いつまでも変わらぬ愛を 売上。 W FACE : 織田哲郎

集英社 「東京バンドワゴン」シリーズ『ヘイ・ジュード』

いつまでも変わらぬ愛を 売上

UPCH-1541 ¥3,000(税込) 1. もう少しがんばってみよう。 青空 3. 瞳閉じれば〜Let's dance〜 4. TONIGHT 5. インソムニア 6. 最後の恋 7. 真夏の夜の甘い夢 8. キズナ 9. Sunrise Sunset 10. 祈り 11. 真夜中の虹 12. 明日へ UPCH-1517 ¥3,059(税込) 1. 負けないで 2. シーズン・イン・ザ・サン 3. ボクの背中には羽根がある 4. 愛のために。 碧いうさぎ 6. 突然 7. 世界中の誰よりきっと 8. この愛に泳ぎ疲れても 9. Anniversary 10. 世界が終るまでは… 11. 恋心 12. それが織田さんにとって、復活宣言であったというお話を前回伺いました。 ソロデビューからちょうど10年目。 いわゆるバブル経済崩壊後、音楽業界は逆に史上空前の活況を呈することになります。 世はまさにカラオケブーム、そして携帯電話も普及し始めます。 まず携帯について伺います。 織田さんはいつ頃携帯電話を持ち始めましたか? 織田 すでにこの頃、周りの人はほとんど携帯を持っていたんだけど、それでもなかなか買わなかった。 仕事関係のスタッフから「連絡が取れなくて困る」といわれていたけれど(笑)ただでさえ旅好きでふらふら行方不明になっていることも多かったしね。 結局俺が携帯を買うことになったキッカケは、仕事先に車で向かっている時に渋滞に巻き込まれ、連絡しようにも出来なくて困ったことがあって、それでようやく(笑)。 でも自分から必要があって掛ける以外は電源を切っていたよ。 携帯が鳴るのが嫌いでね(笑)最近は慣れてきたので、着信音はバイブにしていますが電源は入っています。 当時全国的にカラオケボックスが急増、シングルCDもミリオンセラーが増えます。 社会人は懇親会や宴会(とくに二次会)に、学生もコンパの二次会などにカラオケボックスを利用することが多くなった。 今回お話を伺う1992年といえば、通信カラオケが登場した年でもあり、当時カラオケボックスやスナックでは織田さんの楽曲を常に耳にしていた気がします。 織田 ありがたいことに、よく歌っていただいたようです。 当時大学生や社会人だった人には「いつまでも変わらぬ愛を」や「世界中の誰よりきっと」はよく歌ってもらったんじゃないかな。 大橋純子さんに提供した「愛は時を越えて」は水商売関連の女性に根強い人気があったようですよ。 そうそう、この年は久しぶりに舘ひろしさんにも曲書いたし。 いずれ舘さんと織田さんの共演というのはいかがでしょうか? 織田 そうだね。 舘さんともまた何か一緒にやれる機会があればうれしいな。 ところで織田さんご自身はカラオケで誰かの曲を歌いますか? 織田 実はカラオケで歌える歌が本当に少ないのよ。 たまにカラオケのある店に行くことがあっても、この20年くらいほとんど同じ様な曲ばかり歌っていたし。 つーか、あまりカラオケ好きじゃない。 断酒した今ではそういう場所に行くこともほとんど無くなったしね。 長戸さんという類稀なプロデューサーの存在が大きかったと思いますが。 織田 TVをはじめとするメディアをフルに活用して、タイアップを取り付けた上で、楽曲やアーティストを売ってゆく。 そういうプロモーション手法を徹底的にシステム化したのが大幸さんですね。 毀誉褒貶いろいろあれど、それまでの音楽業界のシステムを一新したのは確実に大幸さんです。 92年はそれが本格的に機能しはじめた頃じゃないかな。 大幸さんと組んでやる仕事が圧倒的に多かったね。 とくに新しいことをやる時や新人をデビューさせる時はよく発注してもらいました。 新しいことやいろいろなタイプの音楽をやりたがる俺の性格を熟知してくれていて、しかも創作意欲を駆り立てるように、絶妙な口説き方でコンセプトを伝えてくれるんですよ。 だからいつもすごく楽しく取り組めました。 直接作曲などの依頼を受けたり、レコード会社との交渉事や人に会ったりという俺自身が苦手だと思っていたことは大幸さんがすべてやってくれて、おかげでずいぶん楽になったし、音楽を作ることに専念出来たことも大きかったな。 織田 元来俺は同じことを淡々とこなすということがとにかく苦手で、絶えず新しいことをやりたいタチなんですよ。 他人にいろいろなタイプの曲を書けば書くほど、自分のやりたい音楽が絞れてくるという一面もありました。 そうでないと自分自身の楽曲でいろいろとやり過ぎてしまう。 そういう意味では楽曲提供の仕事はバリエーションが豊富な方が良かったし、楽しめたんだと思うよ。 織田 前回も話したようにメディアに露出することが本当に苦手だったから。 人前で喋るとなるとわざわざ悪印象を残してしまうような、言わなきゃいいこと言ったりして、むしろ敵を作っちゃうタイプだった。 いいかげんそういう自分自身にウンザリしていたんだよね。 それならば俺自身メディアに出ないほうがイイやと思っていたし、ビーイングの戦略も露出を避ける方向だったので、双方見解一致ということで。 織田 確かにブームっぽい状況だったのでそれも危ないな、と感じてました。 ブームというのはそれが終ると大抵は「時代遅れの人」になってしまう。 時代の寵児だともてはやされていい気になっていると、ある時からあの人はもう終わった、とか言われる。 だから顔は出さずにひたすら作る音楽だけ浸透させようと思っていました。 それは92〜93年には俺も30代になって、少しは世の中が見えるようになっていたということも大きいだろうね。 もし20代でメガヒットがあって、急に大きな富を手に入れたり、時代の寵児的なもてはやされ方をすると、調子に乗って舞い上がってしまったり、逆にこんなはずじゃないと思ってしまって、どういう風にか、おかしくなっても不思議じゃない。 そうは言っても当時を振り返ると、どんなに大人しくしていても、さまざまな風は受けましたよ。 相変わらず旅にも出ていたし、酒も飲んでいたし、ずっとそんな調子だったよ(笑)。 織田 以前自分のDIARYでも書いたけど、かまやつさんが語っていた名言があってね「大きな波に乗っている時ほど早く潜って次の波を待つ」。 それをやらないと確かに、その波と一緒に終わってしまうし、次にやってくる波に乗るのは至難の技だよね。 自分が自分以上の力が出るような、調子に乗っている状態っていうのは、その後のダメージも大きい、と。 さすがかまやつさん。 これ、いい言葉でしょう。 波はいずれ砕け散り、と同時に地面に叩きつけられます。 砂浜といえども実際に叩きつけられると本当に痛い。 織田 俺はよく思うんだけど、人は波しか見ていない。 上しか見ずに波に乗ることばかりを考えてしまう。 波に乗るって、比喩としてよく使われるよね。 でも大切なのは波に乗ることじゃなくて、問題は潮の満ち干や潮の流れ、海流を見究めることだと思うよ。 織田 大きい波っていうのはね、迂闊に乗ると叩きつけられるからね。 気を付けましょう(笑)。 大きなエネルギーのうねりを乗りこなすこと自体は楽しいかもしれないけど、それはなかなか難しいものです。 風にも波にも無理に逆らうことなく、大事なのは流れをよく読むということでしょうか。 そして日本の音楽史に残る大記録を打ち立てる1993年がやってきます。 今もなお多くの人に愛される名曲も数多く誕生します。 そのあたりは次回うかがうことにします。 さていよいよ2007年10月1日(月)からスタートしたフジテレビ系列で毎週月曜〜金曜13:30〜14:00放送の連続ドラマ「愛の迷宮」主題歌に織田さんご自身の新曲『』が提供されています。 その制作秘話も是非お伺いしたいと思います。 よろしくお願いします。 織田 了解。 どうぞお楽しみに! シンガーソングライター/プロデューサー 1958年3月11日生まれ。 東京都出身。 中学時代をロンドンで過ごし、15歳で帰国。 高校時代にバンドを組みエレキギターを弾きはじめ、同時にオリジナル曲の創作をはじめる。 1979年にギタリストの北島健二(現FENCE OF DEFENSE、PEARL)らと共にプロデュースユニットWHYを結成し、アルバム『WHY』でデビュー。 それと並行し、プロデュース業も開始する。 そして1983年にアルバム『VOICES』でソロデビュー。 1986年、TUBEに提供した『シーズン・イン・ザ・サン』が大ヒットし、1990年には B. クイーンズ『おどるポンポコリン』で日本レコード大賞を受賞。 1992年には自身のシングル『いつまでも変わらぬ愛を』がミリオンセラーに。 1993年、オリコンチャート・ベストセラー作家部門において、12,404,990枚という史上最高のセールスで1位を獲得。 以後、相川七瀬等を中心に様々なアーティストのプロデュースを手掛ける。 日本音楽史上歴代作曲家売上ランキング第3位となる4,000万枚超えるセールス(CDシングル・2007 年3月現在オリコン調べ)を記録する日本を代表する作曲家。 2007年5月23日(水)自身14年ぶりとなるフルオリジナルアルバム「One Night」をユニバーサルミュージック(株)より発表。 vol. 14 カラオケブーム、メガヒット連発、大きな波がやってきた。

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織田哲郎作品売上ランキング 織田哲郎 作品のシングル売上ランキングです。 タイトル アーティスト 作詞 作曲 売上枚数 万枚 中山美穂&WANDS 上杉昇、中山美穂 織田哲郎 183. 3 ZARD 坂井泉水 織田哲郎 164. 5 B. クイーンズ さくらももこ 織田哲郎 164. 4 ZARD 坂井泉水 織田哲郎 139. 6 DEEN 上杉昇 織田哲郎 129. 3 FIELD OF VIEW 坂井泉水 織田哲郎 122. 4 WANDS 上杉昇 織田哲郎 122. 1 相川七瀬 織田哲郎 織田哲郎 112. 9 WANDS 上杉昇 織田哲郎 112. 1 DEEN 坂井泉水 織田哲郎 103. 8 J-FRIENDS 松井五郎 織田哲郎 102. 1 ZARD 坂井泉水 織田哲郎 100. 1 酒井法子 牧穂エミ 織田哲郎 99. 7 織田哲郎 織田哲郎 織田哲郎 92. 9 KinKi Kids 松本隆 織田哲郎 92. 0 FIELD OF VIEW 坂井泉水 織田哲郎 89. 8 ZARD 坂井泉水 織田哲郎 88. 7 ZARD 坂井泉水 織田哲郎 87. 2 大黒摩季 大黒摩季 織田哲郎 84. 0 ZARD 坂井泉水 織田哲郎 74. 詳しい情報については、がおすすめです。

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オリジナル楽曲を作ってみると意外といい感じにできたうえに、事務所からオファーも来て、アルバム「GO ON AS YOU ARE」を出すことになった。 事務所が提示した目標の数字は1000枚。 「絶対無理さぁ・・・」と震えたのが1999年だ。 1999年に「1000枚無理ぽよ~」と言っていたモンパチは、2000年8月には、入場者1万人を超えるロックフェスティバルに出演していた。 「あなたに」そして「小さな恋のうた」が収録されたこのアルバムは、280万枚の売上となった。 (インディーズと言ったらのファースト・アルバム196万枚売上が伝説的ですが、280万枚はまた異次元っすな) アルバム売上では、モンゴル800より上はいくらでもあるのだが、ベストアルバムの話だ。 しかし、それらをほぼ全て断っていたのだ。 結果、表に出てこないクールなロックバンドとして、「ロック界最強のマイペース」と呼ばれたりした。 メディア露出が増えると、自ずと精神的にも追い込まれるかもしれないと、自主規制していたのだ。 当時のモンパチは、こんなに売れるなんて思ってもいなかったし、なんなら学生生活と掛け持ちだったので、しごく一般的な価値観だったのだと思われる。 CD売上の累計は、500万枚程度だと思われる。 500万枚というと普通のバンドだと、良くて1億入ってくる程度である。 ではモンパチはどうなのか。 メジャーのバンドが数%のところ、20%~60%だと言われている。 2009年頃には、モンパチは20億円ぐらい入ってきたと暴露していたなんて話もある 印税のメジャーとインディーズの違いがよく分かるエピソードは、虎舞竜の「ロード」。 ヒットした当時、「印税は2000万ぐらいだろう」と同業界の人間に言われているなか、すでに2億の振込があったらしい。 2018年の年間カラオケランキングでも4位だ(1位:Lemon、2位:恋、3位:残酷な天使のテーゼ)。 桁違いな金額が入ってくる。 モンパチは、年間で2000万円は切ったことがない、5000万円は定番だという噂だ。 20歳ごろに作った曲で20年近くたった今でも数千万。 時給最強の仕事をしたのは誰だと言われたら、モンパチは日本トップ3には入りそうである。 モンゴル800の伝説まとめに、現へに続く【キヨサクの激太り】 モンゴル800上江洲清作の年齢は、39歳 モンゴル800髙里悟の年齢は、39歳 モンゴル800儀間崇の年齢は、39歳 モンゴル800の伝説、簡単まとめ• 20歳で作ったたった1曲で、20年近くたった現在も年収数千万円• 平成カラオケソングランキング3位(1位残酷な天使のテーゼ、2位ハナミズキ)• プロモーション活動をほぼなしなのに、カバーされまくり、タイアップされまくり• カバーされまくっている「小さな恋のうた」は、偏見なしにオリジナルが1番良い• ファンは非常に残念がった いつもMONGOL800を応援してくれてありがとうございます。 この度、MONGOL800を脱退することに致しました。 突然のご報告になってしまい申し訳ございません。 4月からMONGOL800としての活動をお休みしていた事で、ファンの皆様、関係者の皆様を驚かせてしまい、ご心配と多大なるご迷惑をおかけした事を深くお詫び申し上げます。 自分は変わらず元気に過ごしております。 昨年バンド結成20周年を迎え、今後も25年、30年とMONGOL800を続けていくつもりでした。 しかし、いつの頃からかMONGOL800の活動を負担に感じる事が多くなってきました。 理由をひと言で表す事はとても難しいのですが・・・ 時間の経過の中で、人間性や音楽性、感覚や感性のズレが大きくなっていったのだと思います。 正直、10年以上前から「辞めたい」という思いが頭の片隅にあり、脱退したいと相談した事もありました。 そして説得される度に「何かが変わるかも」と信じて活動を続けました。 しかし状況は変わりませんでした。 「これは贅沢な悩みなんだ」「世の中に楽な仕事は無い」「どんなバンドだって悩みを抱えながら続けている」と言い聞かせ、お客さんの為に頑張ろうと決めて続けてきました。 実際ステージに立ち、お客さんの前で演奏している時は、心から楽しんでいました。 それはバンドを始めた高校生の頃から、最後となった武道館ライブまで全く変わらない気持ちのままです。 恵まれた環境で音楽が出来る状況。 それを自ら離れる事が正しいのか、今の自分には正直分かりませんが、これからは1人の人間として今までやってみたかった事を全て経験していくつもりです。 そう考えるととても楽になりました。 学生を終えて、すぐに音楽の道に突入し、ひたすら突っ走って来たモンパチは自分の全てでした。 沢山の奇跡を目の当たりにし、あり得ない経験を沢山させて貰いました。 キヨサク、サッシには心から感謝しています。 そして、2人に1番申し訳なく思っています。 本当にごめんなさい。 2人はこれからも突っ走って行くと思うので、皆様変わらない応援をよろしくお願いします。 自分は別に音楽が嫌になった訳じゃないし、普通にギターは触り続けるし、音楽を辞めるつもりはありません。 この先、音楽以外の事も含め、何かしらの表現が出来たらいいなと思っています。 その時はモンパチ共々どうかよろしくお願いします。 そして 今まで関わってくれた全ての方々に感謝しています。 本当にありがとうございました。 2019年7月3日 儀間崇 要約すると以下のようになる• 長いモンパチとしての活動の中で、価値観や人間性にズレが大きくなっていった。 モンゴル800での活動が負担だった• 10年以上前からやめたいと思っていた• 脱退を相談したこと持った• 引き止められて、辞めたい感情がなくなるかもと信じていたが、いつまでも変わらなった• ステージに立ってファンの前で演奏するのはすごく楽しかった• 今までやってみたいと思っていたことを経験していこうと思う• メンバーの二人には、1番申し訳ないと思っている• これからも音楽の道を進むのは変わらない 不仲なんて話も出ていますが、3人のバンドですし、高校の同級生ですし、ファンの間でメンバーの不仲の噂も聴いたことがないですし。 身も蓋もない事を言ってしまうと「もう何もしなくてもお金が入ってくる状態なら、モンパチとして活躍するよりも、新しいことにチャレンジしてみたい」というコメントに見える。

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