春 は あけぼの 続き。 枕草子『春はあけぼの』わかりやすい現代語訳と単語の意味 / 古文 by 走るメロス

『枕草子のたくらみ 「春はあけぼの」に秘められた思い (朝日選書)』(山本淳子)の感想(34レビュー)

春 は あけぼの 続き

吉海 直人 日本語日本文学科 教授 みなさん、『枕草子』には伝統的な日本の四季折々の自然美や風物が鏤 ちりば められていると思っていませんか。 実はそれこそが誤解というか大きな間違いなのです。 だってそうでしょう、春の風物としては「梅・鶯・桜・霞」などをあげるのが一般的ではないですか。 『枕草子』にはそれが不在なのです。 逆に清少納言が提起している「あけぼの」など、春を代表する景物ではありませんし、まして美意識にもあてはまりません。 それにもかかわらず、みなさんはそれを平安朝貴族の美意識として受けとっている恐れがあります。 それが高校で学んだ成果だとしたら、それこそ学校教育の弊害ということになりかねません。 そこで考えていただきたいのは、仮に「あけぼの」が春の景物として当時認められていたとしたら、清少納言はごく当たり前のことを提示していることになります。 それでは宮廷で評価・称讃されるはずはありません。 となると『枕草子』は、決して当時の伝統的な美意識を集成したもの(美意識辞典)ではないということがわかるはずです。 当時の美意識としては認められていなかったからこそ、周囲の人々の注目を浴びたのではないでしょうか。 あらためて初段の構成を見てみましょう。 各段は「春はあけぼの・夏は夜・秋は夕暮れ・冬はつとめて」とあって、一日の中で推移する特定の時間帯が切り取られ、それが四季の運行と組み合わせられていることに気付きます。 これも奇妙な組み合わせですよね。 そもそも「あけぼの」という言葉自体、上代(『万葉集』など)に用例がありません。 平安時代になっても、初期の『竹取物語』・『伊勢物語』・『古今集』などには見られず、『蜻蛉 かげろう 日記』に至ってようやく1例だけ登場しています。 肝心の『枕草子』にしても、印象としてはたくさん使われていそうに思われますが、実は冒頭の1例しかないのです。 ここから当時としては非常にマイナーな言葉だったことがわかります。 類義語の「あさぼらけ」なら、既に『古今集』・『後撰集』といった勅撰集の和歌に用例が認められます。 それに対して「あけぼの」は歌語としての古い用例がなく、初めて勅撰集に登場するのは、『枕草子』よりずっと後の『後拾遺集』でした。 そしてそれが流行するのは、もっと下った『新古今集』まで待たなければなりません。 その「あけぼの」と対になっているのが「夕暮れ」です。 やはりみなさんはこの「秋の夕暮れ」も、平安朝の美意識として確立していたと誤解していませんか。 しかし「秋の夕暮れ」は『古今集』には詠まれていません。 「あけぼの」と同様、勅撰集の初出は『後拾遺集』でした。 『新古今集』に至って用例数が18例にも激増し、しかも「三夕 せき の歌」が浮上することで、いかにも伝統的な美意識だったように幻想(誤解)しているだけなのです。 秋の伝統的な景物としては紅葉・菊であり、そして月でした。 この「あけぼの」という特殊な言葉にもっともすばやく反応したのが、『源氏物語』でした。 用例数はなんと14例も認められます。 しかもそのうちの3例は「春のあけぼの」ですから、紫式部が『枕草子』を意識していることは間違いないようです。 中でも光源氏の長男である夕霧が、野分(暴風)のどさくさに紛れて義理の母にあたる紫の上を垣間見る場面は圧巻です。 夕霧が紫の上の美しさを「春の曙の霞の間より、おもしろき樺 かば 桜の咲き乱れたるを見る心地す」(野分巻)と述べているところです。 ただしこの文章はきわめて比喩的であり、具体的な紫の上の美しさがほとんど伝わってこない恨みがあります。 あえて「樺桜」という特殊な桜を持ち出したことの狙いもピンと来ません。 いずれにしても、清少納言が当時の伝統的な美意識とは異なる捉 とら え方を提示したからこそ、周囲の人々の驚きに満ちた称讃を勝ち得たに違いありません。 それを誰よりも高く評価し、自らの執筆に応用したのが紫式部だと思います。 むしろ『源氏物語』の流行によって、「あけぼの」が次第に美意識に昇華していったといえるかもしれません。 さあみなさん、「春はあけぼの」章段をもう一度読み直してみませんか。 もはや従来の見方では済まされません。 素直に納得するのではなく、積極的に疑問を抱いて下さい。 そこから古典を読む面白さが始まるはずです。

次の

清少納言

春 は あけぼの 続き

夏はバケモノ。 ようよう暗くなりゆく墓地、少しあかりて、青白き人魂の、細くたなびきたる。 ギャー!! 秋はくせもの。 ようよう長くなりゆく夜、少し焦りて、心に映り行く異性をそこはかとなく思い描けば、あやしうこそ、ものぐるほしけれ。 (後半は完全に徒然草・・。 ) 冬は鍋もの。 ようよう煮えゆく鍋、少し食して、むらさきだちたるポン酢を細く垂らせば、いと美味し。 外国人力士はあけぼの(曙太郎)。 ようようモンゴル人力士あまたさぶらいける中、外国人力士としていちはやく、横綱の化粧まわし、勇壮にたなびきたる。 (これも、ちょっと源氏物語が・・。 ) イタリアンはボーノ! ようよう知られゆくこのイタリア語、少し照れて、先立ちたる人の、細くつぶやきたる。 先人がすばらしいパロディをつくっているので、自分でなんておこがましい。 【「ハ」の用法 男は度胸、女は愛嬌 春はあけぼの 東京は浅草にやってまいりました〈1〉〈2〉】 以下は一部の抜粋(重言)。 ===========引用開始 b イチバンよねの〈ハ〉/と言ったらの〈ハ〉 枕草子の「春はあけぼの」が有名。 これもWeb辞書にはのっ ていないが、「東京は浅草にやってまいりました」の〈ハ〉とは違う。 「春のあけぼの」 には書きかえられない。 aの「大事よねの〈ハ〉」と微妙なものもあるが、かろうじて区別はつく気がする。 同様の例として有名なのは、「花は桜木、人は武士、柱は桧、魚は鯛、小袖はもみじ、花はみよしの」。 こちらは一休宗純の作らしい。 昔は「柔道一直線は桜木」「鼻(の穴)は桜木」とも言ったが、現代では「花道は桜木」の形が知られる。 o  ̄ー ̄; ゞううむ。 これはaの「大事よねの〈ハ〉」かもしれない。 微妙だ。 ===========引用終了 下記は厳密にはちょっと違うと思いますが、世間では同じように扱われているような。 ===========引用開始 a 大事よねの〈ハ〉 「男は度胸、女は愛嬌」が典型だろう。 この言葉は、「坊主はお経」と続く、と以前テレビ番組でも紹介されたらしい。 たしか『トリビアの泉』だったような。 この関連で秀逸なブログを発見したので転載しておく。 【男は度胸、女は愛嬌のことわざの続きは?】 ================================ 男は度胸、女は愛嬌、坊主はお経、 子供は勉強、 世間は不況と来たもんだ 男は度胸、女は愛嬌、坊主はお経で、おかずはラッキョウ。 「渡れぬ海峡、蝦夷は辺境」(ほっとけ)。 ===========引用終了.

次の

春はあけぼの|長谷川美智子|note

春 は あけぼの 続き

【原文】 春はあけぼの。 やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。 夏は夜。 月のころは さらなり、闇もなほ、蛍の多く飛びちがひたる。 また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光て行くもをかし。 雨など降るも をかし。 秋は夕暮れ。 夕日の差して山の端いと近うなりたるに、烏の寝所へ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど飛び急ぐさへ あはれなり。 まいて雁などの連ねたるが、いと小さく見ゆるは、いとをかし。 日入り果てて、風の音、虫の音など、はた言ふべきにあらず。 冬はつとめて。 雪の降りたるは言ふべきにもあらず、霜のいと白きも、またさらでもいと寒きに、火など急ぎおこして、炭持て渡るも、いと つきづきし。 昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶の火も、白き灰がちになりて わろし。 【現代語訳】 春は明け方がいい。 だんだんと白くなってゆく山際の方の曽良が、少し明るくなって、紫がかった雲が細くたなびいているのがいい。 夏は夜がいい。 月が輝いている時間帯は言うまでもなく、闇(月が登っていない)のときでも、蛍が多く飛んでいるのがいい。 また、たくさん飛び交ってはいなくても、蛍が一匹二匹とほのかに光って飛んでいるのも趣がある。 雨が降っているときも趣がある。 秋は夕暮れがいい。 夕日が落ちてきて山の端が近く感じるようになってきたころに、烏が巣に帰ろうと、三羽四羽、二羽三羽と飛び急いでいる様子にさえ心がひかれる。 ましてや雁などが列をつくって飛んでいる様子が小さく見えるのはとても趣があってよい。 日が沈んでしまってから聞こえてくる風の音や虫の音なども、言うまでもなくよい。 冬は早朝がいい。 雪が降っているときは言うまでもない。 霜がおりて白くなっているのも、またとても寒い時に、火を急いで起こそうと炭をもってくるのも冬の朝に大変似つかわしい。 しかし、昼になってだんだんと暖かくなったときに、火桶の火も白い灰になってしまっているのは似つかわしくない。

次の