織田 が つき 羽柴 が こね し 天下 餅 座 し て 喰 ら ふ は 徳 の 川。 三英傑

歴史のQ&A

織田 が つき 羽柴 が こね し 天下 餅 座 し て 喰 ら ふ は 徳 の 川

Q 4~6世紀というと古墳時代の真っ只中ですが、大阪府南部の堺市から羽曳野市にかけて巨大な古墳が集中しています。 古墳は日本全国に散在していますが、大阪府南部の古墳は特に大きく、巨大な権力を持つ者によって建造されたのは確実だと思われます。 おそらく全国レベルで影響力を持った者でしょう。 当時は陸上の移動方法が徒歩か馬しかなく、宮殿からそこまで離れた場所に古墳を造らなかったと思われるので、大阪府南部(おそらく大阪市南部か堺市のどこかの場所)に全国規模、狭くても中国地方から東海地方までを勢力範囲とする政権(大和か倭)の首都が存在したと考えてよいでしょうか。 巨大古墳という、これ以上ないほどのその存在を示す証拠があるわけですから。 A ベストアンサー 大阪南部に、その古墳を作る程度に力を持った権力者がいた、というところまでは正しいでしょう。 しかし、それが「日本(倭)の首都」であったという根拠は明確でありません。 「全国レベル」ということも、「全国」の定義も不明確で、「全国レベルで影響力を持った者でしょう。 」ということもあなたの推測です。 4~6世紀ほぼ同時期には、大阪府南部だけでなく岡山県吉備地区、奈良県奈良市・天理市・桜井市にも巨大古墳は多数あります。 また日本書紀には、5世紀の岡山吉備地区の有力集団の記載がありますが、彼らが大阪南部勢力に従属していた根拠はありません。 (敵対していたという記載もあるようです。 ) これらの複数地区が全て単一権力の支配下にあったという証拠は無く、ゆるいつながりをもった地方権力の並列性であった可能性もあります。 であれば、単一権力による中央集権制では無く、首都という言葉とはややずれます。 また、「大阪府南部に日本(倭)の首都があった」根拠として、あなたが示されているのは「大阪府南部の堺市から羽曳野市にかけて巨大な古墳が集中」という事実と、「宮殿からそこまで離れた場所に古墳を造らなかったと思われる」という推測ですが、後者を裏付ける根拠が必要です。 (あえて宮殿から離れた場所に古墳を作った可能性も排除できません。 ) 上述のような古墳の大阪南部・奈良・岡山と広がる広範な分布は、単一権力大阪南部存在説では説明困難です。 もちろん、「4~6世紀は大阪府南部に日本(倭)の首都があった」可能性はあります。 4~6世紀大型建造物であれば、土台構造物(穴や柱石など)などの遺構が残ります。 それによって、古代都市そのものを確定し、さらには政治形態を確定、首都と定義なども必要で、お示しされた根拠だけを理由に「4~6世紀は大阪府南部に日本(倭)の首都があった」と確定するのはやや無理があるでしょう。 参考までに巨大古墳を20位までお示しします。 5位までに大阪南部が多いことは事実ですが、同時期に岡山にもあり、20位までで考えれば奈良にけっこう後半に分布しています。 この分布をみると初期大和朝廷は天皇ごとに宮殿を変えていた説、有力豪族並列説(吉備勢力など)などに説得力があり、現在我々が想定するような首都というもの存在に疑問が生じます。 1 大仙陵古墳 大阪府堺市大仙町 中期 486m 仁徳天皇陵 2 誉田御廟山古墳 大阪府羽曳野市誉田 中期 425m 応神天皇陵 3 石津ヶ丘古墳 大阪府堺市石津ケ丘 中期 360m 履中天皇陵 4 造山古墳 岡山県岡山市新庄下 中期 360m 5 河内大塚古墳 大阪府松原市西大塚・羽曳野市南恵我之荘 330m 6 見瀬丸山古墳 奈良県橿原市見瀬町・五条野町・大軽町 後期 310m 7 渋谷向山古墳 奈良県天理市渋谷町 前期 300m 景行天皇陵 8 土師ニサンザイ古墳 大阪府堺市百舌鳥西之町 中期 290m 9 作山古墳 岡山県総社市三須 中期 286m 10 仲ツ山古墳 大阪府藤井寺市沢田 中期 286m 仲津媛皇后陵 11 箸墓古墳 奈良県桜井市箸中 前期 278m 倭迩連日百襲姫大市墓 12 五社神古墳 奈良県奈良市山陵町 前期 275m 神功皇后陵 13 ウワナベ古墳 奈良県奈良市法華寺町 中期 255m 14 市庭古墳 奈良県奈良市佐紀町 中期 250m 平城天皇陵 15 メスリ山古墳 奈良県桜井市高田・上之宮 前期 250m 16 行燈山古墳 奈良県天理市柳本町 前期 242m 崇神天皇陵 17 岡ミサンザイ古墳 大阪府藤井寺市藤井寺 後期 242m 仲哀天皇陵 18 室宮山古墳 奈良県御所市室 中期 238m 19 市野山古墳 大阪府藤井寺市国府 中期 230m 允恭天皇陵 20 宝来山古墳 奈良県奈良市尼ケ辻町 前期 227m 垂仁天皇陵 大阪南部に、その古墳を作る程度に力を持った権力者がいた、というところまでは正しいでしょう。 しかし、それが「日本(倭)の首都」であったという根拠は明確でありません。 「全国レベル」ということも、「全国」の定義も不明確で、「全国レベルで影響力を持った者でしょう。 」ということもあなたの推測です。 4~6世紀ほぼ同時期には、大阪府南部だけでなく岡山県吉備地区、奈良県奈良市・天理市・桜井市にも巨大古墳は多数あります。 また日本書紀には、5世紀の岡山吉備地区の有力集団の記載がありますが... Q 60代後半〜70代前半の方達に、「昔は貧しかった。 スマホやゲームもない。 今の若者が羨ましい。 」 とよく言われます。 今年81歳になる祖父に当時の苦しさを頻繁に聞かされてるんで、よく理解してます。 この世代は、スマホがない。 ゲームがない。 貧しい。 と思って暮らしてたわけじゃありませんよね?存在を知らないし。 戦前の記憶もないんですから。 戦後混乱期〜昭和30年頃の娯楽を調べてみると、その時代はその時代なりの娯楽を楽しんでおり、今に比べて大勢で仲良く遊ぶことが多く、私からすると羨ましいです。 今の若者達だって、これから技術の発達で50年後くらいには、もっと便利な暮らしが当たり前になって、今の暮らしが不便に感じる時が来ると思います。 だから、今の若者も60代後半〜70代前半の方達もお互い様。 一緒だと思うんですが、間違ってるでしょうか? A ベストアンサー アラフィフです。 親が戦中の生まれなので、質問者様の祖父と同じぐらいです。 私の親も「昔は貧しかった。 お前たちはいいな」と言われました。 確かにアラフィフとはいえ、いや今のねんだいだからこそ高度成長期からバブルの恩恵を受けた世代であるとはいえます。 また私の祖父 すでに他界しましたが、生きていれば110歳)も私に「昔は貧しかった・・」といいました。 祖父は大正デモクラシーの豊かな時代に青春を過ごしているので、戦中生まれの父よりも豊かだったはずなのにです。 そしてアラフィフになって最近周りの人たちが「昔は良かった。 今の若者は・・」と言いだし始めました。 個人的にはすごくイヤです。 少なくとも私たちの世代はバブルの真っただ中でまだネットも携帯もない(出る直前)でしたが、それでもものすごく豊かだったしバカなこともたくさんやってきた世代だからです。 Q 侍の勝負について質問です。 久しぶりにるろうに剣心の実写版を観ましてですね、「やっぱりアクションは凝っていて、大迫力やなあ」と感心しました。 映画を観てて思ったのが、日本の侍達が活躍してい た時代(何時代か分からない。 すみません。 )での刀の勝負って、映画のような激しい、速い、かっこいいものだったのでしょうか? (かっこいいというのは、ある種の見世物的な。 キメ技決めたり、ローマの闘技場のグラディエーターとかのような) それとも、先に早く抜いて斬り殺した者勝ちですか? 西部劇のガンマンのような感じの。 「ゆくぞ!」 「かかってこい!」 (緊張が解け、両者共に鞘から抜刀して人振り。 スパンッ。 相討ち) みたいな。 歴史に詳しい方お願いします。 A ベストアンサー 戦争ではなく、一対一の決闘形式の斬り合い ですね。 実際の記録をいくつか紹介します。 永遠に続くかと思われていたにらみ合いを やって、その後双方が突進した、と思ったら 片方が倒れた。 エイヤ、と斬り込んだが、間合いが遠すぎて 届かず。 それどころが、自分の膝に斬りこんでしまった。 さあ、斬り合いだ、と思った瞬間、意識が遠のき、 相手がはるか遠くにいるように感じた。 気がついたら相手が倒れていた。 誰かが侵入したらしい。 刀を持って待ち伏せしていたが、無性に喉が 乾き、雑巾を入れたバケツの水を飲み干した。 相手はそのまま姿を見せず、逃走。 たかが試合だって、極度に緊張するのが現実です。 それが刃物を持った殺し合いですよ。 緊張は極限状態に達します。 通常の精神状態で殺し合いなど出来ません。 久しぶりにるろうに剣心の実写版を観ましてですね、 「やっぱりアクションは凝っていて、大迫力やなあ」と感心しました。 あれは映画用のただの見世物です。 下半身をしっかり大地に踏ん張っていなければ、 作用反作用の法則からいって、人を斬ることなど 不可能です。 戦争ではなく、一対一の決闘形式の斬り合い ですね。 実際の記録をいくつか紹介します。 永遠に続くかと思われていたにらみ合いを やって、その後双方が突進した、と思ったら 片方が倒れた。 エイヤ、と斬り込んだが、間合いが遠すぎて 届かず。 それどころが、自分の膝に斬りこんでしまった。 さあ、斬り合いだ、と思った瞬間、意識が遠のき、 相手がはるか遠くにいるように感じた。 気がついたら相手が倒れていた。 誰かが侵入したらしい。 刀を持って待ち伏せしていたが、無性に喉が 乾き、雑巾を入れた... A ベストアンサー はじめまして、 No3さんの内容にほぼ同意なのですが、宮本武蔵が関ヶ原合戦に参加しただろうというのはほぼ定説です。 16歳でしたら元服をしている可能性が高いので、当時でしたら一人前、戦争に参加するのはあたりまえでしょう。 規模のおおきい戦場では多数の軍勢がぶつかりますので、剣豪とはいえ活躍するチャンスはありませんし、実際記録もありません。 島原の乱にも幕府軍の一員として参加していますが、一揆軍の投石により負傷しているぐらいです。 剣豪といえども一対一ならともかく団体戦や乱戦になればたいしたことはないんですね。 以下ウィキから2カ所を引用します 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは父の新免無二が関ヶ原の戦い以前に東軍の黒田家に仕官していたことを証明する黒田家の文書が存在することから、父と共に当時豊前国を領していた黒田如水に従い東軍として九州で戦った可能性が高い。 島原の乱では、小倉藩主となっていた小笠原忠真に従い伊織も出陣、武蔵も忠真の甥である中津藩主・小笠原長次の後見として出陣している。 乱後に延岡藩主の有馬直純に宛てた武蔵の書状に一揆軍の投石によって負傷したことを伝えている。 また、小倉滞在中に忠真の命で宝蔵院流槍術の高田又兵衛と試合したことが伝えられている。 wikipedia. 16歳でしたら元服をしている可能性が高いので、当時でしたら一人前、戦争に参加するのはあたりまえでしょう。 規模のおおきい戦場では多数の軍勢がぶつかりますので、剣豪とはいえ活躍するチャンスはありませんし、実際記録もありません。 島原の乱にも幕府軍の一員として参加していますが、一揆軍の投石により負傷しているぐらいです。 剣豪といえども一対一ならともかく団体戦や乱戦にな... A ベストアンサー 史実には諸説あります。 だから小説も多数の作家のものがあります。 小説の脚本は、必ずしも「小説=脚本」とは限りません。 篤姫の場合、記録が少なく、NHKドラマは「脚本」があたかも 本当のように面白く(悲しく)描けていました。 西郷と勝の江戸城無血開城交渉は緊迫したなか行われましたので これ以前に江戸城に入るのは無理だと思われ、これはドラマを 面白くするための脚本の所作と思われます。 つまり「西郷どん」はフィクションです。 そもそも、この時代のトップには「内戦回避、外国からの介入 回避」の認識があり、第一次長州征伐では激戦が起こりませんでした。 では薩長と徳川のNO2・3とNO1の激突である倒幕に何故 西郷は舵を切ったのでしょうか。 長州はともかく、西郷薩摩には「舵を切って」も「激突は回避され る」と踏んでいたのでは、ないでしょうか。 こういう推理がスリルなのです。 歴史探訪の醍醐味です。 西郷さんには思い入れが強い人が多く、よく描かれることが 多いようです。 「人を愛し、弱きを助け、国を憂え、強くをくじき、ブレル ことなく突進し、信念は生涯変わることはなかった」など と描かれ、作られる。 実際には、迷い、悩み、試行錯誤し失敗もし進んだのでは ないでしょうか。 完全な人間などはいないのです。 史実には諸説あります。 だから小説も多数の作家のものがあります。 小説の脚本は、必ずしも「小説=脚本」とは限りません。 篤姫の場合、記録が少なく、NHKドラマは「脚本」があたかも 本当のように面白く(悲しく)描けていました。 西郷と勝の江戸城無血開城交渉は緊迫したなか行われましたので これ以前に江戸城に入るのは無理だと思われ、これはドラマを 面白くするための脚本の所作と思われます。 つまり「西郷どん」はフィクションです。 そもそも、この時代のトップには「内戦回避、外国からの介入... Q 大河ドラマ「西郷どん」をみていましたが、薩長同盟は倒幕を目指す西郷が坂本龍馬に頼んで長州の桂に面談を取り持ってもらっているストーリーでした。 一方何年か前の大河ドラマ「龍馬伝」では薩長同盟は坂本龍馬が倒幕の構想を考えその結果、薩摩と長州で手を結ばせる様に出ていました。 史実としては実際にはどうなんでしょうか? 最初の下関での面談を西郷がすっぽかしている事から見ても西郷(薩摩)や長州ははじめから乗る期では無く、坂本が半ば強引に薩長同盟を結ばせたように感じるのですが。 そうで無ければ、その後坂本が「寺田屋」で暗殺されかかるはずも無いと思いますし、詳しい方、教えていただけませんでしょうか。 よろしくお願いいたします。 A ベストアンサー その辺は闇の中です。 というより、そういう核心を簡単に世間に漏らしてしまう人物に政治はできません。 なので真相に迫る客観的資料は皆無です。 前後の状況から、薩摩藩は第二次長州征伐で幕府に愛想を尽かし、薩英戦争で攘夷を捨てたと思われます。 しかし黒船以来の外国の脅威は変わらず存在し続けています。 ならば厳しい国際情勢の中で日本の独立を守るためには、思想や主義の隔たりは捨てて討幕勢力を大同団結し、革命を起こして新たな日本を作るしかない、 という結論には達していたようです。 ただしその後どちらが主導権を握って長州と仲直りし同盟を結ぶところまでこぎつけたか、それは資料がないため学問上の結論は得られていません。 学者はこういう場合「根拠が不十分なので推定不可能」というしかありません。 しかし作家には想像が許されています。 資料が語ってくれない闇の部分を自分のイマジネーションを生かして補う。 歴史小説はそうして作られます。 なお竜馬自体は勝の指示で動いていた節があり、そうであれば討幕派からすれば当然面白くありません。 当時流行した「天誅」の対象になるのは当然です。 しかしこれも確証がないため想像の範囲を超えません。 その辺は闇の中です。 というより、そういう核心を簡単に世間に漏らしてしまう人物に政治はできません。 なので真相に迫る客観的資料は皆無です。 前後の状況から、薩摩藩は第二次長州征伐で幕府に愛想を尽かし、薩英戦争で攘夷を捨てたと思われます。 しかし黒船以来の外国の脅威は変わらず存在し続けています。 ならば厳しい国際情勢の中で日本の独立を守るためには、思想や主義の隔たりは捨てて討幕勢力を大同団結し、革命を起こして新たな日本を作るしかない、 という結論には達していたようです。 ただしそ...

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【家臣たちも心酔! がまんで天下を勝ち取った徳川家康の人生とそこから読み解く教訓】|ベネッセ 教育情報サイト

織田 が つき 羽柴 が こね し 天下 餅 座 し て 喰 ら ふ は 徳 の 川

私も、質問者様のおっしゃる通り、信長は実像より、残忍なイメージで語られる事が多く、残念だと思っています。 「信長公記」には、果断で正義を重んじ、精力的で多忙、情誼が厚く道理を重んじ、儒者が描く古代聖王時代のような天下泰平再現に邁進した、古今無双の英雄として、描かれています。 また「信長公記」には、信長が民の為に行った様々な善行や、下記の文面があり、初めて読んだ時、感動した事を覚えています。 こんなに、誇り高い大将が居るのかと… 太田牛一の信長評「御武徳は、これ車輪なり。 御名を後代に揚げんと、長年 山野・海岸を寝床とし、甲冑を枕とし、武士の本意を業として、うち続く御辛労、なかなか申すに足らず。 」 質問者様と似ていますが私も、信長は、守護者としての武士であることに誇りを持ち、民の信頼に足る人物になる事を求める、正義感と使命感の強い、真面目な人物だったと思っています。 しかしだからこそ、後年信長は悪口雑言にまみれたのだと思います。 後世に名を残す事を目的とした、信長の正義感や優しさは謂わば「一般民衆」に向いており、それは必然的に当時の「支配層」とぶつかる事になったからです。 そして、歴史となる文書を残せるのは「民衆」ではなく「支配者層」達なのですから。 例えば、関所撤廃や楽市楽座は「民衆」には恩恵ですが「支配者層 寺社等 」にとっては収入源の削減で極悪政策、良く言っても大衆に迎合したポピュリズム、人気取り。 部下達を休む暇を与えず、早急に天下統一 戦争の無い状況 を進め、また彼らに占領地で略奪させないのも「民衆」には恩恵でも「支配者層 信長の部下の大名達 」からすれば、こき使う割にケチなキツい大将と、愚痴をこぼしたくもなるでしょうし、反乱を考えるかもしれません。 もちろん敵対する大名 支配者層 は云わずもがなです。 地方分権で気儘に振る舞っているのに、天下統一に協力しろとか、攻め滅ぼすぞ、とか身分の低い田舎者のくせにふざけるなと言う事です。 そして、彼らとて民衆を重んじた信長の施策自体は批判しにくいので、信長の人格批判になりがちだったのでしょう。 信長がいなければ民衆から楽に銭を巻き上げられたのにとはさすがの彼らも書きにくい、信長は残酷だった人格的に破綻していたと書く訳です。 加えて織田家が没落し、元部下格の徳川家が最終的になった事が信長への悪口雑言に拍車をかけました。 元々織田家の実質部下だった徳川家が政権世襲する事を正当化する為には、信長が優秀且つ人格者では成り立たない。 しかし信長が優秀である事を否定する事はできない。 家康は優秀ですが、民を安んずる天下統一事業に、それほど直接的に貢献した訳ではないからです。 織徳 清洲 同盟締結時 1562年 には、約50万石:約20万石、と対等に近かった関係は、天下取り確実の本能寺直前には、約700万石:約70万石と隔絶。 つまり、天下統一事業のほとんどは信長が行った、家康は天下人にはなったが、それは引き継いだ 乗っ取った? にすぎないと言う事、正に「織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座して喰らふは 徳の川」と言う訳です。 もちろん、徳川に全く功績がなかった言う訳ではありませんが… そこで徳川世襲のバックボーンとした儒教を都合良く使って、家康が織田家から 実際には豊臣経由ですが 政権を奪ったのを正当化したのだと思います。 信長は、征服事業を成し遂げたが徳はない 天下統一するため残虐行為や不義理を多々行っている 、天下を治める器ではない。 天は天下を徳のある徳川に任せたのだと記載したと言う訳です。 実際天下統一に功績が少ない分?、手を汚した事が少ない事は事実で、それを活用できるのです。 儒者 新井白石等が有名ですが、信長をとんでもない人格破綻者のように記載しています。 だめ押しは、生臭坊主を成敗した折に言われた「天魔」と、フロイス書簡に記載された「第六天魔王」でしょう。 欲界居住者には、弥勒菩薩・閻魔大王 夜摩天 ・帝釈天 ヒンズー教のインドラ ・毘沙門天 謙信信仰 等がおり「第六天魔王」は彼らより、数ランク上の結構な存在ともいえるのです。 確かに仏教が欲を無くす解脱を目標としている関連から、欲界最高位の「第六天魔王」は、それを妨げる存在として、疎まれる事もありますので、似た所もあるのですが、イメージは怖いですね。 ちなみに、フロイス書簡で信長が「第六天魔王」を自称したと書かれる事が、多いのですが、これも誤解の可能性があります。 この書簡では、 「天台座主沙門信玄」と名乗り威張る信玄、それに対して信長が「第六天魔王信長」と反逆者精神丸出しで名乗り返したとも、 信玄が、自身を「天台座主沙門信玄」と呼び威張り、信長を「第六天魔王信長」と呼び蔑んだ、とも あるいはその他の内容だったとも、色々解釈できるからです。 なぜなら、フロイスの書いた原文には、信玄が信長への手紙に驕り高ぶって自身を「天台座主沙門信玄」と書いた、とは記載されているのですが、信長の方は、それに対して「第六天魔王信長」とあるだけで、主語と述語が省略されているからです。 なにしろ以上から残っている資料の多くは悪口ですので、難しい所はあるのですが、信長の真面目さや大義に生きた事が評価されるようになって欲しいと私も願います。 信長は、民衆(大衆)などの評判、歴代から現在の韓国大統領および政府などの見られる、支持、人気などを念頭の、いわゆる大衆主義(ポピュリズム)、俗にいう忖度など情緒を気になどせず、時代を切り開いてゆく先取、開拓精神に猛進する、それも峻烈な北風政策であった次第。 信長自身も我が身を第六天魔王と自称、中世の既成概念を壊し新時代の創成を目指すという大望があった。 故に破壊と創造の神とされたインドのシバ神にも似た荒治療を行った。 イタリアの思想家マキャベリーが説いた君主論(君主たるもの、人々に愛されるより畏怖されるべし、政治目的のためには暴力的手段も許されるなど)信長自身はこのマキャベリズムそのものであった。 戦国乱世に終止符をうつには、この大胆なメスを入れるカリスマ的存在であったわけ、従って、そのダイナリズムは時にバイオレンス的であり、だが合理的であり信長の現実主義が鮮明であった。 彼の新しい世の創成には、「日本においては、自分こそが生きた神、生きた仏であり、神主や坊主が大事にしてる石や木などは、神仏でないのだ」とも言い切っている(現実合理主義の信長、あの世など存在しない。 死ねば無であると断言)。 宣教師、南蛮商人たちをとおして、新しい世界建設のためには、ヨーロッパの文化が必要だの先見の明もあった。 この鮮烈な個性ゆえに、敵も多くいる。 それは、古今東西の英雄たちに共通する毀誉褒貶(きよほうへん・褒める評価、否定する批判)はつきものである。 Q「織田信長は史実は真面目で謀略は少ない人ですが、何故に魔王みたいに言われる様になったのでしょうか。 」 戦国時代の基督教の宣教師「ルイズ・フロイス」の「日本史」という史料に「武田信玄」が「天台座主(天台宗比叡山延暦寺の貫主)」と書簡にしたためたのに対し「織田信長」がその「天台宗」の仏敵である「第六天魔王(ダイロクテンマオウ)」と称し手紙を返したという逸話があると紹介したため、この史料から昭和期などに信長の渾名として「魔王」が取沙汰されるようになりました。 ただこの「魔王」にはいくつか間違いや誤解があるとされ、まず日本での正式名は「第六天魔」です。 「天魔」と「魔王」では意味や概念が若干、違いますが、この「天魔」という概念は「基督教」には無く、結果「基督教」の「魔王」という概念に当てはめルイス・フロイスが紹介したとされます。 また「第六天魔」は当時として「僧侶」などが「武家」を中傷する際に使われており先には「足利義教」や「足利尊氏」も第六天魔と称され誹謗されていました。 こういった流れをルイスフロイスがどこまで、把握していたか解らないことと、実際に信玄がその役職でも無い「天台座主」を名乗るのか?や信長が自分で「第六天魔」など名乗るか?など疑問が多くある話しでもあります。 史実、というか一次史料として重要である「信長公記」などでの研究においての信長像が「真面目で謀略は少ない」とされているんですよね。 そこでは信忠・信雄に対して厳しいとはありますが、「怒りっぽい」とは当たらないです。 軍律違反以外で家臣と接したことは、晩年までは見当たりません。 曹操のような苛烈さと優秀性を同時に併せ持つ英雄、という部分は同感です。 旧勢力を締め上げた、とされていますが、座にしろ寺社・貴族にしろ新興勢力(朝廷から門跡を得るまでの浄土真宗を含む)との間で摩擦となっている権益の帰属については絶対権力が出来上がる過程ですり合わせなければならない問題でしたので、信長以前の戦国大名が天下を取っても、秀吉や家康が信長不在で天下を取れても、いずれは「憎まれ者」にならざるを得ませんでした。 悪さが誇張されたのは、武田信玄との書簡のやり取りでの口げんかが由来でしょう。 安土城のライトアップを愛でていた当時の庶民は、信長にそんなイメージは抱いていなかったと思います。 我々の時代越しの評価よりも、当時の大衆にとってどんな存在であったかこそが重要だと思います。

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織田 が つき 羽柴 が こね し 天下 餅 座 し て 喰 ら ふ は 徳 の 川

新年明けましておめでとうございます。 お正月にはたくさん美味しいものを食べて、しばらくは体重計には乗らないようにしよう…と思っている方も多いと思います。 それでもすぐに 鏡開きとなりまたお餅をたくさん食べてしまい大変なことになりますね…。 今年はそんなことにならないように気をつけたいと思います。 鏡開きは、今は1月11日の地方が多いですが、江戸の初期までは1月20日に「 刃柄(はつか)の祝い」として武家が具足祝い、具足開きを行っていました。 先祖伝来の鎧兜にめでたい食材を供えた「 具足餅」を20日に雑煮などで食したのです。 三代将軍家光が4月20日に亡くなってからは20日を忌避して、大名の米蔵開きの日であった11日となり、今の鏡開きにその伝統は引き継がれています。 刃の祝いに、具足餅といかにも武家らしいですね。 さらに餅を分ける際には切腹を連想する刃物は用いずに木槌でたたき分けるという徹底ぶりです。 さて、今回はこの具足餅の様子を戦国乱世を戦い抜き、豊臣政権下で大名となった伯耆の国人領主 南条氏のある正月からご案内します。 (2019年1月2日最終更新) 目次• 南条中務殿、具足の餅の祝 伯耆の守護南条中務殿は、代々武辺の家と言い伝えられていました。 この家では、 毎年正月20日には、 具足の餅の祝いがあり、侍たちは残らず城に集まっていました。 南条の殿様は、甲冑をつけて床几に腰をかけられ、大土器(おおかわらけ)での酒宴となりました。 殿様は続けさまに二盃を呑まれ、「おもいざしなり、その方もおもいざしをせよと」とご家老に大土器にて盃をすすめられました。 (おもいざしとは、自分のこれと思う人に盃をさすこと) ご家老は、「ありがたきこと」と盃をおしいただき、なみなみと受けて呑み、そして自らもなみなみと酒を注いで、暫し考える様子をみせました。 その座にあるものは、「ご家老はだれにさすものか…」と待っていると、ご家老は首を伸ばして座のうちに視線を巡らせて、我が子を呼び出しました。 「この土器にておもいざしをせよとの仰せを受けて、しばし考えたが殿様に献じたのではとても厚かましい。 その方よりも思う人はいない」と言って、土器を我が子にさしました。 突然のことでご家老の子は戸惑いましたが、親の命ずるとこであるので「かたじけなく存じます」と引き受けて、二盃を呑み干しました。 殿はとても感じ入って、「よくさしたり、よく飲みたり、酒の肴なくしてはかなわない」とそのとき身につけていた具足に帯びた脇差に熨斗蚫(のしあわび)を副えて賜わりました。 君臣と父子の情、そして真実の道理をあらわしていて、末頼もしいことということで、これを猜む(そねむ)人はいませんでした。 (備前老人物語より意訳) 余話 このお話に登場する南条中務は、安土桃山時代から江戸初期の武将 南条元忠のことです。 南条氏は伯耆の国の国人領主で、戦国時代には尼子・毛利、そして織田と属する勢力を変えながらなんとか生き残ります。 大勢力に翻弄されながらも、必死の舵取りを行う姿は、真田氏と同じですね。 元忠は幼くして父を亡くし、関ヶ原では西軍に属して伏見城・大津城攻めに参加したかどで改易となってしまいます。 このとき元忠は21歳。 父元続を幼くして亡くしていたのが時勢が味方しなかった原因でもあるかもしれません。 ここにおいて大名家としての南条氏は滅亡します。 南条氏の旗が再び揚がったのは、大坂の陣でした。 真田信繁同様に南条元忠も父元続以来の豊臣の恩顧に応えて旧臣とともに入城し、冬の陣では大坂城平野橋口を兵3千で守備していたと伝わります。 以下は軍記物の記述で真実はわからないのですが、元忠には次のような説があります。 いずれにしても、元忠の家臣佐々木氏が大坂から元忠の遺骨を持ち帰ったとの記録があるため、大坂の陣で亡くなったことは確かなようです。 具足餅のお話は、おそらく元忠が大名であった1591年から1600年のいずれかの正月のことと思われます。 鏡開きのめでたいお話から、大坂の陣で亡くなるまでのことがわかり、 栄枯盛衰を感じざるを得ません。 少し最後は、めでたいお話が暗い話となってしましましたが、400年以上の後の世に、家臣と楽しく具足始めを行っている様子が伝わっているということが分かれば南条元忠もきっと喜ばれるのではないかなと思いました。 そのように想いながら、やはりわたしはお餅をたくさん食べたいと思います(笑).

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