三遊亭 とむ。 プロフィール

三遊亭とむの嫁や安藤美姫との怪しい噂に注目!実家と本名も調査!

三遊亭 とむ

三遊亭 ( さんゆうてい ) 好楽 ( こうらく ) 三ツ組橘は、圓楽一門のである。 ただし、本人は笑点でも使用する「 」と併用している。 本名 家入 ( いえいり ) 信夫 ( のぶお ) 生年月日 1946-08-06 (73歳) 出身地 ・ 師匠 弟子 名跡 1. 林家のぶお(1966年 - 1967年) 2. (1967年 - 1983年) 3. 来歴 [ ] で、8人兄弟の6番目として生まれる。 であった父親が40代で急死したのちは母親の手で育てられる。 幼少時代は、いわゆる「面倒見のいいガキ大将」だった。 日頃は厳しいものの、家事一切を済ませ子供を寝かしつけた後、で落語を聴いて楽しんでいる母親の姿を見て、落語に興味を持つようになる。 時代は、小遣いなどをやりくりしてに日参していた。 高校卒業後の4月 、19歳の時にに弟子入りを願うが、その時は「私は来月70歳になるから」と弟子入りを断られた。 しかし、4回目の願い出でようやく「死んだ息子と同じ名前だから」と入門を許可され「林家のぶお」で前座、1年後に「九蔵」の名をもらう。 11月にに昇進。 には、の後任として『笑点』大喜利メンバーに加入。 9月に、、とともに林家九蔵でに昇進するが 、それから間もない1月29日に師匠・彦六 が亡くなる。 約1年後の4月、5代目圓楽門下に移籍して「好楽」の名をもらう。 同時にからへ移籍する。 好楽に改名後もしばらくは『笑点』の大喜利メンバーであったが、「をしっかり修業」すべく1983年10月9日放送分を最後に一時降板。 それから約4年半のちの4月3日放送分から、降板したに代わって『笑点』に復帰する。 、初の落語集CD『三遊亭好楽 落語集 好日楽語(よきひにらくご)』をリリース。 、自身の半生を振り返る「好楽日和。 」をから上梓。 には自らの高座や若手(主に好楽の弟子)の育成を目的に、自宅を新築して「池之端しのぶ亭」をオープンさせた(後述)。 2015年からは円楽一門会の会長に就任。 2016年から2017年にかけては、自身の芸歴50周年を祝う「好楽ちゃん祭り ~芸歴50周年&古希記念落語会~」を、王楽のプロデュースで開催した。 人物 [ ] 弟子入り [ ] 元々、5代目圓楽の惣領弟子になることを希望していた時期があったが、新聞で楽松(現:)が惣領として弟子入りしたことを知り考え直したあと、2代前の圓楽であった、当時の8代目正蔵(後の林家彦六)が口演する「」をラジオで聴いて感動し、その翌日に正蔵に弟子入りを志願することにした。 来歴の通り、正蔵への弟子入りの際に初めの3回は断られているが、4回目に志願した際に正蔵から名前を聞かれ、「信夫」であることを明かすと、「"のぶお"が帰ってきたんだね」ということで入門を許可された。 正蔵の長男である岡本信男は17歳になった8月7日に勤労動員先のでに遭い、辛くも東京に帰ってきたもののをやられており、終戦後間もなく亡くなった。 このことから、正蔵は信夫に亡くなった信男を重ね合わせて、よくかわいがったという。 「九蔵」の名前は、好楽の説明では「正蔵の9番弟子」という意味ではなく、「 もう弟子は取らない」という止めの意味。 ただし、正蔵自身はこの当時、自身の弟子の数をから勘定しており、「(岸正二郎から数えて)9番目の弟子だから「九蔵」」という認識だった。 正蔵曰く、「九蔵」は「役者と同じ名前」とのこと。 (好楽説をとると)「もう弟子は取らない」はずだった正蔵はその後、、、と、3人の弟子をとっている。 九蔵時代 [ ] 11月にに昇進。 昇進前、九蔵にはのちに妻となる女性と交際していたが、「は真打になってから」という不文律の手前、隠していた。 しかし、正蔵に「お前、女ができたね」と言い当てられた。 結婚式まで1か月を切っていた時期であったが、九蔵が「はい」と答えると怒られるどころか「前座で祝言挙げるんじゃ格好がつくめぇ」と言われて二つ目に昇進させてもらうこととなった。 九蔵を二つ目にするためには上他に10人も二つ目に昇進させる必要があったが、無事昇進した。 妻の父はの贔屓筋だった。 最晩年の彦六が体調を崩し入院すると、よく妻を連れて看病に来ており、この際、しばしば彦六の手を取って「師匠!」ときめるゆえ、たまりかねた彦六が目を見開き、「そうまい日泣かれちゃ、オレは死ななきゃなんねェ!」と言ったエピソードもある。 1月29日、この日は夜に、で九蔵主宰の一門会があった。 この日の彦六の容体は比較的よく、一門のほとんどが彦六の見舞いをした後一門会に向かった。 そしてその夜に彦六は容体が急変し、86年の生涯を終えた。 好楽本人曰く、彦六からは23回も破門されたというが 、いつもしばらくすると済し崩し的に復帰が認められていたという。 圓楽門下へ [ ] 彦六没後1年を経て、5代目圓楽門下に移ることとなるが、圓楽一門会はの末に東京の寄席 から締め出されており、このことから周囲からは「バカだね。 大企業を飛び出して、中小企業に行くなんて」と言われたこともあったが、圓楽が好きだったことに加えて「落語はどこでも勉強できる」という信念を持っていたため、移籍を決断した。 圓楽からは、「酒を飲んでもいいから勉強しなさい」「米屋や酒屋は、お米やお酒を売る。 人間は誰でも言葉をしゃべれるんだ。 その言葉を生業にするなんてふてえ商売だ。 だから勉強しなきゃダメだよ」と、よく言われたという。 その他 [ ] ファンとしても知られており、に予想記事を掲載していたが全く当たらず、クビになっている。 2004年、57歳で自動車の運転免許を取得した。 大喜利メンバーとして [ ]• 先述通り放送分からの後任としてメンバー入りし、放送分をもって古典落語の修業に専念するため一時降板。 の降板によりその後任として放送分から番組に復帰し、4年半のを経て30年近くに亘り出演している。 好楽(当時・九蔵)を笑点に誘ったのは、後に師匠となるである。 『笑点』40周年を記念して発売したオフィシャル本では、『笑点』の前身番組『』のファンだったので、いずれは『笑点』に出演したいと勝手に思い込んでいたと語っている。 現在着用している色紋付は色。 の便秘薬『』と『好楽(コウラク)』の語呂が似ていることから、製品のキャッチフレーズ「ピンクの小粒コーラック」をもじり、「ピンクの小粒好楽(コウラク)』と称されることもしばしばある。 急逝後、古今亭朝次(現:桂才賀)が加入した1980年11月から1983年10月の一時降板までは水色の紋付を着用していた。 当初は『笑点』以外ではピンクの紋付を着ず、の社長や自身のマネージャーからの指示でピンクの着物を作っても1年ほど頑なに着ようとしなかったが、の被災地であるのに行ったときに小学生たちが「ピンクの好楽さんが来た!」と喜んでくれたため、以来『笑点』以外でもピンクの紋付を着るようになった。 復帰した当初は司会席のすぐ隣の1枠に座っていたが、自身の師匠でもある当時の司会者5代目圓楽への遠慮が見られたため、スタッフの判断により4月に当時2枠だったと席を入れ替えた。 大喜利におけるメンバー加入以外での席替えは、現時点ではこれが最後である。 また、この席替えによって長年3枠に座ると兄弟弟子同士で並ぶこととなった。 九蔵時代は木久扇(当時・木久蔵)の弟弟子として「その2」的な役割で若く元気な印象が強かったが、5代目圓楽一門への移籍を機にキャラクター転換し、メンバーの中で一歩引いたポジションに収まっており、冒頭の挨拶は自作の川柳を詠んで締めるのが恒例であった。 司会就任後は「仕事がない(または「スケジュール帳が真っ白」、「暇」)」、「歌が上手に歌えない」、「貧乏(お金がない)」、「ケチ(勘定の値引き交渉をする)」、「落語がうろ覚え」、「弟子や後輩に追い抜かれる」、「答えが滑る」などといった、やや情けないキャラクター性を打ち出している。 「仕事がない」に関しては、特に6代目圓楽からからかい半分で言われることが多いが、自虐で使用することがある。 「歌が上手に歌えない」は往年のヒット曲を歌おうとするが、歌詞が出てこず「ラララ…」でごまかすというパターンの回答であり、座布団を没収されることもしばしば。 歌丸が司会だった頃は「次期司会者は自分」などと、野心見え見えの回答をして大量没収されることもあった。 6代目三遊亭圓楽(旧名・楽太郎)とは、圓楽襲名争いをしているという笑点でのネタが存在するが、この中で、好楽が白圓楽などと呼ばれることがある。 これは楽太郎が6代目圓楽を襲名する以前より、腹黒キャラで黒圓楽と呼ばれていたことに対をなすことや、歌丸罵倒をした6代目圓楽(楽太郎)を悪いやつだと非難する善人キャラで白である、好楽自身が暇でスケジュール帳が真っ白、という意味も含まれている。 隣に座る三遊亭小遊三を筆頭に、他メンバーからネタにされると「よせよ! 」と返すことが多い。 現在はその「よせよ! 」が半ばトレードマークになっており、満を持して「よせよ! 」を言うこともある。 2017年の一時期は金の無心をしたのち、「ダメかー! 」という嘆くような台詞を放つことが多かった。 回答した後に斜になってカメラ目線を決め込む、いわゆる「どや顔」をがモノマネのレパートリーとしている(RGの相方であるHGのコスプレが座布団10枚の賞品になったことがあり、好楽が獲得している)。 昇太司会後は顔と目線をやや斜め上にあげる仕草が追加された(新真打披露口上でもこの動作をしている)。 2014年11月16日放送の『笑点』(日本テレビ)第2440回で座布団10枚を獲得した際、日本テレビ放送網株式会社の取締役専務執行役員から、家族、弟子といった一門をも対象者に含む、限度額無制限で有効期限が「死ぬまで」の「日テレ利用カード」が贈呈された。 この収録の翌日には、このカードを持って息子で弟弟子でもある王楽を含む家族や一門弟子(孫弟子を含む)の合計30名で日テレの社員食堂へ食事に出かけたことが、翌週の『笑点』第2441回の大喜利の前に放送された。 このカードはあくまでも番組のネタであり、カードと言っても横1mほどの巨大なレプリカ風の物で、それ以降は日テレが保管しているためカードの使用はその1回のみ(持参しないと無効)であった。 一度だけ、当時司会の5代目圓楽から破門を宣告された事がある。 ある日『笑点』の収録前の楽屋にて、「大喜利」での好楽の挨拶を聞いた圓楽が激怒して猛批判 し、「今すぐ(落語家を)辞めちまえ! 」と叫んだ。 好楽は荷物をまとめて楽屋を飛び出し 、心配したスタッフが好楽を見つけて楽屋に戻るよう指示したが、好楽はいじけて戻ろうとしなかった。 この一連の遣り取りを見かねた歌丸が圓楽を説得し、好楽は楽屋に戻って圓楽に謝罪し、和解した。 それから2人は何事も無かったかのように「大喜利」の収録に臨んだ。 ギャンブル好きのギャンブラーキャラであり、大型連休などで子供を旅行に連れて行くや家族旅行に行くという出題がされると、高確率で競馬場など公営競技場に行くという回答が出る。 家族 [ ] 兄は員で、の現場に立ち会っていた。 長男の一夫は、落語家ので、弟弟子にあたる。 このほか、王楽と好楽門下のマネージャーを務める長女 とで屋を開いている次女 がいる(いずれも王楽の姉)。 なお、彦六は好楽の3人の子の名付け親となっている。 また、1981年5月に放送のNHK『』の「減点ファミリー」のコーナーで子供3人と出演したことがある。 池之端しのぶ亭 [ ]• 2013年1月2日に開場。 こけら落としでは好楽が「」を、王楽が「」と「」を演じたが 、奇しくも「一眼国」は、彦六が生涯最後に演じた演目でもある。 ・が至近( )。 新築した3階建自宅ビルの1階の手前を大広間、奥を寄席として設計して営業している。 客席部分はフローリング敷きで、客は座布団の上に座る(足腰の弱い人には椅子の貸し出しも行う)。 収容人数は40人から50人と寄席としては狭いが、無しで落語が聞ける。 好楽自身は広さについて「地声の方が芯からお客さまに伝えることができる」「これくらいの広さであれば、噺家は客席の最後列に座るお客さんの表情まではっきりと見ることができ、勉強になる」としている。 高座の右後方は、楽屋との往来となっている。 往来には、開場当初は普通の柄の暖簾がかかっていたが 、2014年以降では後援会から贈られた、彦六一門の定紋「光琳の蔭蔦」と圓楽一門の定紋「三ツ組橘」、「池之端しのぶ亭」の字に『笑点』で使用の「隅切り鉄砲角にかたばみ」の紋が染め抜かれたがかかっている。 楽屋には、彦六の写真が飾られている。 一門や若手のほか、などの大物や 、ラジオパーソナリティーのなども高座に上がっている。 大喜利内ではメンバー(特に6代目圓楽)から、師匠・5代目圓楽が開設した寄席「」の末路になぞらえて、「潰れた」「解体工事中」「あれは落語をやる場所ではない」などとネタにされることも多々ある。 また、「マンツーマンで落語が聞ける(客が入らないという意味)」とも茶化されている。 貸席であるが、あくまで好楽邸の一角であり、新年会の会場に使うこともある。 WEBサイトはなく、運営スケジュールなども公開していない。 TVなどの出演歴 [ ]• 『』(系列、レギュラー出演)• 『電話バラエティー何でもリクエスト』(、レギュラー出演)• 『』(2019年1月19日、、ゲストコメンテーター) CM [ ]• 「十勝おはぎ」(北海道ローカル)• 「木馬の会」• パチンコ「ダイエー」(新潟ローカル)• 御菓子城加賀藩「名物加賀福」(北陸地区ローカル)• (静岡ローカル)• 「あかりごっこ」• ピカイチ(と共演)• 「株券電子化篇」「株券預けて安心篇」• 「グルコンEX」• 「Find my Tokyo」「雑司が谷・ひと工夫が散りばめられた街篇」(と共演、次女の経営するたい焼き屋も登場) 一門弟子 [ ] 真打 [ ]• 二つ目 [ ]• 前座 [ ]• (2020年8月より二つ目昇進、三遊亭好青年に改名予定)。 孫弟子 [ ] 好太郎門下• 兼好門下• 三遊亭しゅりけん 廃業 [ ]• 三遊亭なな好• 三遊亭ろこう 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 1950年より海老名家から借用していた正蔵の名を、没後8日後の1980年9月28日に海老名家に返上、同年の12月中席が正蔵として最後の高座、翌1981年1月の鈴本の下席から彦六を襲名した。 ( pp. 212-216、 p. 14)• (岸正二郎)、、、、、、、、 九蔵(名前、高座名はおおむね1967年当時。 234-241、 p. 62)• 、、、• 先代からのダメ出しについては好楽だけでなく楽太郎 後の円楽 にも行っていた。 再現ビデオでは止めようとしたスタッフにも怒鳴りつけている 実際にそうだったのかのは不明。 このことから、当時の楽屋がいかに殺伐としていた空気だったかが伺えるであろう。 師匠5代目圓楽が死去する直前に真打に昇進が決定していたので、好楽自身の預かり弟子にしたことはない。 彦六は1981年11月6日の紀伊國屋寄席で「一眼国」を演じたが5、6分で終わり、翌11月7日に日本橋「」で開かれた彦六の落語会「壱土会」で背広姿で現れ、高座にテーブルを置いて椅子に座り、「昨日は私、紀伊国屋さんで失敗(しくじ)りました。 きょうはちゃんと演(や)りますから」と述べたあと「一眼国」を演じた。 それから間もない11月24日に入院し1982年1月29日に亡くなったため、結果的に11月7日に演じた「一眼国」が生涯最後の演目となった。 ( pp. 15-19)• 開場からひと月ほど経った2013年2月6日に自ら志願して飛び入り出演し、登場人物の旦那をに置き換えた「」を演じた。 王楽のぽよよんブログ. 三遊亭王楽. 2017年10月17日閲覧。 厳密には直弟子ではないものの、この3人の他に王楽も一門にカウントしていると好楽本人は述べている。 出典 [ ]• 東京かわら版編、東都寄席演芸家名鑑 2018年• スポーツ報知. 報知新聞社. 2017年5月18日時点の [ ]よりアーカイブ。 2017年10月15日閲覧。 中外日報・ほっとインタビュー. 中外日報社. 2017年10月15日閲覧。 定年時代 ・東京版. 新聞編集センター. 2017年10月16日閲覧。 79,81• アサゲイプラス. 徳間書店. 2017年10月17日閲覧。 「好楽 半生振り返った一冊」2012年11月12日付読売新聞• 73ページ - 75ページ。 242• 241• 好楽いわく「なんじゃそりゃ!?」• 『落語家面白名鑑』、1982年、p. なお、現在圓楽一門会で同門の鳳楽・圓橘も、この時二つ目に昇進している• 16-17• 20-21• 上野経済新聞. KeepAlive株式会社. 2017年10月16日閲覧。 『』()2010年11月号、pp. 123 - 125。 125ページ。 日経WOMANサイト 2006年1月1日 より 2015年8月18日再閲覧• ぴあMOOK『笑点五〇年史 1966-2016』38ページ• ぴあMOOK『笑点五〇年史 1966-2016』39ページ• 日本テレビ笑点HP• ORICON NEWS. オリコン. 2018年6月8日閲覧。 129ページ。 130ページ。 お笑いナタリー. ナターシャ. 2017年10月17日閲覧。 128ページ。 王楽のぽよよんブログ. 三遊亭王楽. 2017年10月17日閲覧。 新日刊マックニュース. 柳家小袁治. 2017年10月16日閲覧。 2013年3月8日閲覧。 コイカナの あ・の・ね…ラジオパーソナリティー小池可奈のあれこれ. 2017年10月16日閲覧。 日刊ゲンダイDIGITAL 2018年6月12日. 2019年11月17日閲覧。 2020年5月27日閲覧。 スポーツ報知. 2016年12月5日. 2016年12月5日閲覧。 スポーツ報知. 2020年5月26日. 2020年5月27日閲覧。 参考出典 [ ]• 『正蔵一代』青蛙房、2001年。 『ぼくの人生落語だよ』ポプラ社、2004年(原著1982年)。 日本テレビ(編)『笑点』日本テレビ放送網、2006年。 『稲荷町の師匠 彦六覚え帖』うなぎ書房、2012年。 その他タイトル未記入のものは全て『好楽日和。 』( )からの出典。 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ]•

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三遊亭とむ

三遊亭 とむ

来歴・人物 [ ] 愛知県豊川市(旧 )出身。 、、を卒業。 で落語と出会い、同大学を5年で中退後、に入門する。 圓橘が最初に会った時の印象は「猫背で出っ歯、いやだなと思ったそうだが、気迫が尋常でなく(弟子入りを 断れなかった」。 人呼んで「オペラ座の怪人」ならぬ「落語の怪人」。 趣味はボクシング観戦、読書、動物園。 チラシや手ぬぐいなどに使っているキャラクターのきつつきは、デザイナーののデザインによるもの。 2020年3月30日、の影響による時間短縮により、この日14時で公演を終了させたのの定席において円楽一門会所属でありながらトリをとった。 演目は「」。 経歴 [ ]• 7月 に入門。 前座名:橘つき• 10月 きつつきに改名し二ツ目昇進• 3月 「第6回さがみはら若手落語家選手権」 優勝• 2月 「第6回伝統芸能祭り グランドチャンピオン大会」 グランプリ受賞• 2012年10月「読売杯争奪 激突!二ツ目バトル」優勝• 真打に昇進し、4代目を襲名• 2014年6月 国立演芸場主催 「平成25年度 花形演芸大賞」銀賞受賞• 2015年6月 国立演芸場主催 「平成26年度 花形演芸大賞」金賞受賞• 2016年6月 国立演芸場主催 「平成27年度 花形演芸大賞」金賞受賞• 3月 「平成28年度 」受賞• 2017年6月 国立演芸場主催 「平成28年度 花形演芸大賞」金賞受賞• 2018年6月 国立演芸場主催 「平成29年度 花形演芸大賞」金賞受賞• 2019年4月 と、谷中商店街「」下に、寄席「にっぽり館」をオープンさせる。 著作 [ ]• 『 落語家 - 五代目円楽一門会生態録二〇一三』 、2013年 メディア出演 [ ] テレビ番組 [ ]• 第5話「お奉行様の荒療治」(2013年6月8日、) - 職人 役 ラジオ・配信番組 [ ]• - 配信中(より) 弟子 [ ]• 出典 [ ] []• 2015年12月31日閲覧。 落語ファン倶楽部別冊 東西全落語家一門名鑑. 白夜書房. 2014-4-5. 118. 四代目 三遊亭萬橘 2013年3月1日. 落語家 五代目円楽一門会生態録二〇一三. ワイズ出版. 486• hide 2013年3月1日. IDLEWILD ペンギンのいる生活. FC2 blog. 2019年2月20日閲覧。 2020年3月30日. twitter. 2020年5月7日閲覧。 (師匠)• (兄弟子)• (弟弟子) 外部リンク [ ]• - チャンネル•

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三遊亭好楽

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江戸落語で初めてR-1グランプリ決勝に進出したスゴい人! ただのミーハーな子ども時代 何をやっていいのかわからない暗黒時代 二つ目の人生、落語家として夢見ること ここ数年、江戸時代以来の落語ブームが来ていると言われている。 都内での落語会は、月1,000件以上開催されており10年前に比べると2倍に増えているようだ。 とはいえ、この伝統ある世界で生き抜くことは江戸時代から変わらず容易なことではない。 本日登場するスゴい人は、お笑い芸人としての地位を投げ打って6年前に落語家に転身し、今ではテレビ・ラジオで活躍する落語界で注目の存在だ。 さあ… 落語家 三遊亭 とむ様の登場です! ただのミーハーな子ども時代 僕は、言ってみればただのミーハーな子どもでした。 家の近所で、ドラマ『一つ屋根の下』の撮影をやっていると聞くや、写ルンです(インスタントカメラ)を持って、毎日通いつめるぐらい。 中学校時代には、アイドルの「チェキっ娘」が大好きで彼女たちが出演していた番組の企画である「お台場ジョークボックス」に部活をサボって出ていました。 今より素人が番組に出やすかった時代なので、「変な中学生がいるぞ」ということで『学校へ行こう』や『笑っていいとも!』に出させてもらいました。 そんなことをしながら高校生になり、2000年にはヤングマガジンの創刊20周年を記念して行われたミスターヤングマガジンコンテストにパンツ一丁の写真で応募したら、グランプリを獲ってしまって。 その勢いで、芸能事務所のオーディションを受けたら合格して、お笑い芸人としての活動を始めました。 順調だった芸人としての滑り出し 人真似で始めたダジャレですが、高校生というのが珍しく、色々な仕事をもらっていました。 20歳になってからはテレビにも出るようになって。 一番の転機はドラマ『野ブタ。 をプロデュース』の出演ですね。 この頃は本当に天狗でした。 当時の写真を見ても、怖いものが何もないというか、俺が次世代のエースだ!ぐらいの顔をしています。 2年くらいは食べるにも全く困らない状況でした。 一つの仕事がきっかけで後輩と立場が逆転 ある時、『ラジかるッ』という朝の情報番組の天気コーナーの仕事が来たのですが、別の仕事で受けることができなくて。 それで当時の事務所の後輩だったザ・たっちが出演することになったのですが、彼らがそれで一気に有名になったんです。 夜通し放送した『ラジかるッ』の特別番組の時も、ザ・たっちはメイン企画のマラソンランナー。 一方僕は、キャバクラ風のセットの裏でひたすらお酒を作る係。 テレビにも映りません。 彼らがマラソンでゴールした時は、裏で本気の悔し泣きをしていました。 元々、ザ・たっちの方が実力も上だったことに気付いていなかったんです。 徐々に、芸人の仕事だけでは食べられなくなっていきました。 何をやっていいのかわからない暗黒時代 一度仕事が減ってしまうと、もはやどうしていいか分かりませんでした。 お芝居をやろう!と思い、ドラマにも出させてもらいました。 下着泥棒、仮面ライダーの悪役、変態の役などやらせてもらいましたが、とても食べてはいけません。 自分のダジャレの代表ネタに(おたまと下駄で)「おったまげた!」というのがあるんですけど、スタッフさんから「70歳までそれやっていたら面白いけどね」と言われて、「これで70歳までは厳しいなあ」と思ったりもしていました。 そんな時に、立川志の輔さんの落語を初めて見たんです。 扇子と手拭いだけで1時間半。 こんなすごいエンタメがあるのかと感動しました。 春風亭小朝師匠と知り合った時に「落語やりたかったら言いなさいね」と言ってもらったので、社交辞令を勘違いして師匠の仙台公演まで追いかけて「落語を教えてください」言うと二つ返事で「いいですよ」と。 それで、小朝師匠の弟子にあたるいなせ家半七師匠に稽古をつけてもらったのですが、難しくてすぐに投げ出しました。 自分の限界を感じた、とある出来事 自分の芸人としての道に悩んでいた最中、東日本大震災が起きました。 何か元気づけることをしたいと思い、マギー審司さん、島田秀平さんと3人で被災地にネタをやりにいきました。 マギーさんが司会で盛り上げ、島田さんが手相で盛り上げ、最後に僕が。 恐ろしいほど滑りました。 ネタを見た中学生に「頑張れ」と逆に応援されてしまって。 それで、本格的に自分の将来を考えようと思って、中途半端になっていた落語をやり直そうと思いました。 転身に迷いが生まれ、そして落語家を諦めるはずが… 小朝師匠から三遊亭好楽師匠を紹介していただき、喫茶店でお会いしました。 師匠はとても優しくて、「一門に入りたかったら言いなさい」と言ってくださいました。 でも落語家になるということは、仕事が変わるし、名前も変わります。 今までやってきたことも続けられないし、そもそも事務所に話してもいない。 悩んだ結果、やっぱり断ろうと思いました。 「色々考えたのですが、落語とお笑いの二足のわらじは厳しいからすみません。 」と言おうとして、「色々考えたのですが、落語とお笑いの二足のわらじは厳しいと思うんですね。 」と言ったところで、師匠から「よし!その気持ちがあるなら大丈夫。 明日は僕の誕生日だから、誕生日に入門ということにしよう」と言われて、師匠に背中を押される形で入門が決まりました。 二つ目の人生、落語家として夢見ること まずは真打ちに昇進することが今の一番の目標です。 そして、真打ちのお披露目は日本武道館でやりたいと思っています。 6年落語をやってみて、落語の奥深さや凄さなど、入門時とは違った発見ができるようになりました。 今後は、お笑いからきた人間の感覚を織り交ぜてやっていきたいです。 僕の生き方は、前に出ないで後悔するくらいなら、前に出てすべった方がいいと思っています。 落語ももしダメだったら、みんな笑ってくれるからいいやという気持ちで始めましたし。 頭の中で考えて、辞めちゃうくらいなら思い切って挑戦してみてください。 失敗しても全てがネタになりますから。 取材を終えて 三遊亭とむさんは全身から『迷いのなさ』が伝わって来る人だ。 それは、小さい時から誰よりも前に出て自分を表現してきた経験を持ち、人よりもすべって来た経験も持ち合わせているからだろう。 自分が面白いと思ったものを、恐れず表現する。 『すべる』『空気を読む』という言葉が日常生活の中であまりにも一般化した私たちにはなかなかできることではない。 いつの日か何者かになるために。 今日から『すべる』ことを始めていきたい。

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