い みぎ むる。 右(みぎ)の書き方や読み方 Weblio辞書

中庸章句 (國譯漢文大成)

い みぎ むる

ウィキソース「」参照。 修身在正其心者 … 「自分の身を修めるには、まず自分の心を正しくしなければならない」とは。 修身 … 自分の身を修めて正しい行いをするように努力すること。 八条目の一つ。 正心 … 心を正しくすること。 八条目の一つ。 身有 … 朱子は「程子曰く、身有の身は当に心に作るべし」(程子曰、身有之身當作心)といい、程伊川の説(『程氏経説』巻六「伊川先生改正大学」)に従って「身」を「心」に改めている。 程伊川の説は、ウィキソース「」参照。 忿懥 … 怒ること。 朱注には「忿懥は、怒るなり」(忿懥、怒也)とある。 不得其正 … 心の正しさを保てない。 正常な状態を失う。 心不在焉 … 心がここに存在しないと。 心が正常に保たれていないと。 他の事に心を奪われていて、眼前のことに集中できず、放心状態にあること。 焉 … 「ここに」と読み、「ここに」と訳す。 一字で「於是」「於此」の意を示す。 文末に置かれる。 視而不見 … じっと見ても見えない。 聴而不聞 … じっと聴いても聞き分けられない。 食而不知其味 … 食べてもその味がわからない。 朱注には「心存せざる有れば、則ち以て其の身を検すること無し。 是 ( ここ )を以て君子は必ず 此 ( ここ )に察して、敬以て之を直くす。 然る後此の心常に存して、身修まらざること無きなり」(心有不存、則無以檢其身。 是以君子必察乎此、而敬以直之。 然後此心常存、而身無不脩也)とある。 正心修身 … 心を正しくし身を修めること。 釈 … 解釈したものである。 朱注には「 此 ( これ )も 亦 ( ま )た上章を 承 ( う )けて以て下章を起こす。 蓋し意誠なれば則ち真に悪無くして、 実 ( まこと )に善有り。 能く是の心を存して以て其の身を検する所以なり。 然れども或いは 但〻 ( ただただ )意を誠にするを知るのみにて、此の心の存否を密察する能わざれば、則ち又以て内を直くして身を修むること無きなり。 此より以下は、並びに旧文を以て正と為す」(此亦承上章以起下章。 蓋意誠則眞無惡、而實有善矣。 所以能存是心以檢其身。 然或但知誠意、而不能密察此心之存否、則又無以直內而脩身也。 自此以下、竝以舊文爲正)とある。

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参考資料集 藤原定家『拾遺愚草全釈』 歌合・定数歌

い みぎ むる

歌合 以下の本文は主として新編国歌大観による。 後十五番歌合 『前十五番歌合』に続き、より新しい時代のと歌人の歌を結番した歌合形式の秀歌撰。 撰者は藤原公任とされる。 寛弘五、六年 一〇〇八、九 の成立かという。 【関連歌】上0124 禖子内親王家歌合 治暦四年 一〇六八 十二月、禖子内親王家の女房たちによる五題各二番の庚申待の歌合。 【付記】仏名会の功徳を詠む。 作者の「式部」は不詳。 【関連歌】員外2988 太皇太后宮亮平経盛朝臣家歌合 仁安二年 一一六七 八月、平経盛(忠盛の子)が主催した五題各十二番の歌合。 判者は藤原清輔、出詠歌人は清輔・顕昭・源頼政・俊恵・小侍従など二十四名で、出家前の寂蓮(藤原定長)の名も見える。 【付記】仁安二年 一一六七 八月、平経盛が自邸で催した歌合に出詠された歌、十一番右勝。 【関連歌】上0035 嘉応二年住吉社歌合 嘉応二年 一一七〇 十月九日、藤原俊成を判者として住吉社に奉納された歌合。 俊成ほか徳大寺実定・源頼政・俊恵・藤原清輔・小侍従ら、当時の代表的歌人が出詠している。 【付記】神社の社前に指す月を詠む。 社前の庭火による気温の変化に着目して、霜と月光の紛らわしさという旧来の趣向に新味を与えた。 俊成は「こころめづらしくことばいひしれりとみゆ」と評し、勝を付けた。 【関連歌】上0468 治承二年別雷社歌合 治承二年 一一七八 、賀茂重保が主催した歌合。 当時十七歳であった定家も出詠した。 空に立ちのぼる糸遊を縦糸・横糸にして。 【付記】「いとゆふ」は陽炎であるが、「いと」の縁から、霞の衣の 経緯 たてぬき に見立てたのである。 俊成の判は「『あそぶ糸ゆふたてぬきにして』といへる心、彼の『当天遊織碧羅綾』と云ふ句を思ひ出でられて、佐保ひめの句たくみならむ、思ひやられてをかしく侍り」。 作者の藤原永範 一一〇〇~一一八〇 は千載集初出歌人。 【付記】題は「霞」。 「こぞの冬ことしの春のしるしには山の霞ぞたちへだてける」(大中臣輔親『輔親集』)のように霞を季節の隔てと見る趣向は以前にもあるが、掲出歌は春の遅い吉野山の「消えあへぬ」雪を出して一節の風情がある。 俊成の判詞に「霞のへだてなる心はつねなる事なれど心ありてもみゆ」とある。 誰が見間違えたのだろう、峰の白雲と。 【付記】題は「花」。 左は千載集に採られた公時の「年をへておなじ桜の花の色をそめます物は心なりけり」。 俊成の判詞は「左、おなじ桜の花の色を染めます物はといへる心すがたいとをかしくも侍るかな。 右、たれまがへけんみねの白雲といへる心もよろしきにやとみえ侍れど、左歌なほめづらしくもみえ侍れば左勝つべきにや侍らん」。 山陰で雪と月を独り見ているけれども。 【本説】「嘗居山陰 夜雪初霽 月色清朗 四望皓然…」(蒙求・子猷尋戴 ) 【付記】治承三年 一一七九 十月十八日の右大臣兼実主催の歌合。 作者は俊成。 続古今集入撰。 【関連歌】下2324 六百番歌合 建久三年 一一九二 に九条良経が企画した百首歌をもとに、翌四年秋、歌合として披講・評定された。 その後藤原俊成による判が付けられた。 月のもとで眺める広沢の池よ。 【参考】「いにしへの人は 汀 みぎは に影たえて月のみすめる広沢の池」(頼政集二四四 ) 【付記】良経の歌。 【付記】嵐に散る紅葉が松林を曇らせている景。 それを松風の音によって時雨かと錯覚したというのだろう。 見れば、有明の月が沈んだあとにも、峰には白雪が月光のように冴え冴えと積もっている。 【付記】左は良経の「雲ふかき峰の朝けのいかならん槙の戸しらむ雪のひかりに」。 俊成の判は「左歌、『雲ふかき』とおけるより、『槙の戸しらむ』といひ、右歌、『在明の月よりのこる』などいへる、心詞ともによろしくこそ侍るめれ。 冬朝はかくこそと見え侍り。 仍いづれまさると申しがたし。 持に侍るべし」。 【関連歌】上0966 石清水若宮歌合 正治二年 正治二年 一二〇〇 に催された、五題三十三番の歌合。 判者は源通親。 石清水社の祠官を中心に、六条家・御子左家などの歌人が参加し、定家も出詠している。 【付記】題は「月」。 【関連歌】上1192 老若五十首歌合 「後鳥羽院主催により、建仁元年 一二〇一 二月十六・十八両日に行われた歌合。 作者は左方老・右方若とに分けたまったく新しい試みによる。 左、忠良・慈円・定家・家隆・寂蓮、右、女房(院)・良経・宮内卿・越前・雅経の十名。 歌題は春・夏・秋・冬・雑各十首。 都合の二百五十番の歌合で、勝負は付されるが判詞はない。 新古今和歌集に三十三首入集」(新編国歌大観解題)。 どこの関の番人が、無情にも暮れてゆく秋を留め得ようか。 【付記】秋、百四十七番右持。 作者は後鳥羽院。 自分の人生が老ける、吹飯の浦で啼いている。 【関連歌】上1289 千五百番歌合 建仁元年 一二〇一 に後鳥羽院が主催した三度目の百首歌を、翌年歌合に結番することが決まり、建仁二年十月~翌年初頭頃に判が進献された。 史上最大の規模の歌合である。 【本歌】「草も木も色かはれどもわたつうみの浪の花にぞ秋なかりける」(古今集、文屋康秀) 【関連歌】下2203 撰歌合 建仁元年八月十五日 建仁元年 一二〇一 八月十五日夜、御所内和歌所で催された、後鳥羽院主催の撰歌合。 月四字題の十題五十番。 出詠者は院のほか良経・俊成・俊成卿女・宮内卿・有家・寂蓮・秀能・慈円・小侍従・讃岐・定家など、老若の歌人が顔を揃えている。 判者は俊成。 【付記】白々とした月光を氷になぞらえる。 俊成の判詞によれば、俊成は左を負としたが、「左歌ことによろしくきこゆ、可勝」の由を左右方人共に申したので勝としたという。 新後撰集に撰入。 荒れ果てたこの里には、 期待して待った 昔の思い出を話して聞かせるような、松風が吹くばかりだ。 松に待つを響かせる。 【付記】良経の作。 松が風にあたって立てる響きを、松の語る思い出話に喩えている。 建仁元年 一二〇一 九月十三日の水無瀬恋十五首歌合、四十一番右負。 【関連歌】中1949 後京極殿御自歌合 藤原良経の百番の自歌合。 判者俊成。 建久九年 一一九八 五月成立。 春の枕に残っている灯火によって。 【関連歌】中1951 定数歌(百首歌・五十首歌など) 以下の本文は主として新編国歌大観による。 堀河百首 源俊頼が企画し堀河天皇の応制によって長治二、三年 一一〇五、六 頃詠進されたと推測される題詠百首。 「堀河太郎百首」「堀河初度百首」とも呼ばれる。 作者は十六名(一名乃至二名を欠く伝本もある)、藤原公実・大江匡房・源国信・源俊頼・藤原基俊・肥後・紀伊・河内ほか。 「院政期歌壇の金字塔ともいうべき作品で、最初の多人数百首、組題百首であり、百首歌が初めて公の場の歌となり、中世和歌の採るべき基本的性格を決定的にした和歌史上記念すべき作品である」(新編国歌大観解題)。 定家も特に初期の百首歌では決定的な影響を受けている。 袿 うちき に重ねて着た衣服。 【付記】紅梅に雪が積もったさまを、紅の袿に白い表着を重ねて着た様に見立てた。 春雨がお止みなく降る空の下、玉となって落ちる軒の雫を。 【付記】「ながめ」には「長雨」の意が掛かる。 「ふる」は「経る」「降る」の掛詞。 チガヤの花にまじってスミレが咲いているばかりで…。 四月朔の更衣の日に着る。 同音から「知らじ」を言い起こすはたらきもする。 「うら」には「裏」の意が掛かり「衣」の縁語。 【付記】表も裏も同じ白襲に寄せて真心を訴える。 春の衣。 単 ひとえ は夏の衣。 【付記】夏衣の「ひとへ」に寄せて、春の名残惜しさを振り切って衣更えする心を詠んだ。 作者の「紀伊」は祐子内親王家紀伊とも。 「白雪の色わきがたき梅が枝に 友まつ雪ぞ消えのこりたる」(家持集)などと遣われた語で、「友」には「同類」の意が掛かる。 【付記】「友まつ雪」は友人の来訪を待つところの雪。 「白雪の色わきがたき梅が枝に 友まつ雪ぞ消えのこりたる」(家持集)などと遣われた語で、「友」には「同類」の意が掛かる。 葵祭(下鴨神社・上賀茂神社の例祭)に先立って行われる、神を降臨させる神事。 また、賀茂社・葵祭の称。 祭の際、車や衣裳に掛けた。 「逢ふ日」と掛詞。 【付記】毎年陰暦四月に行われた賀茂社の葵祭において祈願する心を詠む。 両手で急いで取りなさい、室の早稲を。 暗夜、鹿の通り路のそばに篝火を焚き、鹿の目がその炎に反射する瞬間を狙って矢を放った。 【付記】木陰に臥して鹿を待つ猟師の身になっての詠。 「目をもあはせで」は「鹿が照射に目を合わせず」「私が瞼を閉じず(眠らず)」の両義。 【付記】山里を旅する人の立場で詠んだ歌。 同百首同題の師頼の歌には「蚊遣火のけぶりうるさき夏の夜はしづの伏屋に旅寝をばせじ」とある。 【付記】『基俊集』『中古六歌仙』にも採録。 臨終の時に我が身が宿るところだと思うので。 【付記】極楽往生した者は蓮華座にすわるとされたので、毎朝蓮の葉に向かって浄土を念ずるというのである。 極楽浄土に咲く花だけあって、この世のものとも見えないことよ。 【付記】「清み」に浄土を暗示し、初句があってこそ下句の感嘆が生きている。 【付記】「浅茅をかりに」は「浅茅を刈り」「仮に」と掛けて言う。 「なづる」とは、浅茅で造った人形で身を撫で、けがれを移すこと。 秋が来る前にもう涼しいのだった。 【付記】異伝歌として新編国歌大観の堀河百首解題に載る。 続後撰集には詞書「夏のくれの歌」とある。 【付記】女郎花の露を女の涙になぞらえて興じた趣向。 【付記】穂の出た薄を袖に見立てるのは常套的な趣向。 同百首同題で源顕仲も「しほ風に浪よる浦の花薄しづくをのごふ袖かとぞ見る」とやはり花薄を袖に擬えている。 【付記】刈萱の下葉は風に乱れやすいため、これを秋に思い乱れる人の心の象徴と見た。 宮木を挽く木樵りも、連れを大声で呼んでいる。 露の枕詞として用いたか。 よく似た枕詞「玉ぼこの」があるが、これは道の枕詞である。 今朝、いかにも喜ばしく咲いている朝顔の花を。 【付記】「玉びこの」は「露」の枕詞として用いたかと思われるが、不詳。 よく似た枕詞「玉ぼこの」があるが、これは「道」の枕詞である。 表着は 袿 うちき に重ねて着た衣服。 【付記】花に付いた露を表着に見立てた。 【付記】冬なお白い花穂を残している蘆が風になびく様を、打ち寄せる白波になぞらえた。 【付記】網代守の身になって詠む。 「よる」は「寄る」「夜」の掛詞。 「日を」には 氷魚 ひお を掛ける。 灰の下にある埋み火のように、世に埋れてばかりで消えてしまう我が身を。 【関連歌】上0469 永久百首 「堀河天皇並びに堀河天皇の中宮篤子内親王にゆかりの深かった藤原仲実・源顕仲ら七人によって詠出された私的追善百首である。 (中略)藤原仲実の企画・勧進により、永久四年 一一一六 十二月二十日成立または披講された。 堀河百首に対して、堀河次郎百首または堀河後度百首として併称され、秀歌の乏しい百首の割には歌題を重視する等後世の歌人から尊重された百首である」(新編国歌大観解題)。 【付記】春は雉の求愛の季節。 雉の鳴き声は「ほほろ」「ほろろ」「ほろほろ」などの擬音語で表わされた。 【付記】「すみ」には「澄み」の意が掛かり「清水」の縁語。 【付記】作者は源顕仲。 夕立の雨に先立って吹く強風を詠む。 【付記】作者は藤原仲実。 無常の身を露に宿る稲妻の光になぞらえる。 稲の藁で編んだ莚。 万葉集では「敷く」の枕詞として用いられているが、崇徳院は乱れる柳の枝の喩えに用いているらしい。 波がしきりと寄せ返す。 「しく」は「敷く」の意を兼ねて稲筵の縁語。 【付記】作者は源忠房。 「そこばくの」は「そんなに多くの」ほどの意。 仏名会では三世の諸仏の名を皆唱えたので、このように言う。 【関連歌】員外2988 久安百首 崇徳院が主催した第二度百首。 康治年間 1142,3頃 に給題し、久安六年 一一五〇 に詠進が終了した。 作者は十四名、崇徳院・藤原顕輔・藤原俊成(当時の名は顕広)・藤原清輔・堀河・安藝など。 俊成による部類本もある。 千載集において重要な資料となり、同集入集歌の一割近くを占める。 稲の藁で編んだ莚。 万葉集では「敷く」の枕詞として用いられているが、崇徳院は乱れる柳の枝の喩えに用いているらしい。 波がしきりと寄せ返す。 「しく」は「敷く」の意を兼ねて「稲筵」の縁語。 【付記】岸の青柳の枝が、激しい波を受けて稲筵のように靡くさま。 ただこれだけが、あたりで光を放っているのだろうか。 「くら」に「暗」の意を掛けて詠まれることが多い。 大阪府池田市に同名の山がある。 照射・時鳥の名所とされた。 普通名詞とする説もある。 普段、弓末は下に向けられているが、獲物を狙う時はこれを振り起こす。 暗夜、鹿の通り路のそばに篝火を焚き、鹿の目がその炎に反射する瞬間を狙って矢を放つ。 【付記】炎に目を合わせた瞬間、射られてしまう運命を知らない鹿への哀憐の情。 新拾遺集に採られ、第四句「鹿やはかなく」。 【付記】毎年の賀茂祭を心待ちにする思いを、葵草に掛けて詠んだ。 牡鹿が絡みつけて臥す萩に置いた白露は。 【付記】「さを鹿の妻にしがらむ秋萩における白露我もけぬべし」(貫之集)など類想の歌は多い。 吉野の御垣が原で若菜を摘んでしまおう。 【付記】作者名「顕広」は定家の父俊成の改名以前の名。 古巣は春の雲に委ねてきたのだから。 【付記】作者名「顕広」は定家の父俊成の改名以前の名。 風雅集に採られている。 【付記】作者名「顕広」は定家の父俊成の改名以前の名。 千載集には詞書「崇徳院に百首の歌奉りける時、落葉の歌とてよめる」、下句「もらぬ時雨や木の葉なるらん」。 【付記】「あけたれば」は「開けたれば」「明けたれば」の掛詞。 「夜ぶかくつもる雪」は「夜深く」「深くつもる雪」と掛けて言う。 奥州の恋の古俗で、男がめあての女の門に錦木を立てかけ、女がその木を取り入れてくれれば承諾の合図、取り入れてくれなければ男は千束まで木を加えることを許された、という。 「朽ち」は「木」の縁語。 【付記】奥州のエキゾチックな古俗に寄せて、恋のために世間に悪評を立てられることを憂えた歌。 『中古六歌仙』にも見える。 【関連歌】上0056 為忠家初度百首 鳥羽院近臣丹後守藤原為忠が近親者や知友を集めて主催した両度の百首歌のうちの初度百首で、長承三年 一一三四 頃の成立と推測される。 若き日の藤原俊成や源頼政が加わり、後度百首と共に素材・表現両面で和歌史上注目される百首歌である。 定家に与えた影響も小さからぬものがある。 【付記】巫鳥(ホオジロなど目のまわりに輪があるように見える鳥の類)を詠んだ珍しい作。 「しとど」の名に「しとどに濡れる」と言うときの「しとど」を掛けたのだろう。 【付記】夜明け前の頃の照射を詠む。 千載集に入集(第四句「かへるにまよふ」)。 【関連歌】員外3488 為忠家後度百首 保延元年 一一三五 頃の成立と推測される、鳥羽院近臣丹後守藤原為忠が近親者や知友を集めて主催した百首歌。 いまの神戸市中央区。 生田川の上流。 【付記】咲いて散った山桜の花が滝に散り込み、普段よりも滝の水嵩が増していると見た。 常陸国の歌枕。 【付記】浄土を暗示する蓮に寄せて、「露上月」すなわち露に映った月の清らかさを讃美する。 【関連歌】上0432 俊成五社百首 釈阿(俊成)七十七歳の文治六年 一一九〇 三月朔日に清書され、後日、日吉社・伊勢神宮・春日社と他二社(不明)に奉納された、五種の百首歌。 【付記】文治六年 一一九〇 七月二十五日に伊勢大神宮に奉納された百首歌。 【付記】文治六年 一一九〇 十一月十日に春日社に奉納された百首の巻末歌。 草の枕を誰に借りようか。 【本歌】「あられふる交野の御野の狩衣ぬれぬ宿かす人しなければ」(詞花集、藤原長能) 【付記】文治六年 一一九〇 三月に清書され、その後住吉社に奉納された百首。 新後拾遺集入集。 【関連歌】員外2842 公衡百首 文治三年 一一八七 、殷富門院大輔が催した百首歌の藤原公衡 一一五八~一一九三 の作。 定家が若い頃に筆写した本が残っている。 公衡は後徳大寺実定の同母弟で、母は藤原俊成の妹であり、従弟の定家とは親しい仲であったが、三十六歳で夭折した。 【付記】おそらく《残雪》をモチーフとし、岩に生えた苔の緑に鮮やかな春色を見た。 【付記】「五柳先生」と号した陶淵明を偲ぼうという歌であろう。 【参考】「先生不知何許人也。 亦不詳其姓字。 宅辺有五柳樹、因以為号焉(先生は 何許 いづこ の人なるかを知らざるなり。 亦た其の姓字も詳らかにせず。 引馬の野辺の萩の下露に。 一面に曇り、みぞれが横ざまに降る風が先を争うように吹いて。 【付記】半ば凍りついた水面で、霜に降られながら夜を明かす葦鴨を思い遣る。 内裏を天上になぞらえている。 いずれにしても冬の夜風の冴え冴えとした感じを印象付ける。 新嘗祭では四人で舞った。 その袖を月光が磨くかのように、ひときわ美しく輝かせている。 【付記】新勅撰集に採られている。 波路を隔てたまま、長い年月が経った。 【本歌】「浪間より見ゆる小島の浜びさし久しくなりぬ君にあひ見で」(伊勢物語百十六段) 【付記】本歌と同じく、「はまびさし」までは叙景と序詞と両方のはたらきをする。 誰を待って、松島の海人の藻塩火よろしく恋の火を燻ぶらしているのか。 空自体が凍っている冬の夜の月よ。 渚の海松布に常に波がかかるように、甲斐のない涙にいつも濡れ通しだ。 涙の意を掛ける。 文治六年 1190 の『俊成五社百首』に「逢ふことはなぎさによするうつせ貝 むなしき波にぬるる袖かな」と用いた先蹤がある。 【関連歌】上1156 その他歌集 以下の和歌本文は主として新編国歌大観による。 人丸集 人麿集・柿本集とも。 柿本人麻呂の家集として享受されたが、万葉集の他人作や作者不明作を多く含む。 【付記】「ゐる雲の」までが「たちてもゐても」を言い起こす序。 原詩は万葉集巻十一の人麻呂歌集歌「春楊 葛山 発雲 立座 妹念(はるやなぎ かづらきやまに たつくもの たちてもゐても いもをしぞおもふ)」。 初句を「あをやぎの」と訓む古写本もある。 【関連歌】上0111、上1206 小町集 小野小町(生没年未詳)の家集。 百余首の歌を伝える(異本系は七十首足らず)が、後世の他撰であり、他人の作が多く混入している。 どうして中途半端な現実の逢瀬だったのだろうか。 【付記】「何中々の」に、いっそのこと夢で逢った方がましだったとの思いを籠める。 続古今集に入集。 【付記】「武蔵野の向ひの岡の草」とは、「紫のひともとゆゑに武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る」(古今集)と詠まれた紫草を指す。 根が染料になる。 紫草は親類縁者の喩えとされたので、恋人の縁者に対する思いを詠んだものか。 【付記】自分の死後、雲(火葬の煙の暗喩)となって漂う我が魂を「あはれと見よ」と恋人に訴えている。 恋い死にの果てのさまを示して人を恨む歌は多いが、これはその典型とも言える作。 『小町集』では後世の増補歌群中にある。 なお続後撰集では第四句「かすまむかたを」。 【付記】流布本系の『小町集』に「他本五首」として付載するうちの一首で、小町の真作かどうかは疑わしい。 新古今集では「あはれなり我が身のはてや浅みどりつひには野辺の霞とおもへば」と語句の異同が大きく、撰者による改作であろうか。 【関連歌】上0488、上0880 句題和歌 大江千里の家集。 『大江千里集』とも。 寛平六年 八九四 、宇多天皇の命を受けて献上した。 『白氏文集』を始めとする漢詩の句を題とし、その翻案歌を付したもの。 テキストは私家集大成・群書類従に拠る。 【付記】白氏文集巻十三の詩「三月三十日題慈恩寺」の第三句を題とする。 のち、この句は『和漢朗詠集』に採られた()。 【関連歌】上0920 古今和歌六帖 歌作りの手引として作られた類題和歌集。 万葉集から後撰集の時代まで、六巻約四千五百首を集める。 成立は拾遺集成立より前、一説に貞元・天元(九七六~九八二)頃かと言い、編者には兼明親王説・源順説などがある。 単に「六帖」とも、また「古今六帖」とも呼ばれる。 【付記】若菜を洗う娘が、自身を若菜に擬え、恋する人のもとへ身を寄せたいとの思いを詠む。 出典は万葉集巻十一「河上尓 洗若菜之 流来而 妹之当乃 瀬社因目(かはかみに あらふわかなの ながれきて いもがあたりの せにこそよらめ)」で、本来は男の歌。 臥待月が出たのを見ると、つれない人ではあるが、やはり恋しいのだった。 【付記】これほど身に「しみ」て感じられるのは、秋風に「色」があるからだろうとの反省である。 続古今集に紀友則の作として撰入。 【付記】「するがの国」は「する」「駿河」と掛けて言う。 「こがらしの森」は駿河国の歌枕。 「木枯し」に「焦が(る)」意を掛ける。 【付記】「和泉にある信太の森の楠木の枝が千に別れているように、私は千々に思い乱れて悩んでいる」意。 本文は校註国歌大系(底本は標注本)によるが、「千重」とあるのは「千枝」に改めた。 新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部蔵桂宮旧蔵本)は第三句「くずのはの」。 矢羽の形に似た尾羽根のことかという。 【付記】「矢形尾の真っ白な鷹を手に止まらせて、君の御狩に獲物へ向かわせたことよ」の意。 『後葉和歌集』には「すけまさ」の作として「とやがへるましろの鷹をひきすゑて君が御狩にあはせつるかな」というよく似た歌を載せる。 つがいのいない鴛鴦の独り寝のような我が身が今朝は殊に悲しい。 下を流れる水に、私の影が見えるかどうかと。 【付記】水影に人の面影が見えるのは、その人が自分を想ってくれている証拠であるとの考えに基づく。 【付記】陸奥の歌枕阿武隈川が「逢ふ」の語を含むことから、逢うことを願って流し続ける涙をこの川の水に言寄せたのであろう。 根が長いゆえの称か。 益田の池の名物とされた。 【付記】「ねぬなは」の項目にも同じ歌が引かれている。 この世が辛いものであると、最初に誰が告げ知らせたのだろうか。 【付記】後朝の別れを悲しむ歌。 初花がいよいよ咲きまさることはあっても。 【付記】枕草子の「池は」の章段に「さ山の池は、みくりといふ歌のをかしきがおぼゆるならん」とあり、この歌を指しているらしい。 【付記】「いつの日逢えるかと待ちながら、松の木の苔のように、心乱れて恋するこの頃であるよ」。 新勅撰集に小異歌がある()。 【付記】「根」「音」を掛け、磯馴れ松の根に寄せて、声に出して泣いてしまいそうだと恋の苦しみを訴える。 「風ふけば浪打つ岸の松なれやねにあらはれてなきぬべらなり」(古今集、読人不知)。 「山なしの花」ではないが、遁世するのに適当な山など無いのだ。 【付記】出典は、醍醐天皇の更衣であった近江御息所主催の『近江御息所歌合』。 身を隠すべき山が無いことを「山なし」に掛けて言ったか。 【関連歌】員外2918 興風集 藤原興風(生没年未詳)の家集。 【付記】漢籍の故事に由来し、長寿の霊験があるとされた「菊の下水」の由縁をいぶかってみせた歌。 新古今集入撰。 【関連歌】中1831、中2012、下2246、員外3376 貫之集 紀貫之 八六八頃~九四五頃 の家集。 それほど春も更けたのだから、花が散る恨み言は風に負わせないでほしい。 【付記】田植の遅い山間部でも土を耕す季節となり、風が吹かなくても花が散るのは当然として、風を弁護した。 延喜六年 九〇六 、醍醐天皇の命により奉った、月次屏風のための歌。 第二句「今はかへすを」として載せる本もある。 【付記】延喜十七年 九一七 、醍醐天皇の命で詠んだ歌二十四首のうち。 荒れた宿に、足が遠のいた恋人を思って砧を打つ女を詠む。 「たがためにかは」は『白氏文集』巻十九の「聞夜砧」、「 誰 たが 家 いへの 思婦 しふぞ秋に 帛 きぬを 擣 うつ」に拠るか。 「中国詩で擣衣は留守の夫を偲ぶ女の行為であるが、砧に衣をのせて打つと衣を返しながら打つことになるので別れている人を呼び寄せる呪術になる」(和漢文学大系『貫之集』二五番歌脚注)。 【付記】「神まつる時」は、普通初夏(陰暦四月)か仲冬(陰暦十一月)。 この場合は後者。 神祭る季節なので、榊葉すなわち常緑樹の葉だけは散らずにいると言う。 【関連歌】下2388 雨ふらん夜ぞおもほゆる久方の月にだに来ぬ人の心を 【通釈】雨が降る夜なぞ当然予想できる。 月夜にさえやって来ない人の心情を。 【付記】「延喜の末よりこなた延長七年よりあなた、うちうちの仰にてたてまつれる御屏風の歌廿七首」と詞書された歌群の一首。 【付記】「天慶二年四月右大将殿御屏風の歌廿首」の一首。 風雅集に入集。 毎秋欠かすことなく、植えて見るのだ。 【付記】菊の花に長寿を祈る。 下句は反語。 天慶二年 九三九 閏七月、右衛門督殿(源清蔭)の屏風のために作った十五首のうち。 『古今和歌六帖』の「(九月)九日」に、また新古今集巻七賀歌に「延喜御時屏風歌」として採られている。 【付記】初夏の神祭り。 「木綿しでて」とは、木綿を注連縄などに垂らしての意。 天慶二年 九三九 、藤原敦忠家の屏風のために詠んだ歌。 山人が今(夕暮の山道を)帰ってゆくのにちがいない。 【付記】天慶六年 九四三 、藤原忠平女貴子の四十賀を祝う屏風歌十二首のうち、霜月(陰暦十一月)の歌。 柴刈りを終えた帰途山人が口ずさむ歌に世の泰平を聞く。 但し「あそぶ」を神楽歌の採物「杖」の「逢坂を今朝越え来れば山人の我にくれたる山杖ぞこれ山杖ぞこれ」を奏することと解する説もある(和歌文学大系十九『貫之集』)。 【付記】「むもれ木」は土中や水中に久しく埋れている木。 不遇の身の喩え。 「歎き」の「き」に木の意を掛ける。 【関連歌】下2161 躬恒集 凡河内躬恒 おおしこうちのみつね 生没年未詳 の家集。 躬恒は古今集の撰者の一人。 山里はいつ頃になったら春が来たと知るのだろうか。 【通釈】秋の野に咲く萩の白露を今朝見ると、玉を敷き詰めたのかと驚いてしまった。 【付記】『古今和歌六帖』の「つゆ」の部に載る。 また後撰集には初二句「秋の野におく白露を」として入撰。 【関連歌】上1338 頼基集 大中臣頼基 八八四頃~九五八頃 の家集。 秋も終りの頃になったのだろうか。 【付記】「おくて」は「置く」「 晩生 おくて 」と掛けて言う。 「朝露のおくての山田かりそめにうき世の中を思ひぬるかな」(古今集、貫之 )。 詞書の「寛平の御時」は正確でなく、宇多法皇の御殿のための屏風歌である。 玉葉集に詞書「亭子院御屏風に」として入集。 【関連歌】員外2831 元良親王集 陽成院の第一皇子、元良親王 八九〇~九四三 の家集。 「色好み」として知られた親王の歌物語風の歌集である。 【付記】「標ゆふ」は領有のしるしに縄などを張ること。 本歌は「ゆく水に数かくよりもはかなきは思はぬ人を思ふなりけり」(古今集、読人不知)。 続古今集に元良親王の歌として採られているが、『元良親王集』の詞書からすると藤原仲平邸の侍女「いはや君」が親王に贈った歌と考えるべきであろう。 【関連歌】上0371 中務集 伊勢の娘、中務 九一二頃~九九一頃 の家集。 泉の水をすくい取る掌にまで、秋の涼しさが伝わるよ。 【付記】「下くくる水」は地下水。 家集の題「いづみ」からすると、屏風歌であろう。 和漢朗詠集などにも見え、早くから秀歌と認められていたが、勅撰集には漏れ続け、南北朝時代の新千載集にようやく掬われた。 【関連歌】下2118 信明集 後撰集初出の歌人源信明 九一〇~九七〇 の家集。 【付記】天暦八年 九五四 、中宮七十賀の屏風歌。 新拾遺集・歌枕名寄などにも採られている。 【関連歌】中1922 源順集 源順 九一一~九八三 の家集。 かなしびの涙かわかず、古万葉集の中に沙弥満誓がよめる歌の中に、「世の中をなににたとへん」といへることをとりて、かしらにおきてよめる歌十首 世の中を何にたとへんあかねさす朝日さすまの萩のうへの露 【通釈】この世を何に喩えようか。 朝日が射すまでの間の、萩の上に置いた露のようなものだ。 【付記】応和元年 九六一 に幼い娘と息子を相次いで亡くした時、沙弥満誓の歌()の歌の句「世の中をなににたとへん」を頭に置いて十首の歌を作った、その最初の一首。 のち『新千載集』に採られた。 【関連歌】上1464 能宣集 大中臣能宣 九二一~九九一 の家集。 能宣は伊勢神宮祭主、正四位下神祇大副。 後撰集の撰者。 三十六歌仙、梨壺の五人の一人。 【付記】「裁つ」「着て」「綾」と、衣の縁語で織り成した。 秋だというので、風の心も改まったのだった。 【付記】「うちつけに」は唐突にの意。 秋になって風の心も改まったと言う。 【関連歌】上0938 和泉式部集・和泉式部続集 和泉式部 九七六頃~一〇二七以後 の家集。 【付記】男の訪れが絶えた家の荒廃した冬庭。 【付記】題詞は『和漢朗詠集』無常の部に載る羅維の詩。 訓み下せば「身ヲ観ズレバ岸ノ額ニ根ヲ離レタル草、命ヲ論ズレバ江ノ頭ニ繋ガザル舟」。 その一字づつを頭において詠んだ連作四十三首の一首。 何のために打ち払いなどしようか。 【付記】題詞については前歌参照。 男の訪れが絶えて、塵の積もった枕。 掃い清めることにも虚しさを感じる自嘲。 【付記】「数ならで」とは「数にも入らない身で」。 「ならぬ恋」は「実らぬ恋」。 「異になる」とは、以前とは違ったさまになることで、子が僧形になったことを暗に言う。 【参考】「たらちめはかかれとてしもうば玉のわが黒髪をなでずやありけん」(後撰集一二四〇、遍昭)。 【付記】仏門に入った子(おそらく帥の宮との間の子)が、剃った髪の切れ端を贈って来たのに対して詠んだ歌。 【関連歌】上0276 大弐三位集 紫式部の娘、大弐三位 九九九頃~一〇八二頃 の家集。 氷柱が下がっている峰の早蕨も萌えたというのに、まだ若草の 夫 つま は野に籠っているのでしょうか。 【付記】藤原定頼が「雪の下草のようにひそかに思いを籠めている」と初めて恋文を贈って来た。 それに対し大弐三位は「峰の早蕨が萌えたように私の心も燃えているのに、まだ若草の 夫 つま は野に籠っているのか」と返した。 16番の歌は風雅集に大弐三位の歌とするが、藤原定頼の作とするのが正しい。 【本歌】「春日野は今日はな焼きそ若草のつまもこもれり我もこもれり」(古今集、読人不知)、「伊勢物語」第十二段) 【関連歌】中1503 故侍中左金吾家集 源頼実 一〇一五頃~一〇四四頃 の家集。 頼実は和歌六人党の一人。 見ているうちに、冬の夜の月は時雨の雲に覆われて見えなくなってしまう。 【付記】第二句「空にもあるな」は不審であるが、『新編国歌大観』に従う。 【関連歌】上0088 四条宮下野集 後冷泉天皇皇后、四条宮寛子の女房を勤めた四条宮下野 生没年未詳 の自撰家集。 成立は延久二年 一〇七〇 頃かという。 【付記】京東郊の白川に遊んだ時、山の上の庵が中納言宣旨(上東門院に仕えた女房か)の住居と知って贈った歌「たづねつる山川水のはやくよりすむらん人の心をぞくむ」への返歌。 「よししげ」は不明。 「かきた(り)」かという(岩波新古典大系注)。 【関連歌】上0393 大納言経信集 後冷泉朝歌壇・堀河朝歌壇において指導的立場にあった歌人、源経信 一〇一六~一〇九七 の家集。 【付記】承保三年 一〇七六 、白河天皇の大井川行幸に供奉しての作。 「いにしへの跡」とは、延喜七年 九〇七 九月の宇多法皇の大井川行幸のことを言う。 水面に浮かんだ紅葉を船になぞらえ、船出の用意をしていると見た。 因みに、この時経信に対し詩歌管弦の三舟のいずれに乗るかと天皇の仰せがあり、管弦の舟に乗って詩歌を献じたと伝わる(『袋草紙』『古今著聞集』など)。 【関連歌】中1841 六条修理大夫集 藤原 顕季 あきすえ 一〇五五~一一二三 の家集。 顕季は白河院の近臣として活躍し、正三位修理大夫に至る。 歌道家六条藤家の祖。 【付記】本歌は拾遺集の実方詠「五月闇くらはし山の時鳥おぼつかなくも鳴き渡るかな」。 この「おぼつかなく」を「さやけき」に転じ、「暗い」意が響く歌枕の名との対照に興じた。 元永元年 一一一八 五月、右近衛中将源雅定が主催した歌合に出詠した歌。 【関連歌】上0025 散木奇歌集 源俊頼 一〇五五頃~一一二九頃 の家集。 その影を、そのまま折り取ることができたらよいのに。 【付記】関白忠通邸で「夏夜の月」の題を詠んだ歌。 【付記】保安二年 一一二一 九月十二日、藤原忠通主催の関白内大臣家歌合に出詠した歌。 「今宵」は十三夜。 「わが心なぐさめかねつ更科や姨捨山に照る月を見て」「木の間よりもりくる月のかげ見れば心づくしの秋は来にけり」の古今集二大名歌を取り込んでいる。 【関連歌】員外2802 行宗集 従三位大蔵卿源行宗 一〇六四~一一四三 の家集。 行宗は参議源基平の子で行尊大僧正の弟。 崇徳院歌壇で活動した。 【付記】「ふる野」に「降る」「布留野」を掛ける。 「三島菅笠」は三島江の菅で編んだ笠。 万葉集に見える語。 堀河百首題による崇徳天皇初度百首(完本は散逸)として詠まれた歌。 制作は永治元年 一一四一 の崇徳天皇譲位以前。 【関連歌】上0416 俊頼髄脳 源俊頼 一〇五五頃~一一二九頃 の歌論・歌話集。 天永二年 一一一一 から永久元年 一一一三 の間頃に成立したかという。 本文は新編日本古典文学全集による。 女 むすめ に、男あはせたりけるが、 失 う せにければ、また、 異 こと 人に、婿とらむとしけるを、むすめ聞きて、母にいひけるやう、「男に、具してあるべき 末 すゑ を、あらましかば、ありつる男ぞあらましか。 さる 宿世 すくせ の、なければこそ死ぬらめ。 たとひ、したりとも、身のくせならば、またもこそ、死ぬれ。 さること 思 おぼ しかく」などいひければ、母聞きて、おほきに驚きて、父に、語りければ、父、これを聞きて「我死なむこと、近きにあり。 さらむ 後 のち には、いかにして、世にあらむ」とて、「さる事は、思ひよるぞ」とて、なほ、あはせむとしければ、むすめの、親に申しけるは、「さらば、この家に巣くひて、こ生みたるつばくらめの、男つばくらめを、取りて殺して、つばくらめに、しるしをして、はなち給へ。 さらむに、またの年、男つばくらめ 具 ぐ して、来たらむ折に、それを見て、思し立つべきぞ」といひければ、げにもと思ひて、家に、こ生みたる、つばくらめを取りて、 男 を つばくらめをば、殺して、 女 め つばくらめには、首に、赤き糸を、付けてはなち、つばくらめ帰りて、またの年の春、男も具せで、ひとり、首の糸ばかり付きて、まうで来たれば、それを見てなむ、おやども、また、男あはれむの心もなくて、やみにけり。 むかしの、女の心は、 今様 いまやう の、女の心には、似ざりけるにや。 つばくらめ、男ふたりせずといふこと、 文集 もんじふ の文なりとぞ。 【大意】かぞいろは…(両親は寡婦の私を可哀想と思うだろう。 しかし燕ですら、ひとりの夫としか契らないというのに) 昔、ある男親が、夫を失くした娘に新たな婿を取ろうとしたが、娘は「私に一生添い遂げる縁がなかったので夫は死んだのです。 また結婚したところで、それが私の運命であれば、また夫は死ぬでしょう」と言うので、父親は「私の寿命も長くないのに、どうやって生きてゆくつもりだ」と言い、やはり結婚させようとした。 すると娘は「それでは、我が家に巣を作る燕の雄を捕まえて殺し、雌には首にしるしを付けて放して下さい。 来年、別の雄を連れて来たら、その時には私も結婚を考えましょう」。 尤もだと父親は思い、雄の燕を殺し、雌には赤い糸を付けて放した。 翌春、赤い糸を付けた雌燕は独りで帰って来た。 そこで両親も娘を結婚させるのは諦めたのだった。 【付記】『今昔物語集』などにも見える話で、当時はよく知られた歌説話であったらしい。 俊頼は「文集の文なり」と言うが、『白氏文集』には見えず、『和歌童蒙抄』によれば出典は『南史』の記事である。 ただ物がたりに、人の申すは、九重のうちに、朝ぎよめする者の、庭はきたてる折に、にはかに、風の 御簾 みす を吹きあげたりけるに、 后 きさき の、物めしけるに、 芹 せり と見ゆる物を、めしけるを見て、人知れず、物思ひになりて、いかで、今ひと度、見たてまつらむと思ひけれど、すべきやうもなかりければ、めしし芹を思ひいでて、芹を摘みて、御簾の、風に吹きあげられたりし御簾のあたりに、置きけり。 年を 経 ふ れども、させるしるしも、なかりければ、つひに、病になりて、失せなむとしけるほどに、めにもあきらめで死なむが、いぶせさに、「この病は、さるべきにてつきたる病にあらず。 しかじかありし事によりて、物思ひになりて、失せぬるなり。 我を、いとほしと思はば、芹を摘みて、功徳につくれ」と、いきのしたにいひて、失せはてにけり。 その 後 のち 、いひおきしごとくに、芹をつみて、仏にまゐらせ、僧にくはせなどぞしける。 それがむすめの、その宮の女官になりて侍りけるが、この物がたりをしけるを、聞こし召して、あはれがらせ給ひて、「我こそ、芹をばくひて、さる者には見えたりしやうにはおぼゆれ」と、のたまひて、その女官を常に召して、あはれにせさせ給ひける。 その后、嵯峨の后とぞ申しける。 【大意】芹つみし…(芹を摘んで捧げたという昔の人も、私のように、恋が心に叶わなかったのだろうか) これは物の本によれば「献芹」の故事の典拠かと疑われるが、はっきりしない。 ただ、物語に人の申すところでは、宮中で朝の掃除をする者が庭を掃いていた時、急に風が御簾を巻き上げ、皇后が芹のようなものを召し上がっているところを見てしまった。 それから男は恋に落ち、もう一度お姿を拝見したいと思うけれども、なすすべもない。 召し上がっていた芹を思い出して、摘んで来ては、風に吹き上げられた御簾のあたりに置いておいたのだった。 何年か経ったけれど、これといった報いもないので、とうとう男は病に倒れ、死にそうになった。 目で確かめられずに死ぬのが辛くて、「しかじかの事情があり、私は恋の病で死ぬのだ。 気の毒に思うなら、芹を摘んで、私への功徳とせよ」。 虫の息にそう言って死んでしまった。 娘は遺言通り芹を摘んで仏にお供えするなどしたが、その後皇后の女官として仕えるようになり、亡父の話をしていたのを、皇后がお耳に入れて、同情なさり、「その芹を食べていたのは私だと思う」と仰って、その女官を常にお側に召してお可愛がりになった。 その皇后は「嵯峨の后」とおしゃった。 【付記】「献芹」の故事にかかわる歌についての説話である。 「嵯峨の后」は橘嘉智子。 【関連歌】上1124 俊忠集 俊成の父、定家の祖父にあたる藤原俊忠 生年未詳~一一二三 の家集。 【付記】「つらさ」は相手の薄情さ。 あまり深く思うまいと我慢しても、身の程を知る涙雨が溢れるほど降ると言うのである。 「身をしる雨」は古今集業平詠「かずかずに思ひ思はずとひがたみ身をしる雨はふりぞまされる」による。 康和四年 一一〇二 閏五月の『堀河院艶書合』の小大進の歌で、これに対し俊忠は「思はずにふりそふ雨のなげきせば三笠の山をかけてちかはむ」と返している。 【関連歌】上1342 忠盛集 清盛や忠度の父、平忠盛 一〇九六~一一五三 の家集。 没後近親者による編と見られる。 「いさや」は「さあどうか」程の意。 「しら波の」は次句「たちかへりなん」を言い起こす序のはたらきもする。 【関連歌】員外3552 田多民治集 法性寺殿関白太政大臣藤原忠通 一〇九七~一一六四 の家集。 「 田多民治 ただみち 」は忠通の名の書き換え。 没後の他撰家集か。 このようにして何年を過ごす我が身なのだろうか。 【付記】藤原忠通(1097~1164)が藤原基俊(1060~1142)に贈った歌。 基俊の返歌は「手を折りて経にける年を数ふればあはれ八十路になりにけるかな」とあり(『基俊集』)、基俊の八十歳は保延五年 一一三九 のことで、当時忠通は四十三歳。 続後撰集入集歌。 【関連歌】中1556 和歌一字抄 藤原清輔 一一〇四~一一七七 撰の歌学書。 原撰本は仁平三年 一一五三 頃成立という。 「水上落花」などの結題または複合題を掲げ、それぞれの例歌を集めた書。 少し場所を移りなさい、大和撫子の花よ。 【付記】題意は「 瞿麦 なでしこ 垣に 副 そ ふ」。 むくつけき八重葎の露に濡れるのを哀れんで、撫子の花に語りかける。 【関連歌】上0332 今撰和歌集 顕昭 一一三〇頃~一二一〇頃 撰の私撰和歌集。 成立は、永万元年 一一六五 八月十七日以降、永万二年二月一日以前という(新編国歌大観解題)。 年が明けるとどうやって知るのだろう。 【付記】谷を鶯の宿と見立て、新春、里へ出て来ることを「谷の戸いづる」と言いなした。 「谷の戸をとぢやはてつる鶯の待つに音せで春のすぎぬる」(拾遺集、道長)。 【関連歌】上0902 唯心房集 唯心房こと寂然(生没年未詳)の家集。 成立は応保二年 一一六二 十月以後、仁安二年 一一六七 十二月以前の間とされる(新編国歌大観解題)。 定家の姉、八条院坊門局が書写し、定家が識語した写本が伝存する。 寂然は俗名藤原 頼業 よりなり。 丹後守為忠の四男。 寂超(為経)・寂念(為業)の弟で、いわゆる大原三寂(常磐三寂)の一人。 兄為経の妻(美福門院加賀)は為経が出家したのち俊成の妻となり定家を生んだ。 また寂然の妹も俊成の妻だったので、定家とは近しい関係にあった。 没年は寿永元年 一一八二 以後。 今年も半ばを過ぎたと、荻を吹く風が気づかせるのだろうか。 【付記】初秋を主題に詠む。 「おどろかす」は「はっと気づかせる」意。 【関連歌】下2130 清輔集 藤原清輔 一一〇四~一一七七 の家集。 「原形は、清輔最晩年の頃には成っていたものと思われる」(新編国歌大観解題)。 【付記】冷たい山風が葉を染めることを、紅花染めに寄せて詠んだ。 「おろす」と言うのは、紅花染めは染料を振り下ろすように染めたので、紅に染めることを「吹き下ろす」に掛けて言ったもの。 永暦元年 一一六〇 に自らが主催した歌合に出詠した歌。 【付記】「おほとりの」は「羽易の山」(大和国)の枕詞。 亀井の水を 掬 むす んで交わした約束は。 【関連歌】下2788 奥義抄 藤原清輔 一一〇四~一一七七 の歌学書。 定家著『僻案抄』『三代集之間事』によれば、初め崇徳天皇に奉り、のち追補して二条天皇に奉ったようである。 以下は第三次本を収める歌学大系本による。 はやく見給ふべし。 帝おどろきて其方の山を見給ふに、おほきなるひかりほそくのぼれり。 あしたに人をつかはしてたづね給ふに、使かへりて奏云、ひかりにあたれる所に小山寺并小滝水あり。 又優婆塞ありて経行念誦す。 ゆゑをとふにこたへず。 その操行を見るに、奇偉者といひつべし。 帝そのところに幸、優婆塞いでむかひ奉れり。 此山の名をとひ給ふに、奏云、古仙霊窟伏蔵の地、 佐々名実 ささなみ 長等 ながら 山といひてうせぬ。 其所に伽藍をたてらる。 今の崇福寺是也。 (奥義抄下・問答四) 【大意】仏寺の適地を探していた天智天皇は、大津の宮の北西の山に霊窟があるとの夢告げを得た。 目覚めて山を見れば大きな光が細く立ちのぼっている。 翌朝、人を遣わすと、光の当たる所には小さな滝があり、優婆塞(男子の仏教信者)がいたと言う。 天皇はその山に行幸し、優婆塞に山の名を問うと「ささなみの長等山」と言って姿を消した。 天皇はその地に崇福寺を建てた。 【付記】「近江をささなみと云ふこと、又いかに」の問いに答えた一節より、崇福寺建立の由来を語る伝説。 「日本紀云」とあるが、日本書紀には見えない話である。 【関連歌】下2358 源三位頼政集 源頼政 一一〇四~一一八〇 の家集。 「内部徴証により、安元・治承 一一七五~一一七八 頃、三位に叙されたのを機に、あるいは、出家を志した折に自撰し、仁和寺守覚法親王に進献されたものかと推測されている」(和歌文学辞典)。 【付記】広沢の池のほとりの遍照寺で月を見、古人を偲ぶ。 第十八代勅撰集である新千載集に採られている。 【関連歌】上0835、中1513 教長集 藤原教長 一一〇九~一一八〇頃 の家集。 教長は大納言忠教の子。 参議に至るが、保元の乱に連座し、出家。 崇徳院歌壇で活躍し、歌学書なども残した歌人。 【付記】詞書の「おなじこころ」は「忍恋」を指す。 忍草の生える家で男を待つ女の身になって詠んだ歌。 「ふる屋」に「経る」「古屋」と掛けて言う。 【付記】保延五年 一一三九 ~永治元年 一一四一 頃の成立とされる崇徳院初度百首。 「野中の清水」は古今集八八七を証歌として盛んに詠まれたが、いかなる由緒のある清水なのか不明である。 【関連歌】中1838 重家集 藤原重家(一一二八~一一八〇)の家集。 治承二年 一一七八)の自撰。 重家は六条藤家顕輔の子。 清輔の弟。 有家の父。 従三位大宰大弐に至る。 【関連歌】上0274 月詣和歌集 寿永元年 一一八二 十一月、賀茂重保が祐盛法師の助力を得て成立したと言われ、賀茂別雷社に奉納された。 全十二巻千二百首(現存伝本は一部欠落)。 藤原俊成を始め、徳大寺実定・俊恵・西行・小侍従など現存歌人の作を集める。 定家の歌も九首採られている。 【付記】去年と今年の間を隔てるのがたった一夜であることを訝しむ。 『実国集』には詞書「たつはるの心を」とある。 【付記】野焼きした荻原に、春再び芽が萌え出て、放たれた馬が夢中で喰っているさまであろう。 「ひき」は駒の縁語。 作者は守覚法親王。 【付記】「朝日山」は山城国の歌枕。 宇治川のほとりの山で、貴族の山荘が営まれた。 その藪の下の残雪を、我が身の命になぞらえた。 作者の大江 公朝 きみとも (生没年未詳)は鎌倉初期の検非違使。 後白河院の院使としてたびたび鎌倉に下向したが、正治元年 一一九九 頼朝死去後、反乱事件に関わって勘当を受けた。 掲出歌は養和元年 一一八一 、反平家方として解官され籠居していた頃の作か。 「朝日」山の名により、今にも雪が消えそうなことが暗示される。 【付記】「星をいただ」くとは、内裏に精勤することに、白髪がまじる意を兼ねる。 藤原経家 一一四九~一二〇九 は千載集初出の歌人。 六条家重家男。 『経家集』の詞書には「右大臣家百首、述懐」とあり、治承二年 一一七八 兼実主催の百首歌に詠んだ歌。 【関連歌】下2700 林葉和歌集 歌僧 俊恵 しゆんえ 一一一三~一一九一 の家集。 原型の成立は治承二年 一一七八 八月二十二日、俊恵自撰による。 【付記】「薄、路に当たりて 滋 しげ し」の題で詠んだ歌。 繁みの中を行く人の袂を飛び越えて、鶉が飛び立つ。 「袂」はあるいは花薄の穂の喩えか。 【付記】源師光(生没年未詳)の家で詠んだ歌。 忙しなく鳴く機織虫が、秋のうちに機を織り上げる約束をしたかと興じた。 【付記】冬になっても咲き残っている菊を詠む。 白菊は霜に逢うなどして衰えると紅や紫色に変色する。 そこに再び降りた霜が花を白く「おきかへす」というのである。 日数が残り少なくなって、年の果ては悔いが残る。 【付記】治承二年 一一七八 右大臣家百首。 歳末になって知る日数の惜しさ。 現実に憂鬱な恋は、夢においても憂鬱に、現実に苦しい恋は、夢においても苦しく見えないものだろうか。 そんなことはないのだ。 【付記】源雅道 一一一八~一一七五。 一一六八年、内大臣正二位兼右大将)の家の十首歌会で詠んだという歌。 現実に憂鬱な恋は、夢においても憂鬱に、現実に苦しい恋は、夢においても苦しく見える。 ならば夢だけを「はかなし」などと言えるだろうか。 【付記】我が身は年老いても、昔の恋人の面影は若々しいまま。 寿永元年 一一八二 十一月の『月詣和歌集』にも採られている。 【付記】「ふし」は「臥し」「節」の掛詞で、「節」は竹の縁語。 「ふしも定めぬ」とは、安眠できないことを言う。 治承二年 一一七八 五月の右大臣家百首。 今はただ白雲を目指して進むばかりである。 【付記】治承二年 一一七八 の右大臣兼実家百首。 振り返ってももはや都は見えず、ただ白雲に向かうしかない旅人。 【関連歌】下2559 長秋詠藻 定家の父藤原俊成 一一一四~一二〇四 の家集。 治承二年 一一七八 夏、仁和寺宮守覚法親王の召により自撰したものであるが、のち後人により増補がなされた。 【付記】時鳥を憧憬する余り、飛び去ったあとも「添へて遣る」心、言わば我が身の分身によって時鳥の声を聞き続けたいとの願いである。 「秋の夜の月まちかねて思ひやる心いくたび山をこゆらむ」(詞花集、嘉言)。 【付記】「思ひ」の「ひ」に火を掛け、軽い気持で始めた恋が、やがてのっぴきならない恋へと進展する危惧を詠む。 このことを思えば、聖代に生まれ合わせたのは嬉しいけれども、川淀に掛かって沈んだ埋れ木のように不遇なことは、三代沈淪したという唐人の歎きにも劣らない我が身の程を思えば悲しいことです。 代々栄える藤原氏の如何なる末裔なのでしょう。 〔反歌〕谷川の瀬々に浮ぶ泡のようにはかない私の詠草が消えずに残るならば、後の世の人に知られる我が名が口惜しく思われます。 【付記】「五つの品に 年ふかく 十とて三も 経にしより」は、十三年間五位の地位に留め置かれたことを言う。 俊成は大治二年 一一二七 十四歳で従五位下に叙されたが、以後長く五位のままで、四位に昇叙されたのは十四年後の久安七年 一一五一 正月のことであった。 「唐人の 三代まであはぬ 歎きにも」は『和漢朗詠集』の「齢亜顔駟。 過三代而猶沈」(齢は顔駟に 亜 つ げり、三代を過ぎてなほ沈めり)に拠る。 久安六年 一一五〇 に成った崇徳院主催『久安百首』に出詠した百首歌の末尾。 題に「短歌」とあるのは、当時は長歌を誤って短歌と呼んでいたことによる。 自身の詠草を遜る裏で崇徳院の恩顧をひたすら願う心に貫かれた一首である。 歌人として崇徳院に引き立てられた頃から、俊成の人生はようやく軌道に乗り始めたのであった。 消え入りそうになりながらも耐えている私ほどには。 【付記】保延六 1140 、七年頃の堀河百首題による「述懐百首」。 四季題や恋題にも述懐の心を籠めた、特異な百首歌であり、俊成二十代の記念碑的な百首歌である。 逝く秋を是非もなく惜しんだことよ。 【付記】保延六 1140 、七年頃の堀河百首題による「述懐百首」。 【付記】保延六 1140 、七年頃の堀河百首題による「述懐百首」、冬。 自身の不遇を神に訴えたい心が、里神楽をも「かごと」すなわち恨み言のように聞こえさせるというのである。 【付記】心中だけでも世を捨てて閑静に暮らしたいとの心。 保延六 1140 、七年頃の堀河百首題による「述懐百首」。 続後撰集に入集。 岸に咲く卯の花に追風が吹いて、寄せる白波を増やすかのようだ。 【付記】風になびく岸辺の卯の花を白波に見立てる。 『和漢朗詠集』の「朝南暮北 鄭太尉之渓風被人知」()を本説とする。 制作年などは未詳。 【付記】鵲が翼を並べて天の川に橋を渡すという伝説を、二星の比翼の誓いに結び付けた趣向である。 「七月七日長生殿 夜半無人私語時 在天願作比翼鳥 在地願為連理枝」(白氏文集・長恨歌 )。 嘉応元年 一一六九 の刑部卿藤原頼輔が催した歌合に出詠した歌。 神代にもこれを見られたか。 天空も海もひとつにして澄み渡る、住の江の月を。 【付記】広大な時空の中に澄む月の光。 地名「住の江」に「澄み」の意を掛ける。 題詞の「左大将」は藤原実定 一一三九~一一九一。 「長寛三年 一一六五 四月以前の歌林苑歌会のための歌稿を実定のもとに送ったものか」(和歌文学大系注)。 続千載集入集歌。 【付記】「木の葉時雨」は落葉を時雨に譬えた成語でもあるが、ここは「木の葉・時雨」の二語である。 落葉と時雨を比べ、いずれも降る音が似ており、涙と雨とで袖が濡れる点も同じだとして、区別できないものと見なした。 嘉応元年 一一六九 、藤原頼輔が催した歌合。 この川の流れは、幾世にわたって澄み続けるのだろうか。 【本歌】「ちはやぶる宇治の橋守なれをしぞあはれとは思ふ年のへぬれば」(古今集、読人不知) 【付記】一つ前の歌の詞書に「同人宇治にて河水久澄といふ題を講ぜらるべしとて、或人のよませし時、代りて」とあり、嘉応元年 一一六九 十一月、摂政基房の宇治別業における歌会で、俊成が代作した歌と知れる。 【付記】仁安元年 一一六六 、大嘗会において悠紀方の歌を奉るよう命じられて作った「悠紀方御屏風六帖和歌十八首」より、門松を多く立てた「吉身村」(今の滋賀県守山市という)の屏風に添えた歌。 地名の「よしみ」に「良し」の意を掛ける。 (俊成)あなたの墨染でない袖でさえ、色が変わってしまったとお聞きします。 ましてや私の袖の涙の色がどれほど深いか、知って頂きたいものです。 【付記】永暦元年 一一六〇 十一月二十三日、鳥羽上皇の皇后美福門院が崩御し、三七忌(死後二十一日目の仏事)の日、喪服の人々が多数参り、法会が終わった時、清輔が懐紙に書きつけた歌と、俊成の返歌。 墨染の喪服が紅涙によって色を変えるという趣向は、『匡房集』の「いろいろに思ひこそやれ墨染の袂も朱になれる涙を」など、いくつか先蹤がある。 【付記】康治年間(西暦1142~1144年)に待賢門院の中納言(女房名)に報贈した法華経二十八品題詠の一。 美しい色や形あるものは、永続しない、はかないものであったよ。 【付記】『長秋詠藻』では康治年間(西暦1142~1144年)に待賢門院の中納言(女房名)に報贈した法華経二十八品題詠に続けて載っており、同じ頃の作か。 「色即是空々即是色」(般若心経 )。 鈴鹿川は数多くの渡り瀬も判別できなくなってしまった。 【付記】「やそ瀬」は支流の浅い小川の多いさま。 五月雨によって、数多いはずの渡り瀬も判別できなくなってしまったと言うのである。 治承二年 一一七八 五月の『右大臣家百首』。 新勅撰集に採られている。 【付記】「みあれひく」とは、御阿礼木(神木の榊)にかけた綱を引くこと。 文治六年 一一九〇 正月、九条兼実女任子が後鳥羽天皇に入内するに際し詠進した屏風和歌の一首。 【関連歌】上0623 山家集 西行 一一一八~一一九〇 の家集。 自撰と推測され、成立は不詳であるが、仁安二年 一一六七 頃までに原型ができたかという。 最晩年の作は含まない。 濡れながら摘もう。 竹籠に腕を差し入れて。 その柄に腕を差し入れて。 【付記】「『ひとり』の自負を表現し、更に同心者を希求する」(和歌文学大系注)。 釈迦入滅のその時節、二月の満月の頃に。 望むところは。 釈迦入滅の日は二月十五日と伝わる。 【付記】いつの作とも知れない。 『西行物語』などは晩年東山の双林寺に庵していた時の作とする。 いずれにせよ「春死なむ」の願望が現実と化したことで、この歌は西行の生涯を象徴するかの如き一首となった。 因みに西行の入寂は文治六年 一一九〇 二月十六日。 我が国の陰暦二月中旬は恰も桜の盛りの季節であり、しかも十六日がまさに満月に当たった。 西行往生の報を聞いた都の歌人たちは、この歌を思い合わせて一層感動を深めたのだった。 なお第二句は「花のもとにて」で流布し、『古今著聞集』『西行物語』などでもこの形で伝わるが、「花のしたにて」が正しいようである。 初め新古今集に採られたらしいが、切継の過程で除かれ、のち続古今集に入集した。 老木は花もしみじみとした趣がある。 この木も私も、あと幾度春に巡り逢うことができるだろう。 【参考】「身をつめば老木の花ぞあはれなる今いくとせか春に逢ふべき」(清輔集 先後関係は不明) 【付記】桜の老木に花がそこかしこ咲いているのを見て、そのさまに自身の老境の感慨を重ね合せた歌。 『山家集』も『西行法師家集』も春の部に載せるが、続古今集は老年述懐歌として雑部に載せている。 【付記】『山家集』の桜花詠の末尾に置かれた歌群の一首。 「まうし」は「まほし」の対義の助動詞とも。 【付記】「霧の籬」に籠められた花すすきの群。 【付記】吹き始めた秋風によって、貫き留めていた露はこぼれ落ちる一方、露が落ちた草の葉は風に結び付けられる。 秋の野の二つの小景を上下に配し、その対照に興趣を見ている。 新勅撰集入集歌。 【付記】『山家集』の同題七首のうちの第二首。 だしぬけに。 「惜しくなる」に掛かる。 【付記】『山家集』の同題七首のうちの第五首。 『西行法師家集』では「月」と題した二十八首の歌群のうち。 小倉の里に庵を結んでからというもの。 【付記】嵐山の法輪寺に籠もっていた時に詠んだという歌六首のうち。 山里の垣根の雑木を埋めている白雪は。 桜の花が、風のまにまに散る心弱さを。 【付記】風に「したが」ってたやすく散る花に寄せて、言い寄っても折れてくれない恋人を恨む。 この心の果てはどうなるのか、知る手立てがほしいものだ。 【付記】恋の部の「月」と題された歌群にあり、月に寄せて恋心を詠むか。 【付記】須磨の関に寄せて、恋心を何とか押し止めたいとの願いを詠む。 山家集中巻の恋部、「恋」と題された大歌群の一首。 【付記】近衛天皇が十七歳で夭折したのは久寿二年 一一五五 秋。 船岡に葬送し、火葬塚を築いた。 その墓に詣でた時の作かという(和歌文学大系注)。 【付記】法華経の提婆品(提婆達多品)、幼い竜女が「宝珠」を仏に献上し直ちに成仏したとの条に拠る。 【付記】般若心経を題に詠む。 【付記】四天王寺に籠っていた俊恵が、人々を伴って住吉に参って歌を詠んだ時、西行も従って詠んだ歌。 続拾遺集の神祇歌に採られている。 大和国の歌枕。 奈良県の吉野地方の山々。 桜の名所。 【付記】『山家心中集』では巻頭歌。 当時の和歌の常識からすると、立春の日に心を寄せるべき風物は梅や鶯。 ところが西行は既に吉野の桜に思いを馳せているのである。 『西行法師家集』の吉野を詠んだ歌群の中には「春ごとに花のさかりに逢ひ来つつ思ひ出おほき我が身なりけり」(一本初句「春をへて」)という歌があり、西行が毎春のように吉野を訪れていたことが知られる。 深仙は釈迦ヶ岳と大日岳の間にある行場。 【付記】大峰の厳しい修行場において眺めた月の美しさとは、修行によって至り着いた、澄み切った境地の象徴でもあろう。 それに比べれば、現世の楽しい思い出など物の数ではない、というのである。 上句を「ふかき山の峰にすみける月見ずば」とする本もある。 『山家集』では雑の部にあるが、風雅集では秋歌中の巻に収め、詞書は「月をよめる」。 それ以外は、野の美しい風物を全てあなたにお見せすることですよ。 (西行)鹿が立って鳴いていた野の、美しい錦の切れ端を贈って頂いたのですね。 鹿の声が聞けないのは、ひどく心残りです。 【付記】西山の麓(嵯峨野あたりか)に住んでいた忍西に、西行が「秋の花がどれほど面白いでしょう」と手紙を送ると、その返事に、忍西は野の花々と一緒に歌を贈って来た。 鹿の音以外は「野べをみな見する」と。 対して西行は、花々を「錦のきれはし」と言って(やや皮肉を籠めつつ)賞美し、実際に見聞きすることが出来ず残念だと応じた。 「鹿のたつ」の「たつ」には「裁つ」意が掛かり、鹿が立っているところだけ錦が裁ち切れている、といった情景も浮ぶように作られている。 【付記】俊成が千載集の編者になったことを聞いて、歌を贈った折に詠んだ歌。 俊成の返歌は「世をすてて入りにし道の言の葉ぞあはれも深き色もみえける」。 俊成の返歌と共に続拾遺集に採られている。 【関連歌】下2586 西行法師家集 山家集とは別系統の西行の家集。 「異本山家集」とも称される。 助動詞「て」(「つ」の未然形)と「む」はいずれも仮定の用法。 【付記】那智に籠って修行していた時、花の盛りに那智を出て行った人に届けさせたという歌四十五首のうちの一首。 【付記】摂津国鳴尾(兵庫県西宮市に鳴尾の地名が残る)で松風の音を聞いて詠んだという歌二首のうち第二首。 もう一首は「つねよりも秋になるをの松風はわきて身にしむ物にぞありける」。 生きている間に身を捨てて出家してこそ、我が身を救い、往生することもできましょう。 【付記】保延六年 一一四〇 、北面の武士として仕えた鳥羽院に、出家による辞職を申し出た際の歌。 西行二十三歳。 『山家集』には見えない。 玉葉集に入撰。 初句「をしむとも」、結句「身をばたすけめ」「身をばたのまめ」とする本もある。 独り心の月を澄ますように修行に励まれて。 拙い我が身はまだ山陰に沈んでおりますが、心に浮かぶ月(煩悩を脱したこと)をお見せしたいものです。 【付記】無動寺に住んでいた慈鎮(慈円)のもとに贈った西行の歌と、これに答えた慈鎮の歌。 【関連歌】上0656 林下集 後徳大寺実定 一一三九~一一九一 の家集。 成立は治承末年頃 一一八〇頃 、自撰かと言う(新編国歌大観解題)。 【付記】『白氏文集』の「逐処花皆好 随年皃自衰」()を踏まえる。 【関連歌】員外3204 登蓮法師集 登蓮法師は生没年・出自等未詳。 歌人としては、俊恵の歌林苑の会衆の一人として活動した。 家集『蛍雪集』があったらしいが、散逸した。 伝存する『登蓮法師集』は『中古六歌仙』収録の登蓮作歌を分離独立させたもの。 中古六歌仙のほか、『歌仙落書』でも歌仙の一人とされている。 【付記】『中古六歌仙』に登蓮の代表作として採られている。 【関連歌】上0530 二条院讃岐集 二条天皇や宜秋門院任子に仕えた二条院讃岐(生没年未詳)の家集。 賀茂重保の勧進による寿永百首家集の一つと考えられ(新編国歌大観解題)、寿永元年 一一八二 頃の成立と思われる。 いつになったら里に馴れて、我が家で鳴くのだろう。 【関連歌】中1791 殷富門院大輔集 後白河院皇女斎宮亮子内親王(のちの殷富門院)に出仕した女房歌人、殷富門院大輔の家集。 「成立年次は文治元、二年 一一八五~六)頃と推定されている」(新編国歌大観解題)。 【参考】「みがくれてすだくかはづのもろ声にさわぎぞわたる井手の川波」(後拾遺集、良暹) 【付記】寿永元年 一一八二 、賀茂重保の勧進による寿永百首の一。 風雅集に入集。 【付記】「心づよく」は「気丈にも」と讃める意にもなるが、ここは非情さを咎める心であろう。 【関連歌】上00150 玄玉和歌集 「玄玉集の成立は建久二~三年 一一九一~二)頃と推定され、撰者には隆寛・上覚説が出ているが確定を見ていない」(新編国歌大観解題)。 全七巻、神祇・天地上・同下・時節上・同下・草樹上・同下という構成。 【付記】中山兼宗 一一六三~一二四二 の家の歌合で「梅」を題に詠んだ歌。 兼宗が左少将であったのは治承三年 一一七九 正月から文治二年 一一八六 三月まで。 冷泉為臣編『藤原定家全歌集』未収録。 【参考】「蒙求」孫康映雪 車胤聚蛍() 【付記】作者は覚忠(一一一八~一一七七)、忠通男。 天台座主。 千載集初出歌人。 その声にも花の薫がするようだ。 【参考】「山里の春の夕暮きて見れば入相の鐘に花ぞ散りける」(能因法師集・新古今集) 【付記】作者の宗円(一一六〇~没年未詳)は熊野別当法眼。 千載集初出歌人。 【関連歌】下2062 長方集 権中納言顕長の子、権中納言長方 一一三九~一一九一 の家集。 長方の母は藤原俊忠の娘なので、定家の従兄にあたる。 【付記】好物の真菰が芽ぐむ春、冬から一変して沢へと勇みゆく馬。 「引きかへて」は「すっかり変わって」の意であるが、「引き」には「牽き」の意が掛かり「駒」の縁語。 【付記】もっぱら和漢朗詠集の「瑶台霜満 一声之玄鶴唳天」()によった発想である。 【関連歌】員外2982 式子内親王集 式子内親王 一一四九~一二〇一 の御集。 三種の百首歌に、六十首前後の歌を補遺した、没後他撰の集である。 所載の式子の歌については同百首の項目を見られたい。 秋のあわれな情趣をその中にすべて押し包むようにして。 (この里も私も、)その霧の底深くに、沈み込んでゆくのだ。 【付記】「前小斎院御百首」。 御集に収められた最初の百首歌の一首。 建久五年 一一九四 五月二日以前の作。 昔を思い出させる、旅中の車座にあって。 【本説】「酔悲灑涙春盃裏」(白氏文集巻十七 ) 「御かはらけまゐりて、酔ひの悲しび涙そそく春の盃のうちともろ声に誦じたまふ。 御供の人も涙をながす。 おのがじしはつかなる別れ惜しむべかめり」(源氏物語・須磨 ) 【付記】「前小斎院御百首」。 建久五年 一一九四 五月二日以前の作。 羇旅歌として仮構した歌であろうが、懐古の情が主題となっている。 春になったけしきは、これといって何もない空にはっきりと感じられることよ。 【付記】御集に収められた二つ目の百首歌の冒頭。 百首の後に建久五年 一一九四 五月二日の日付を付す。 【付記】御集に収められた二つ目の百首歌の一首。 百首の後に建久五年 一一九四 五月二日の日付を付す。 【付記】御集に収められた二つ目の百首歌の一。 百首の後に建久五年 一一九四 五月二日の日付を付す。 【関連歌】中1704 寂蓮無題百首 寂蓮 生年未詳~一二〇二 が堀河百首題によって詠んだ百首歌。 文治初年 一一八五 頃、同五年 一一八九 頃の詠とする説がある(新編国歌大観解題)。 【付記】「きよき光をちりにまがへて」は和光同塵を暗示する。 賀茂大明神の本地は釈迦如来・観世音菩薩とされた。 堀河題によった百首歌の一首で、題は記されていないが「葵」である。 【関連歌】中1998 公衡集.

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三年飛ばず鳴かず:意味・原文・書き下し文・注釈

い みぎ むる

セン)中諸官 劉長卿 訪舊山陰縣、扁舟到海涯。 故林嗟滿歳、春草憶佳期。 晩景千峰亂、晴江一鳥遲。 桂香留客處、楓暗泊舟時。 舊石曹娥篆、空山夏禹(一作禹帝)祠。 セン)溪多隱吏、君去(一作為)道相(一作長)思。 【韻字】涯・期・遲・時・祠・思(平声、支韻)。 セン)中の諸官に寄す。 訪ふ旧の山陰県、扁舟海涯に到る。 故林嗟滿歳、春草佳期を憶ふ。 晩景千峰乱れ、晴江一鳥遅し。 桂香客を留むる処、楓暗舟を泊する時。 旧石曹娥の篆、空山夏禹(一に「禹帝」に作る)の祠。 セン)渓隠吏多し、君去らば(一に「為」に)道に相(一に「長」に作る)思ふ。 治所は今の浙江省紹興市。 その父、五月五日に神を迎へ、江中に溺死し、屍骸流失す。 娥、時に年十四、江に沿ひて哭号すること十七昼夜、江に投じて死す。 「夏禹」は、夏王朝を開いたとされる伝説上の聖王の名。 尭・舜二帝に仕え、洪水を治め、舜から譲位されて、天子の位についた。 ジョウ)県付近の谷川。 セン)中の役人たちに贈った詩。 君おとずれる山陰県、小舟は到る海のはて。 ふるき林に年をへて、春の草萌え、よき時節。 多き峰峰夕景色、晴れたる川に鳥おそし。 桂香客を留むる処、楓暗舟を泊する時。 曹娥の事跡碑に見えて、山ひっそりと禹の祠。 セン)渓に隠るる者も多しとぞ、君の此の地を去りゆかば、しかと祈らん旅の無事。

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