとしていました… 〇並行構造 「The Plastic People of the 」の芸術監督だったイヴァン・イロノスは、 著書でこのように書いている 「は、自分が生きている世界に対して、 意識的、かつ批判的に対峙する知識人や芸術家の 精神に占める姿勢のことである」 イロノスがここで示しているのは、 この時代でいう「」とは 精神の在り方そのものを意味する、ということ、 そしてそれは、音楽だけではなくて、芸術や哲学など表現手段全般のジャンルに及ぶ、ということ。 ハヴェルはこれに呼応して、こう書いている 「わが国で(代替)文化という概念を始めて発信させ、 実践したのがイヴァン・イロノスだった。 当初彼が考えていたのは、妥協しないロック音楽、 またそのような音楽グループに近い文学、芸術、パフォーマンス領域でしかなかったが、 やがてこの概念は、抑圧からも独立した文化の全領域に広がって用いられ、 芸術やその多様な潮流だけではなく、 人文学、哲学的考察についても用いられるようになった」 つまり、当時の体制や教科書が提示するような、画一的で規律的なものに対して、 こんなの面白くない、嫌だ、と感じて、それを批判し、自分の心が求めるものを表現していくこと。 (表現の場は、音楽だけじゃなく、美術、ダンス、哲学、…など色々) そういうとしての心の在り方を、「」と言うんだ、と。 「きわめて自然なことに、 このもう一つの文化は、その基本をなす組織の形を作っていった。 つまり文化は「並行構造」が最も発展しているのが観察される領域である」 ここでキーワードになっているのが「並行構造」という言葉で、 「これはSFにもみられる、もう一つの世界です」 「並行構造」とは、「憲章77」にも著名した思想家、ヴァーツラフ・ベンダが 1978年に著した本の題名でもあるそうです。 ベンダは、今ある制度を少しずつ、人間らしく変えていこうとしていたが、 その実践の場を「並行構造」と呼んだ ハヴェルは、この「並行構造」こそが「真実の生」を具現化したものだ、と考えた 阿部さん 「当時も、公に発表できないなら仲間内に発表すればいい、 という形で「並行構造」があちこちに見られていた」 代表的なのがサミズダード(地下出版)で タイプライターとカーボン紙を使った複写版、 もしくはでコピーして製本したもの。 発行部数は10部とかなのだそう しかし 「10部って言ってもバカにはならなくて、 例えば1部を300人で回し読みした、という試算もあるんです」 伊集院さん 「たぶんそれだけ少なければ一言一句漏らさず覚えるし、 他の人にも話すし…となると、相当な影響が出そうですね」 ほか、公の場で公演できない役者が、自宅で舞台を上演したり、 公の職を解雇された哲学者が、自宅でサロンやナーを開いたり、 などの「並行世界」がこの時期生まれたのだそう 「ハヴェルは、ありとあらゆる並行構造に顔を出して、 いろんな人たちを仲介する接着剤の役割も果たしていた。 彼がのとき、大統領に推された理由の一つです」 安部さん 「今日の日本で並行構造ってあるんですか?」 阿部さん 「例えば行政と一般の人をつなぐようなや。 などは、学校にも家にも居場所がない子に、 とりあえずご飯だけでも食べにおいでよ、という動機で始まったと思うんですが、 そういう一人一人の善意が生む並行構造が日本の各地にあると思います」 阿部さんによれば、 これはでいう「サードプレイス(第三の場所)」で 第一の場所が家庭、第二の場所が学校や職場などの公的な場とすれば、 どちらにも属せない人の居場所を作る役割もしている、と。 伊集院さんは 「お笑いでいうと何かな? …僕の中ではラジオですかね、特に深夜の時間帯の」 阿部さんは 「私なんかはカルチャーセンターでを教えたりしていますが、 そこも学生の方もいれば、社会人やリタイアされた方もいて、それぞれの人生の語りがある。 多様な個人の生を知ることをできて、 それが社会にいい影響を与えることができる役割も、サードプレイスにはある」 …ハヴェルの文脈でいうと、 公の場で表現が禁止されていることを表現する場が、「並行構造」である、と。 今の日本はが保障されているし、 並行構造など作らなくてもいいようにも思えるが、 でも実は暗黙のルールというか、 「この立場の人はこうすべき」みたいなものがあって (例えば男は男らしく、とか、母親は家でおとなしく、みたいな…) 自分を押し殺している人、どうもみんなと合わないなと孤立感を感じている人も いるのかもしれない。 そういう人が自由に自分を表現できる場、を指しているのだろう。 〇西側文化への批判 ただし、ハヴェルは、「並行構造」とは、「責任を伴う意味を持つもの」であり、 現実逃避やフィクションではない、と述べている このため、1960年代のカのヒッピーブームのような、 自分たちの理想世界に閉じこもるようなものを批判している 彼は、ポスト批判はするが、 必ずしも西側社会を理想だとはしていない、 というかむしろ西側の方が危ない、と指摘している 「人間の位置をめぐる惑星規模の危機は、 我々の世界と同じく、西側でも進行している。 異なるのは、別の社会形態、別の政治形態を有している点である」 「西側の民主主義、つまり伝統的な議会制民主主義が、 我々よりも深淵な解決法を用いていることを示すものは、現実的には何もない」 「そればかりか、生が真に目指すものという点において、 西側には我々の世界以上に多くの余地があり、 危機は人間からより巧妙に隠れているため、 人々はより深い危機に陥っている」 伊集院さん 「ハヴェルのすごいところはまさにここで、 別にを壊したいわけじゃないんですね。 よりよい形、正しい生の形にしたい、と思っている」 阿部さん 「まさに伊集院さんのおっしゃるとおりで、 を壊そうとは言っていない」 そして「危機は人間からより巧妙に隠れている」という言葉については、 「西側世界の生は、本当に必要なものは見えにくい、と言っている」 「並行構造」とは、自分が息抜きできるような逃避やごまかしではなく、 自分の「真実の生」を表現する覚悟がないとだめなのだ、ということか。 さらに阿部さんは、消費行動に対する危機も指摘する。 「ハヴェルは 「技術は人間の手を離れ、人間に奉仕することを止め、 人間を奴隷化し、自己破壊する準備を私たちに担わせている」とも書いている。 技術は手を離れ…というのは、テク批判ですよね。 西側もテク制度に取り込まれている、と言っている。 たとえば今だと、ネットショッピングでこれがお勧めですよ…とか出てきますよね」 伊集院さん 「西側諸国の体制が味方につけているのは、極端に経済かな、という感じがする」 阿部さん 「東側の人たちは、買い物の時選択肢が少ない。 だから逆に買うときは決断がいることで、 一つ一つの消費行動でも責任が伴っている」 ハヴェルは、西側諸国の危機は、経済だけではなく政治にも及ぶ、と書いている たとえば、年に出された「政治と良心」という本では 近代という権力者は透明化していく、と述べている 彼によれば、かつての権力者は顔が表に出ているので、 良きにつけ悪しきにつけ、自己の行動に責任が伴っていた、と。 しかし近代の政治家は、定型句を使い、特定の役割をこなすだけの「国家の部品」。 彼らは罪を担うことはなく、 「透明の権力」が持っている「装置」、 「透明な存在」に過ぎない、と述べているそうです。 「国家は機械に似てきて、 人間は選挙民や生産者や消費者や旅行者や兵士の、統計的総体となる。 (自然的世界のカテゴリーとしての、それゆえ過去の建物としての) 善と悪は、政治において現実的な意味を失う」 「政治の唯一の方法となるのは、目的であり、 唯一の尺度となるのは客観的に立証し、数量化しうる成功である。 権力はに無罪である。 なぜなら権力はその罪があるとかないとかいうことが、 いまだに何らかの内容を持っている世界に由来するものではないからである」 伊集院さんは 「実は政治家で気になっている表現があって、 「誤解を与えたとするならば謝ります」て。 これは実は何の意味も中身もない言葉で、 「誤解を与えたから謝ります」でもないし、ましてや 「言った内容に謝ります」でもない。 ニュースではこの言葉を「謝罪した」っていうけど、謝罪はしてない」 阿部さん 「似たような言葉に、「再発防止に努めます」というのもありますね。 そのあと何か憲章をするのかと言えば、別に何もされない。 こういう常套句を使って、何かをしたような形になっているけど、 結局何の責任も取っていない、それはもう社会のシステムになっている」 、とは、先天的、自明だ、といことで 「権力はに無罪だ、というのは、 罪を担うことはできない、ということ。 国や行政が入ることはできない。 一時的に賠償とか謝罪はなされますけど、賠償って結局は我々の税金から出てくる。 これに対して、人間は個人としての罪や責任を問われる」 …ハヴェルの言い回しは難しいんですけど、 要するに現代の政治は、すごくになっていて、 そのときの政治家が目的設定して動かすだけ、という感じになっている。 単に決まりに従って動くだけで、そのとき善悪の判断はない。 心の痛みも良心の呵責もない。 だから責任感も生じない、ということか。 阿部さん 「これが一番完成されたのがだ、と言っているが、 が依拠しているのは科学や消費社会、合理主義。 その根源は西側世界にある、とハヴェルは言っている」 ハヴェル 「体制は、実際は何よりもまず合理主義のを拡大して見せる凸面鏡である。 合理主義自体が深いところでもつ志向が、グロテスクに拡大された像である」 阿部さん 「ここで合理主義と言っているのは、テクのこと。 凸面鏡とは、それ自体は小さいけど全体を良く見せてくれる。 だからはテクの問題が拡大される。 東欧は西側社会の20世紀の実験場だ、といわれていた」 …とか、というと遠い国の話のように思っていたが、 合理主義、科学至上主義みたいなものを究極に突き詰めて、 人間(自由、正義、愛、話し合いなど)というものを脇に押しやって、 すべてを効率よくさせたときにたどり着く形が、なのかもしれない。 そう考えると、今の社会とか、でなんでも評価…みたいな 今のAI社会は、一歩間違えるとデジタルになってしまうのかも… 伊集院さん 「東側は、経済が絡まないだけ分かりやすいのかもしれない。 俺らの方が難しいかも…」 安部さん「なんでですか?」 伊集院さん 「少なくとも彼らは、こういう音楽が聴きたいとか、欲望はシンプルだけど、 俺らは自分たちの欲自体よくわからなくなってる」 阿部さん 「実際、何がしたいのか、と自分に問いかけたら、意外と難しいですよね。 だからハヴェルの本は、を超えて、 西側世界、我々の会にも大きな警鐘を鳴らしている、 と思います」 …何がしたいのか、自分は本当は何が欲しいのか? がわからなくなっている、というのは確かにそうなのだが、 何が正義なのか、何が良心で、何が善で何が悪なのか? も、最近みんなが分からなくなってしまっている気がします… ネットではも流されて、 色んな根拠の分からない情報も流されて。 でも「」によれば、「真実はいくらでもある」だから何でもありだ、となる。 ハヴェルは、自分の理性や良心や責任感を取り戻せ、 と主張している。 でも、こういう、真実が良く分からなくなっている現代においては、 まず、その「良心」の根拠となるもの、 つまり善とは何、悪とは何、人間として何をすべきで、何をすべきでないのか… というような、普遍的価値観について確認するところから始めねばならないのかな、と思います。 私が思うに、一番大事なのは、情報の洪水からいったん自分をシャットアウトして、 自分の五感六感を研ぎ澄ませて、目をつぶって、きちんと「感じる」こと、なのではないか。 たとえば、何が欲しいか?何を望んでいるか?を知りたいなら、 本当に体が芯から欲しているものを食べること、欲する行動をすること。 本当に心から欲しい、と思うもの、どうしても必要なものだけを選び、買うこと。 何が真実か?何を守るべきか?を知りたいのなら、 色んな角度からの視点を想像してみること。 ありうる事態をすべて想定すること。 この立場だったら、自分はどう思うか、どう感じるか、じっくり考えること。 例えば〇〇は悪者だ、というニュースを見たとしても、それを鵜呑みにせずに 〇〇は善人だ、という意見も見てみる、自分はそう言われたらどう思うか、を考える、など… 多様な角度から物事を見ること、 反対意見も素直に聞いてみることで、真実が見えてくるし、守るべき価値観も分かってくるのではないか、 と思います。 …冒頭の芸術の話からずいぶん遠くへ来てしまった気がするが、 芸術や文化も出発点は「感じること」「観察すること」。 まずは物事に対して、自分の五感と、心をフルに働かせることが大事なのかな、と思いました。 色々考えさせられました。 というわけで今回はこの辺で。 amagomago.

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「力なき者たちの力」ヴァーツラフ・ハヴェル

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バーツラフ・ハベル=2002年 まもなく師走だ。 今年、読んで最も心に残った一冊を紹介したい。 バーツラフ・ハベル著『力なき者たちの力』(阿部賢一訳、人文書院)である。 ハベルはチェコスロバキア及びチェコ共和国の大統領だった。 東欧の民主化(1989年)以後、2003年まで14年間にわたりその重責を果たした(11年死去)。 劇作家でもある。 冷戦下のチェコで反体制知識人として何度も逮捕・投獄された。 創作の発表も禁じられた。 本書もまた地下出版の形で広がり、読まれたものだ。 77年、ヘルシンキ宣言に基づく人権擁護を求めて<憲章77>を起草、ハベルは国家に強い弾圧を受ける。 翌78年に書かれた政治的エッセーが『力なき者たちの力』だ。 同書の扉には<ヤン・パトチカの想い出に捧(ささ)げる>との献辞がある。 哲学者パトチカは<憲章77>の起草者として8時間に及ぶ官憲の尋問を受けた翌日に、心臓発作で亡くなった。

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ヴァーツラフ・ハヴェル『力なき者たちの力』 2020年2月 (NHK100分de名著)

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ヴァーツラフ・ハヴェルの『力なき者たちの力』。 東西冷戦下のチェコで1978年に執筆され、各国で訳されてきた民主化運動不朽のバイブルだ。 ハヴェルは、不条理演劇の戯曲家だが、全体主義に抗する手だてを分析し、チェコスロヴァキアで無血の民主化革命を言葉で導き、大統領にまでなった。 この本が、昨年2019年、日本でようやく翻訳刊行された。 アイドル評論家としても知られる中森明夫氏は、2019年に読んで一番感銘を受け、勇気を与えられた一冊として、この『力なき者たちの力』(人文書院)を挙げている。 Eテレの「100分de名著」2月期でもこの本が取り上げられる。 現在の日本の状況を踏まえて、この本がなぜいま多くの日本人に読まれる必要があるのか、中森氏に聞いた。 現在の日本という国は、かつての東欧社会主義国のような全体主義の統制下にもなく、建前上、表現の自由も認められているわけですが、いろんな場面で「忖度」であったり、過度に空気を読んで委縮する、あるいは皆で監視しあうといった息苦しい風潮が生まれているように感じます。 『力なき者たちの力』に書かれていることは何も特殊な権力下の状況ではなく、まさに日本の状況と見事に一致して見えてくる、これは日本のことを言っているかのような・・・。 例えば、次のような一節があります。 〈表現の不自由は、自由の最高形態とされる。 選挙の茶番は、民主主義の最高形態とされる。 (略)権力は自らの? に囚われており、そのため、すべてを偽造しなければならない。 過去を偽造する。 現在を偽造し、未来を偽造する。 統計資料を偽造する。 (略)何も偽っていないと偽る。 /このような韜晦(とうかい)のすべてを信じる必要はない。 だが、まるで信じているかのように振る舞わなければならない、いや、せめて黙って許容したり、そうやって操っている人たちとうまく付き合わなければならない。 /だが、それゆえ、? の中で生きる羽目になる〉 厚労省の統計不正や財務省の公文書改ざん、最近では桜を見る会のデータ廃棄から、いまや文化への抑圧(アート展の中止)にまで及ぶ日本の現状と重ねあわせて読めてしまいます。

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