バニラ ファッジ ブログ。 Profile

6年生時代|バニラファッジ|note

バニラ ファッジ ブログ

「大切な人が老いるのは苦しく、つらいこと」。 そんな声をよく聞きます。 ましてやその姿を日々目の当たりにする介護となれば、なおのことでしょう。 作者が持つ独特の感性フィルターを通して描かれる介護の日常は、おかしみもありながら、ときにジーンと心を打ち、そして発見に富んでいます。 今回は、総アクセス数が3億を超えるブログ『7人家族の真ん中で。 』や、書籍『スーパー嫁の汗と笑いの在宅介護』(主婦と生活社)の著者である、バニラファッジさんにインタビュー。 要介護4で認知症の姑と、要介護5で身体が不自由なその妹、2人を同時に在宅介護していたというバニラファッジさん。 介護とどのように向き合ってきたのか語っていただきます。 今回の tayoriniなる人 バニラファッジ 夫と3人の子供、義理の母、義理の母の妹との7人暮らしの日々をつづるブログ『7人家族の真ん中で。 』を運営。 著書に、『スーパー嫁の汗と笑いの在宅介護』、『86歳乙女系女子、恋の力で生きてます』(主婦と生活社)など。 とにかく2人は生まれ育った家への愛着がとても強かったので、本人の意思がはっきりしているうちは難しいな、と思いました。 とはいえ、義叔母が要介護5になった時は、さすがに考えました。 ただ、老姉妹を別々にしていいのかと悩みました。 長年支え合ってきた2人を引き離すぐらいなら、一緒に入所するのもありかと。 ところが具体的に話しを進めると、たとえ夫婦でも1人1部屋の規則があり、同じ施設に入っても生活費や住居費はすべて2倍必要。 2人なら割引とか、そういうのはないんです(笑)。 金銭的には自宅で家政婦さんや介護サービスをフル活用する在宅介護とあまり変わらないと感じました。 ならば2人の姑が強く望んでいた「最期まで家に居たい」に挑戦してみようと思いました。 義母は「自分が憲法」みたいな人で、とにかくプライドが高く頑固で厳しかったんです。 良く言えば、とても真面目で芯のある女性でした。 でも、認知症になってから、「これまでの自分とはちょっと違う」という不安を抱えはじめたのか、自分の考えが絶対だというスタンスから、態度が軟化して周囲を頼るようになってきました。 実際のところ、介護に突入してからの方が私との関係が良くなった気がします。 かたや、義叔母は「永遠の妹」のポジション。 義母の言いつけを守り、「姉の言うことは絶対」でした。 でも、義母が認知症で会話が成り立たなくり、日々の出来事も共有できなくなり、自分も身体が動かなくなってきて、とてもつらかったはずです。 それでも姉をサポートするのは自分だと思っていたんじゃないかなと。 その意味では、頼もしかったですし、義叔母の方が介護前後での変化はあまりなかったです。 もちろん姉妹ゆえ、言いたい放題の喧嘩もよくありましたが、それが2人の生きる原動力だったのかもしれません。 私はその2人の主介護者として社会との繋がりや衣食住のサポート役を淡々とこなしてきたと思っています。 そうですね。 そこはブログ『7人家族の真ん中で。 』がとても支えになりました。 困ったことやイライラしたことも、ブログに描くことで、清々しいほど客観視する力が身につきました。 介護の全てが伝えたいエピソードになり、それがエールになり、誰かの助けになって、さらにコメントをもらえる。 私も大いに励まされました。 離れて暮らす私の両親も、介護に明け暮れる私を心配していましたが、ブログを読んで一緒に笑ったり怒ったり泣いたりしてくれました。 それも私のエネルギーに変わりました。 とはいえ、さかのぼれば悠々自適に暮らしていた2人のもとに、3人の子どもを連れて乗り込んできた息子夫婦を受け入れ、子どもたちを無条件に愛してもらった2人には感謝もあります。

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当時はありませんでしたが、ここ10年ぐらい「2分の1成人式」という言葉をよく聞きます。 思い返せば、ケンとリュウも10歳を境にぐっとコミュニケーションがとれるようになりました。 ただ、イメージは泣いてばかりいる赤ちゃんが2歳頃からちょっとコミュニケーションをとれるようになった感覚に近いです。 「嫌なものは嫌」だった2人が少しだけ「なぜ嫌なのか」を話してくれるようになったのです。 しかし、その理由は「白い線しか踏まない横断歩道」だったり「1回触ったら、もう1回触る」という儀式のような理由で、私はなかなか理解できませんでした。 宿題をするのでも、「あの鉛筆じゃないとできない。 買ってきて!」と言うのですが、私にはどの鉛筆でもできる、ただ宿題をやりたくないだけの理由だと叱っては親子関係がくずれていきました。 結局、鉛筆を探して見つかった時にはもう眠たくなっていて宿題どころではなく、翌日の憂鬱につながりました。 そんなやりとりを繰り返していると、実際に、その鉛筆を買ってきたらすぐ宿題を終えるという現象も起きました。 親にとって何が正解かわからないのですが、そのこだわりの強さを自分では調整ができず、彼らは今でもその生きづらさを抱えています。 自分で自分がコントロールできない様子は、ブログ「7人家族の真ん中で。 」での過去記事でも描いていましたが… 実はその後、リュウは何回でも自分の不注意で彼女の指を切ってしまって彼女が「痛いっ!」と手を引っ込めたシーンが脳内で再生されては、苦しむという現象が続きました。 (俗にフラッシュバックと言われる現象でしょうか?)リュウが申し訳ない気持ちでいっぱいになるのはわかるけれど、それが1週間経っても1ヶ月経っても1年経っても、当事者の彼女が忘れてしまっても、その瞬間を思い出しては苦しんで落ち込むことがありました。 親としては「ええ加減にせえよっ!」とツッコミたいところですが、なかなか乗り越えることはできませんでした。 幼い頃と比べると、親の言うことは理解できるようになってきましたが、思考回路が独特で社会適合が難しくなってきたのはリュウの方が先でした。 〜6年生時代〜 6年生に進級し、ケンとリュウの関係が変わってきた。 同じクラスでケンに3人の友だちができた。 類は友を呼ぶで、3人ともおとなしい男の子だった。 ケンは漫画やゲーム、PCで得た豊富な知識をもって彼らを喜ばせ、学校では苦手な給食を先生にバレずに食べてもらうことに成功していた。 アウトドアが苦手だったケンに、自転車での遠出の仕方や電車の乗り継ぎを教えてくれたのも彼らだった。 彼らは学校の成績も良く、ケンの勉強にもよく付き合ってくれた。 今、思い返してもこの6年生での1年間は、ケンがいろんなことに挑戦し、一番イキイキしていたように思う。 一方、リュウはその頃からいじめにあっていた。 私は、数年前 発達障害のことを新聞で読み、知り合いにあまりによく当てはまるので、初めて 発達障害ではないかと思いました。 夫に話すと「オレも発達障害かもしれない」と言い出しました。 そういえば、いくらやめてと言っても話がとまらないとことか、多少あるかもしれない。 そして、理解すると、やっと知り合いも夫も変えられないということがわかり、私の心は安らぎました。 知り合いには困らせられてるとしか思えなかったのが、この人も長いこと生きずらかったのかも(本人も家族も知らない)と、思えるようになりました。 夫は、ちょっと変わってるけど、相談事などではすばらしい回答をくれるし、生活力があるので何かあってもこの人とならだいじょうぶ乗り切っていけると思うし、私にとっては必要かつ大事な人です。 子供たちや孫にも慕われています。 それに、発達障害的な部分は私を含め誰でもあると思うようになり、人間に対する見方が変わりました。 そして、物事は、理解することが大事なんだと思うので、この記事も、むさぼるように読んでいます。 ファッジさんのご苦労とかとても簡単にはコメントできませんが、一生懸命読んでます 初めまして。 ファッジさんのNOTEに出会い、自分の子育てを改めて振り返っています。 今は成人した私の息子にも軽度の発達障がいがあり、子育ては思うようにならない連続で、 親としての素朴な期待を一つずつ諦めていく日々でした。 今思えば、人間としての美しい心をたくさん持ち合わせていた息子なのに、普通であることに固執していた私は、いつも息子を叱り、絶望し、自分がいちばん辛い思いをしていると思っていました。 自分でも自分をコントロールできず、苦しんでいたのは息子だったのに。 母親は必死になるあまり、子育てが「闘い」になってしまいますね。 私も闘っていました。 若かったんだと思います。 それが精一杯の愛情でした。 一口に発達障がいとか不登校とか言っても、その子によって状況は様々で、他のケースがそのまま参考にならないことも多いです。 でも、母親の思いは共通する部分が大きいのかも などと勝手ながら考えます。 ファッジさんが文章に綴ってくださるおかげで、私も昔の自分自身と向き合うことができます。

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ほっとしたら、涙が出た。 この追いかけて来てくれたおじさんは お義母さんの4人姉弟の末っ子の弟さんだった。 私はこの時のこの言葉にとても救われた。 てか、このおじさんがいなければ 結婚してなかったかもしれない。 結婚は当人同士がちゃんとしていれば その家族なんか後からついてくるものだと思っていた。 でも、違っていた。 結婚後も、私はこのおじさんにとてもお世話になった。 いつも私の味方になって嫁姑の間に入ってくれた。 しかし、残念ながら叔父さんは 姉であるお義母さんとおばさんを追い抜いて、 癌を患い他界された。 3人の娘さんがいて、末娘さんが私と同じ年だ。 そのせいか私のことも、最後までよく気にかけていてくれた。 私のもう一人のお父さんのようだった。 (つづく).

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