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白石監督、若松監督に感謝/日刊スポーツ映画大賞

若松日刊

原発立地地域の深刻な問題に真正面から向かい合い、詩、評論、ルポルタージュなどで、危機を警告し続け、その身を動かして反原発の闘いに参加して来た詩人・若松丈太郎さんの最新の一冊が発行された。 若松さんについては、昨年、『福島原発難民』(コールサック社刊)に接して以来、筆者は、その後のまことに優れた詩作、評論による詩人の動向を追ってきたが、今この著書で「核災」「核発電」という、物事の本質を的確に表現し、核加害者・勢力を人間の生きるその真実の根拠地から糾弾する詩人の魂に、改めて深い感銘を受けている。 筆者は「あとがき」で次のようにことばを燃え立たせている。 「東電関係者の間では、福島を<植民地>と言っている。 」と言う、ある人から聞いた言葉にはじまり、<東北>はすべて彼らの植民地という意識なのであろう、と記してからの文章を引用させていただく。 「彼らとは、いわゆる原子力村の住人だけを指して言うのではない。 彼らとは、日本という新帝国主義国家を構築した政官財を中心とする権力の枢軸でもある。 政府は、米国と経団連の圧力に効しきれず、民意を斥けて大飯核発電所を再稼働し、また『革新的エネルギー・環境戦略』を有名無実なものにしてしまった。 いま、わたしたちは『日本国憲法』の第十一条をはじめとする条項で認められているはずの権利を保障されず、国家の主権者であるとは認められない状況のなかでいきている。 」 これは、いま苦難に喘ぎ人間としての生活を生きられない<核災棄民>の状況を述べているだけではない。 この国が原発列島であり、福島の核災が起るべくして起こった以上、この国に生きるすべての人々の置かれる状況について、かつて若松さんがチェルノブイリを訪れ、その実情と核の本質を胸に据えて書いた福島<核災>以前の詩の数々と評論が警告したように、この国のすべてに通底する実態についての、凝縮された言葉であろう。 いま、安倍自民党政権が、彼らなりの前へなのか、あるいは前と後ろの時間軸を組合せ接合して作り出そうとしている危ういこの国の先行きへのスタートの時、若松さんの『福島核災棄民』は、福島、核災、棄民それぞれの言葉を、読む者が自分の居る場所で、筆者で言えば、現状が変わらなければ、「茨城、核災、棄民」にならざるを得ないだろう一人として、若松さんのこの本に収載されている詩、評論、ドキュメントなどを読むことの意味は大きい。 それは、この国について読むこと、わがこととして読むこと、人が生きること、たたかうこと、つながること、そして自分を主権者として捉えなおすことを、自覚的に思わされるだろうに違いない。 今回の選挙の結果で、核の本質が、核災の底なしのむごさが、核発電所が存在してはならない理由が変わったわけではない。 そして人間の生きる権利、この国の主権者が変わったわけでもない。 そうであれば、主権者としてどう振る舞わなければならないか、主権を奪おうとする企みにどう対抗しなければならないか、考えよう、つながろう、動こう・・・その力があるのだから、と思う。 若松さんの『福島核災棄民』の六章からなる構成は、まことに見事なものである。 多くの人々の知恵が結集されてなった一冊なのだろう。 順を追って、内容を見ていきたい。 「一章 町がメルトダウンしてしまった」は、二〇一二年三月一日の若松さんの詩「町がメルトダウンしてしまった」と「原発難民ノート」(二〇一一年三月十五日から四月三十日までの日録でこの間のさまざまな動きが記録されているが、驚くほど具体的で、目配りが聞いていて、政府の動きから自身を含めた人びとの暮らしまでを若松さんの直視と思索によって記録している。 ) 詩は、人々の生活のありようがもつ本来的な豊かさや文化を生み出す仕組みが戦争で、戦争をすすめた国の一億総動員体制による仕掛けで壊され、そして戦後のアメリカ流の経済のあり方が東北の町や地方にまで進出して町や地方を壊し、ついにはアメリカ渡来の<核発電>(原発)の暴発、メルトダウンによって地方のどこにでもあるようないくつもの町がメルトダウンしてしまった、ことを表現している。 そこにあるのは、若松さんが自らをも含めた、見つめた人の暮らしへの深く優しいまなざしと、それを壊し、メルトダウンさせてしまう権力者達の人々の生活を歯牙にもかけない暴挙、利益追求経済主義の人間が人間を食う弱肉強食の社会の常態化、そしてそれが行き着いた核発電の非道への限りない怒りを込めた告発であると、筆者は読んだ。 貴重な証言である。 この、実態を見つめた先に、「二章 キエフ モスクワ 一九四四年」があり、若松さんがチェルノブイリの原発事故の八年後に現地を訪れた時の記録が記されている。 長期間の滞在ではなくさまざまなら制約があった中での訪問だが、若松さんの観察と研究とも言える実地での人びとや施設での交流、取材体験、そのルポ形式の文章の精確で豊かな人間味あふれる表現は、チェルノブイリの実相をリアルに捉えることで、チェルノブイリをを超えて、核のもつ本質的な危険性と底知れない、人間だけではなくすべての命あるもの、生きる環境に対する破壊を伝え、それはつまりのところ、その核を利用するもの、しようとするものたちに対する徹底した糾弾となる。 核発電所の近くに生活し、その危険性を警告し続けてきた若松さんならではのルポルタージュ文学である。 「三章 福島核災棄民」では、「福島から見える大飯」「広島で。 <核災地>福島から。 」が書かれている。 「広島で。 ・・・」では、<核発電>、<核災>と言う言葉を使うことについて書いている。 「広島・長崎と、同列に福島を語ることができるのか、あるいは、同列に扱うことに意味があるのかという疑問を抱いている人が少なからずいるのではないかと感じています。 /核兵器は核エネルギーの悪用であり、核の軍治利用の副産物である<核発電>は核エネルギーの誤用といわれている。 そこで、わたしは原発を<核発電>、原発事故を<核災>と言うことにしている。 その理由は、同じ核エネルギーなのにあたかも別物であるかのように<原子力発電>と称して人びとを偽っていることをあきらかにするため、<核発電>という表現をもちいて、<核爆弾>と<核発電>とは同根のものであることを認識するためである。 さらに、<原発事故>は、単なる事故として当事者だけにとどまらないで、空間的にも時間的にも広範囲に影響を及ぼす<核による構造的な人災>であるとの認識から<核災>と言っている。 チェルノブイリ核災から二十六年だが、まだ<終熄>してはいない。 福島核災は始まったばかりで、二十六年後に<終熄>していることはないだろう。 まったく先が見えない災害なのである。 」 と述べているが、事の本質を明らかにできる言葉を使い、「広島の皆さんといっしょに考えることによって、共有可能なものを見いだすことができるのではないかと、考えています。 」というのである。 この章では以上の1. はじめに、に続いて、2. <各施設>の危険性を認識しながら国策として推進した問題、3. <各施設>の危険性を認識しながら、十分な対策を講じなかった問題、4. <核災>発生後の指示、住民への対処の問題、5. <核災>発生後の事実の伝達などの問題、6. <核災地>の現状、7. 労働者被曝の問題、8. 負の遺産の問題など、9. その中の結びにあたる部分で 「この集会のスローガンに『福島から広島が学ぶこと』とありますが、むしろ、広島・長崎の人びとの六十七年に及ぶ長い闘いの蓄積から福島のわたしたちが学ぶべきことが多いはずです。 広島・長崎と福島をいっしょに語ることによって、共有可能なものを見いだして将来に生かすことができるはずだと考えています。 」 として、核兵器・核発電の廃絶に向かう展望を語っていることの意義は大きいと思う。 この章の一連の文章は<核災>によって何が人間を苦しめたのか、それを起した原因者達が行ってきたことは何か、いま被災者がどのような状況下で生き、どのような困難に直面しているのか、原因者達はどのように裁かれなければならないのか、貴重な指摘、問題提起がなされている。 「四章 戦後民主主義について」には、3・11後に多くの媒体に買いてきたエッセイや評論などを纏めていて、いろいろな論点の展開、戦後民主主義についての論考が魅力的で、筆者はうれしい共感を持てた。 多くの人々との交流、国語教師としての経験、多彩な読書歴など、若松さんを知る上でも貴重である。 「五章 ここから踏みだすためには」ではコールサック社刊の『命が危ない 311人詩集』、『脱原発・自然エネルギー218人詩集』の作品について論じていて、この詩集を読んだ筆者にとって、改めて興味深く読むことができた。 詩人の個性的な感性と社会との切り結びなど、短歌を読む筆者にとって刺激的でもあった。 また「<被災地>福島の、いま。 」の「神隠しされた街 チェルノブイリ、ここに再び」「子どもたちのまなざし 来て、現実を直視してほしい」にうたれた。 「六章 海辺からのたより」には、若松さんの詩二編が収録されているが、「海辺からのたより一,二」「記憶と想像」に、若松さんの時間的、空間的な広さと深さを持つ詩人としての感性、その表現、人間としての大きなやさしさと鋭さと、打ちひしがれない強靭さを感じた。 同書のために書かれた、詩人でありコールサック社の代表である鈴木比佐雄氏の解説は、詩友である若松さんについて、同書の編集・発行人にふさわしく、心のこもって行き届いた内容であり、読者にとってはありがたいものだった。 そのなかで 「3・11以後に世界の文明の在り方をもう一度根本から見直し、他者の人権、生きとし生けるものの生存権、地球環境の保全などを未来の子どもたちに手渡していくために、自分の暮らしを変えていこうと考えている人々にぜひ、この評論集を読んでほしいと願っている。 若松さんの問いかけは、市民文化を育てるような生きていく場所から、自らの生き方を通して、他者の人権や生存権など民主主義の根本を自分の頭で考え、自分の言葉で語り、責任ある思いやりのある行動をしてほしいと言う、心からの願いだろう。 」 と評しているのは、まさにその通りであると思うとともに、鈴木さんの意思を語っているのだろうと読んだ。 さらに、鈴木さんは解説の中で、次のことを記している。 『今後の若松さんの実際の行動の一つを紹介しておきたい。 十一月十六日付の東京新聞の社会面で第二次の『福島原発告訴団』が東電の勝俣恒久前会長ら事故当時の経営陣三十三人を業務上過失致傷などの疑いで福島地検に告訴したことを大きく報道していた。 この第二次の『福島原発告訴団』は、一万三千二百六十二人で避難途中の死亡、避難生活に絶望した自殺、甲状腺異常の被害の子ども達の親御さんなど四十七都道府県の人びとだ。 若松さんは今年六月に福島県民だけで結成した第一次『福島原発告訴団』の千三百二十四人の一人だ。 私はこの二つの裁判を通じて、原発を推進してきた東電幹部と政府・行政、政治家たち、原発メーカー、原発を肯定してきた学者・外郭団体たちなどの『原子力村』の利権の構造や無責任体制や『棄民政策』が徹底して暴かれることを期待している。 若松さんの本書が、これらの裁判の関係者たちや福島のことを決して忘れてはならないことと考えている多くの人びとに読まれ、彼らを勇気付け励まし続けることを願っている。 」 筆者も同感だ。 なお、付属CD「神隠しされた街」は、稲塚秀孝監督・ドキュメンタリー映画『フクシマ2011〜被曝にさらされた人びとの記録』(詩・若松丈太郎 曲・歌:加藤登紀子)である。 筆者はしばしばこれを聴く。

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今宮健太、周東は「走る以外は何もないです」/若松

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経歴 [ ] プロ入り前 [ ] で国鉄職員の長男として生まれる。 父の竹四郎は、社会人野球の強豪・の元選手で、アマチュア審判員の資格も持っており、国鉄でも軟式野球チームに所属していた。 また野球以外にもで国体への出場経験があった。 そのため若松も幼少の頃から野球とスキーに親しみ、では、夏は野球部、冬はスキー部に所属し、また陸上部の助っ人としても駆り出され中距離走(800m)で大会に出場し優勝している。 若松は中学時代のノルディックスキーと中距離走によって、知らず知らずのうちに下半身が鍛えられたと述べている。 入学時にはスキー部か野球部のどちらに入ろうか迷っていたが、野球部の猛練習を見て入部を決意した。 2年生からのレギュラーになり、チームはに進出するが 、若松はのため欠場を余儀なくされる。 しかし翌には、背番号14ながら三番打者、として出場。 1回戦でに敗退する がこの試合で4盗塁を決め、その俊足が注目される。 卒業後はに進む。 、など強豪が多く、チーム自体はに出場できなかったが、補強選手としてから4年連続都市対抗に出場。 1967年のでは拓銀に補強され、2回戦で本塁打を放つなど中心打者として活躍し、拓銀の準々決勝進出に貢献した。 公称168cm(自称166cmだった )という小柄な体型で、プロ選手としてやっていく自信がなかったため、プロ入りには自他ともに消極的だった。 しかし1970年秋に、翌シーズンからを指揮することになった新監督の婿で、ヘッド兼打撃コーチのが若松の素質に目を付け、プロ入りを勧めた。 プロ入りを嫌って家を空けて逃げ回る若松のもとにはスカウトが7度も訪れ、最後には中西もスカウトに同行して、不安視していた父親と夫人を「体が小さくてもやれる」と説得したので 、最終的に若松も夫人に「3年の時間をくれ。 3年やってダメだったら、北海道に帰ろう」と言ってプロ入りを決意した。 現役時代 [ ] 3位でに入団。 背番号は「 57」。 指名の第一報は電話で球団のスカウトから伝えられたが、その声が所属チームの監督そっくりだったらしく、若松は「監督、何を冗談言ってるのですか」と信じなかったという(本人は社会人入りして5年経過しても声が掛からなかったこともあって、プロ入りはないと決め込んでいた)。 若松は夫人と共に北海道から上京し、入団発表でも夫人を同伴している。 入団後は、プロ入り前から若松の素質に目をつけていた中西コーチとのマンツーマントレーニングで猛練習を積み重ねた。 中西のあまりの熱の入れように、三原がなぜお前はそこまで若松に入れ込むのかと尋ねると、中西は「一生懸命やってるから、最後までついて来て人一倍練習やってるし、教えないわけにはいかない」と答えたという。 その猛練習の甲斐あって、1年目のから左翼手のレギュラーに定着。 112試合に出場して規定打席未満(305打席)ながら打率. 303を記録した(同年のセ・リーグの3割打者はのみ)。 同年オフにを「 1」に変更。 2年目のには打率. 329、リーグ2位の20盗塁という成績を残してを獲得し、リーグを代表する外野手となる。 1973年もリーグ2位の打率. 313を記録する。 1972年と1973年は2年連続でリーグで打率3割以上が2人だけだったが、どちらの年も3割を記録したのは若松のみだった。 1974年は全試合出場を果たし、リーグ5位の打率. 312で3年連続で3割を残した。 1975年はプロ入り後初めて打率3割を逃すが、1976年は、と激しい首位打者争いを繰り広げ、終盤に失速したものの打率はリーグ3位の. 344を記録した。 しかし若松自身は首位打者を逃した悔しさから練習量をさらに増やしたという。 翌より中堅手にコンバートされ、同年に打率. 358、20本塁打という自己最高の成績で2度目の首位打者を獲得し、ヤクルトの2位躍進の原動力となる。 三振数は503打席に立ってわずか14だった。 には、と共にクリーンナップを組む。 開幕時こそやに悩まされ、5月初めの時点では打率. 228と不振に陥るが、5月6日の大洋戦で3イニング連続本塁打を記録するとそこから復調した。 最終的にと首位打者争いを繰り広げてリーグ2位の打率. 341を記録するなど活躍し、チームは開幕から129試合連続得点という記録を打ち立てて初優勝。 若松は自身初のに選ばれた。 日本シリーズでは第5戦に本塁打を放って勝利に貢献し、優秀選手賞を獲得。 シリーズ第7戦までもつれた対決はヤクルトが勝利し、チームは初の日本一となった。 1979年にが入団したため中堅手から再び左翼手に回る。 1980年にはリーグ2位の打率. 351、1983年もリーグ2位の打率. 337を記録。 1985年10月9日の対阪神戦で5回表にから右前安打を放って史上21人目となる通算2000本安打を達成。 会員となる。 から打撃コーチ補佐兼任となり(1989年はコーチに昇格 )、監督にをスイッチヒッターに転向させるよう進言し、栗山に対して熱心に打撃指導を行った。 その甲斐あって栗山はこの年、規定打席未満(258打席)ではあったが打率. 301をマークし、右翼手のレギュラーを獲得している。 の対中日戦で、守備の際にと衝突してを骨折する。 この怪我の影響で、持病の腰痛が悪化して守備につくことが難しくなったため、監督は若松を専門で起用するようになった。 この年には代打打率. 444(36打数16安打)を記録。 以後引退までの3年間、代打の切り札として活躍し、通算代打成績は打率. 349(258打数90安打)12本塁打70打点という好成績であった。 限りで。 ヤクルト一筋19年、42歳まで現役を全うした。 生涯通算(4000打数以上). 31918は歴代3位(2019年終了時点)の記録であり、5000打数以上の中では歴代1位(2019年終了時点)である。 現役時代に付けていた背番号「1」は、若松の引退後、「に」との署名が多く集まり、以降背番号「1」は・・・といったチームの顔となる生え抜き選手のみに着用が許される番号となった。 若松は球団社長のから監督候補として期待されており、相馬の意向を受けた関根から指導者としてのレクチャーを受けていた。 そのためオーナーのによる監督招聘構想が完全に頓挫した8月頃には、引退と同時に次期監督への就任が濃厚と噂されたが、球団内には「すぐ監督してもうまくいかない」と危ぶむ声もあり、また本人も難色を示したため話は立ち消えとなって 、オーナー代行のが推す元監督のが新監督に就任した。 引退後 [ ] 引退後はからまで・解説者と評論家。 一軍打撃コーチとしてヤクルトに復帰し、からまで二軍監督、からまで再び一軍打撃コーチ、から野村の後を受けて監督に就任しまで務めた。 これは選手の地力(スピードとパワー)を向上させることで、「」を主唱した前監督野村時代のようなデータ重視の野球だけではなく、根本からチーム力を底上げしようと図ったものであった。 若松は在任中にこの目標を完全に達成することはできなかったが、日本一に加えて球団史上初の4年連続Aクラス入りを果たした。 野手の起用においては、生え抜き組・移籍組を問わずベテラン選手を多く起用する傾向があったものの、一方で岩村明憲・青木宣親らのように若松の下で大きく成長した若手選手もおり、新旧交代に著しい支障をきたすことは無かった。 投手の起用に関しては率直に自らの本分ではないことを認め、おおむね投手コーチの・に一任していた。 また、現役引退後は球団広報を務めていたの指導者としての資質を買って打撃コーチ補佐に抜擢している(のち打撃コーチに昇格)。 はがFAで移籍、が退団、・が故障離脱と先発投手陣に深刻な不安を抱えた状態で開幕を迎え、苦戦が予想された。 しかし、ベテランがチームを牽引し、主砲を筆頭とする強力打線が猛威を振るうと、懸念されていた投手陣も、2年目のが14勝をあげて最多勝を獲得し、テスト入団の・や8月に加入したらが奮闘して穴を埋め、チーム防御率3. 41とリーグトップの数字を残して戦前の不安を払拭し、終盤で巨人を追い抜いてリーグ優勝を果たした。 10月6日、優勝を決め胴上げされた直後のインタビューで「ファンの皆様、本当に おめでとうございます」と発言した。 この発言についてはマスメディア等で「ありがとうございます」を言い間違えのだなどと揶揄されたが、若松自身は「温かい目で見守り、熱い応援をしてくれた。 そんなファンに真っ先に感謝したかった。 私は『ありがとうございます』と言うより、『おめでとうございます』と言ったほうが、感謝の気持ちを表すにはふさわしいと思った」と述懐している。 この言葉は、同年のの語録賞に選出されている。 2015年のヤクルトのリーグ優勝およびクライマックスシリーズ制覇時に、2001年優勝メンバーであった監督がインタビューの際にこの言葉を引用している。 ではと対戦し、第1戦のの好投、古田の攻守にわたる活躍により、4勝1敗で日本一に輝いた。 6月9日横浜戦の7回の守備でが放った内野ゴロの判定を巡って抗議した際、一塁塁審の審判員の胸を両手で突き、暴力行為で退場を宣告された。 若松監督自身は現役時代も含めてプロ31年目で初の退場となった。 では、管理職である監督という立場にもかかわらず、のへの吸収合併に反対する選手会の署名活動に参加し、自らも合併反対の署名をしている。 必死に活動する古田の姿を見て協力できることがあれば何でも協力してあげたいと思い、また球団が「身売り」ではなく「消滅」すれば、選手やスタッフが職を失うばかりか、その球団のファンが悲しい思いをする。 プロ野球はファンあってのもので、我々はファンのおかげで高い給料をもらえているのだから、そのファンのためにも球団を「消滅」させてはならないと考えたからである。 と述べている。 、本拠地でのシーズン最終戦(対横浜)終了を以て、7シーズンにわたる監督生活を終えた。 退任記者会見では「1度しか日本一になれず申し訳なかった」と発言した。 就任前年に親会社で発生した事件のあおりを受けて球団に投じられる予算が激減し、十分な補強を得られない状況下にありながら、チームを立て直して日本一に導き、その後の3年間も連続してAクラスを保ったにもかかわらず、自らの功績を誇示するどころか、かえってこのようなコメントを発するのは異例のことではあったが、実直でチーム一人ひとりへの思いやりが強い若松ならではの一言と評された。 ヤクルト監督時代は7年間でAクラス4回(連続)、優勝・日本一1回という結果を残した。 若松はヤクルト球団史上初となる生え抜きの優勝監督であり、現時点ではヤクルトで選手・コーチ・監督の全ての立場でリーグ優勝と日本一を経験した唯一の人物でもある。 若松の下でプレーした選手はおおむねその人柄を慕うとともに指導者としての手腕を高く評価しており、は「この人を勝たせてあげないといけないと思ってしまう監督」と語り 、は特に尊敬する監督として来日時の監督であった若松の名を挙げている。 より、(まで)・・解説者・評論家に就任。 、表彰者選考に於いて競技者部門のプレーヤー表彰で選出され、野球殿堂入りを果たした。 同年に神宮球場で行なわれたヤクルト対横浜戦は一家が観戦したとなり、ヤクルトOBの若松が解説役を務めた。 には若松の野球殿堂入りを祝うパーティーが行われ、コミッショナー、、、金田正一、中西太、古田敦也、岩村明憲、五十嵐亮太、青木宣親ら約1,100人が出席した。 にはヤクルトの浦添キャンプで臨時打撃コーチを務めた。 人物・逸話 [ ] 現役時代から酷いに苦しめられていた。 ヤクルト球団のを務めた田中昭二郎によれば、若松の筋肉は固くて太く、その固さは強い瞬発力を生み出す一方で、柔軟性を欠くために長時間の酷使には耐えられず、筋肉の故障を起こしやすい体質であったという。 2001年のリーグ優勝および日本シリーズ優勝の胴上げの際に、が若松の足を高く持ち上げたため、体重が軽い若松は空中で一回転してしまい 、この胴上げ以後、腰痛がさらに悪化してしまった。 また、現役引退後にヤクルトで打撃コーチ・二軍監督を務めた頃には、生真面目な性格のためでを病んでいる。 一軍監督時代には、シーズン終盤になってようやく当年初の一軍昇格を果たした選手に対して「遅くなってごめんな」と声を掛けてしまい、一軍チーフコーチのから「もっと毅然と接しないと」と窘められたこともあった。 また監督時代には自前の戦力が中心ながらその隙間を埋めるような形でトレードを行っていたが、いずれも球団主導で、若松自身は監督退任後に「私は誰も、チームからは出したくなかった」と明らかにしている。 若松は「私にとって三原さんが監督の原風景なら、監督として一番影響を与えられたのは広岡さんである」と明言しており 、戦術面では広岡の野球を模範とした。 一方で「ピッチングや内野守備についてコーチ以上のことを教えられるはずもない」として、広岡のように選手を手取り足取り直接指導する方法は採らず、技術的指導はコーチに任せてその職域を侵さない三原のやり方に倣って、各部門ごとに責任者となるコーチを置いて一任する方針を採り、打撃に関してのみ「よほど気になることがあれば」コーチを通してアドバイスした。 古田敦也はこの若松のマネジメント法を「監督に意思がないというよりは、監督自身がそのコーチを任命した時点で、そのコーチを全面的に信頼している」と評しており、各部門の責任者に対して常に目配りを欠かさずコミュニケーションをとっていたため、若松の在任中にはチーム内部の綿密な連携が保たれ、コーチの専横や大きな不協和音は発生しなかったと述べている。 また選手の自主性も重んじており、若松がヤクルトの監督であったころはベテラン選手も練習メニューが自由であった。 古田はこれについて、プロ野球選手が自分の立場を守るのは自己責任であると考えさせられた、という趣旨のコメントを自著に残している。 純朴で口下手であり、若松と行動を共にすることの多かった(当時二軍監督)によれば、イベント等でのあいさつが終わる度に「今のでよかったか? オレ、変なこと言ってなかったか」と尋ねられていたという。 プロ入り一年目の春季キャンプの時に、キャンプ地のから実家の北海道へ毎晩のようにをかけていたが、遠距離の通話料は高額なうえに、当時の電話機は10円玉しか使用できなかったので、あらかじめ用意しておいた10円玉があっという間になくなってしまった。 そこでとある先輩選手が「電話機を横に倒すと10円玉が落ちるスピードが遅くなるぞ」と冗談を言うと、若松は「先輩、僕はにいましたがそんな話は聞いたことがありません。 何かの間違いじゃないですか」と大真面目に答えたので、これは恐ろしく素直な男が入団してきたと評判になったという。 選手として通算2000安打、ヤクルト監督として2001年に日本一を達成、野球殿堂入りを果たすなど輝かしい実績を残したことから出身地・北海道では道民栄誉賞を受賞するなど絶大な人気を誇り、監督への待望論もある。 詳細情報 [ ] 年度別打撃成績 [ ] 112 305 274 40 83 18 1 3 112 15 6 8 8 1 15 0 7 28 1. 303. 354. 409. 762 115 408 365 54 120 17 4 14 187 49 20 6 11 1 25 1 6 32 4. 329. 380. 512. 893 128 486 438 59 137 29 2 17 221 60 12 8 10 1 32 8 5 43 4. 313. 366. 505. 870 130 530 477 80 149 30 4 20 247 74 18 9 0 4 45 9 4 31 8. 312. 374. 518. 891 123 500 453 55 132 16 3 8 178 48 6 4 4 2 37 4 4 30 12. 291. 349. 393. 742 127 542 485 80 167 20 4 17 246 70 9 5 3 6 43 5 5 25 7. 344. 399. 507. 906 122 503 441 95 158 30 5 20 258 70 13 4 4 5 46 3 7 14 9. 358. 423. 585 1. 008 120 530 460 100 157 30 5 17 248 71 12 7 5 7 49 4 8 24 3. 341. 408. 539. 948 120 492 438 81 134 30 1 17 217 65 8 4 2 2 45 7 5 38 6. 306. 376. 495. 871 116 474 427 62 150 36 1 15 233 63 16 5 0 1 45 17 1 31 5. 351. 414. 546. 959 95 358 323 49 94 12 2 13 149 37 5 3 4 3 24 4 4 24 11. 291. 345. 461. 806 112 428 390 50 121 12 2 11 170 38 6 6 4 6 25 4 3 27 0. 310. 351. 436. 787 112 451 413 61 139 21 1 15 207 60 11 1 9 1 27 2 1 21 11. 337. 378. 501. 879 114 449 397 49 129 22 2 9 182 50 6 1 8 4 38 4 2 26 6. 325. 383. 458. 842 114 485 443 52 133 13 1 12 184 34 2 1 8 3 31 1 0 30 14. 300. 344. 415. 759 119 439 400 38 110 14 2 6 146 39 1 3 6 6 26 3 1 29 7. 275. 316. 365. 681 55 81 69 6 26 2 2 3 41 16 0 0 1 1 10 2 0 7 2. 377. 450. 594 1. 044 73 75 66 1 23 2 1 1 30 18 0 0 0 2 7 3 0 1 2. 348. 400. 455. 855 55 54 49 3 11 1 0 2 18 7 0 0 0 0 4 2 1 2 0. 224. 296. 367. 664 通算:19年 2062 7590 6808 1015 2173 355 43 220 3274 884 151 75 87 56 574 83 64 463 112. 319. 375. 481. 856• 各年度の 太字はリーグ最高 年度別監督成績 [ ] 順 位 試 合 本 塁 打 打 率 防 御 率 年 齡 ヤクルト 4位 135 66 69 0. 489 15 141. 264 4. 23 52歳 4位 136 66 69 1. 489 12 137. 264 3. 62 53歳 1位 140 76 58 6. 274 3. 41 54歳 2位 140 74 62 4. 544 11 142. 263 3. 69 55歳 3位 140 71 66 3. 518 15. 5 159. 283 4. 12 56歳 2位 138 72 64 2. 529 7. 5 181. 275 4. 70 57歳 4位 146 71 73 2. 493 17. 5 128. 276 4. 00 58歳 通算:7年 975 496 461 18. 509 Aクラス4回、Bクラス3回• :2回 (1972年、1977年) 表彰 [ ]• :1回 (1978年)• :9回 (1972年 - 1974年、1976年 - 1980年、1984年)• :2回 (1977年、1978年)• 優秀選手賞:1回 ()• :2回 (1977年9月、1982年9月)• MVP:2回 ( 第1戦、 第1戦)• :1回 (2001年)• 語録賞 (2001年、「ファンの皆さま本当に日本一、おめでとうございます」)• 競技者表彰(2009年)• :1回 (1978年) 記録 [ ] 初記録• 初出場:1971年4月11日、対2回戦()、8回表にの代打として出場• 初打席・初安打・初打点:同上、8回表にから適時打• 初先発出場:1971年4月30日、対大洋ホエールズ5回戦()、2番・として先発出場• 初本塁打:1971年5月12日、対3回戦()、8回表にから2ラン 節目の記録• 1試合5安打:1976年6月24日、対中日ドラゴンズ14回戦(ナゴヤ球場)• 18試合連続安打3回(1976年9月14日 - 1976年10月10日、1980年4月22日 - 1980年5月18日、1984年7月17日 - 1984年8月14日)• 2試合連続4安打2回(1972年5月14日 - 5月15日、1982年9月2日 - 9月4日)• 3打席連続本塁打:1978年5月6日、対横浜大洋ホエールズ7回戦(横浜スタジアム)、5回表にからソロ、6回表にから2ラン、7回表にから2ラン• 3イニング連続本塁打:同上、史上5人目• 通算打率:. 320に続く数字。 日本人選手としては1位)• 通算代打打率:. 1977年6月12日、対広島東洋カープ12回戦(明治神宮野球場)、10回裏にの代打として出場、からソロ• 1977年6月13日、対広島東洋カープ13回戦(明治神宮野球場)、9回裏に渡辺進の代打として出場、から2ラン• 出場:11回 (1972年 - 1980年、1983年、1984年)• 57 (1971年)• 1 (1972年 - 1989年)• 75 (1993年 - 2005年) 関連情報 [ ] 出演番組 [ ]• (現在は北海道文化放送制作分のみ、2006年から2008年はフジテレビ専属)• (2006年から2008年はフジテレビ専属解説者としての出演、2011年からはゲスト解説者としての出演)• (放送終了)• (CS版。 地上波時代は解説者としての出演なし。 CM出演 [ ]• 野菜ジュース 著書 [ ]• 『背番号1の打撃論 小さな体でもホームランが打てる! 』(・2010年7月 ) 漫画・アニメ [ ]• 水原勇気とのドリームボール対決をしていた。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 『背番号1の打撃論』56-57頁• 『背番号1の打撃論』60頁• 『背番号1の打撃論』61頁• 『背番号1の打撃論』68頁• 2019年4月16日閲覧。 の2019-04-16時点におけるアーカイブ。 『背番号1の打撃論』72頁• 『都市対抗野球大会60年史』日本野球連盟 毎日新聞社 1990年• 『背番号1の打撃論』3頁• 『東京ヤクルトスワローズ40年史 1969-2009ツバメの記憶』<B. mook 610、スポーツシリーズ No. 483>(ベースボール・マガジン社、2009年)29頁• 『背番号1の打撃論』23頁• 上村祐作「」(OCNスポーツ野球コラム)。 『1990ヤクルトスワローズファンブック』(ヤクルト球団、1990年)66頁• 徳永喜男『ヤクルトスワローズ球団史』(ベースボールマガジン社、1992年)444-447頁• - 2013年9月6日• プロ野球回顧録 6 引退特集 引き際の美学 2017年1月号、 別冊、P70• 「日めくりプロ野球」• 『背番号1の打撃論』143頁• 『背番号1の打撃論』155-156頁• MOOK ; 869. スポーツシリーズ ; No. 739〉、2012年、76頁。 - 2014年10月6日• 日刊スポーツ2009年1月14日• SANSPO. COM 産経デジタル. 2011年1月22日. の2011年1月25日時点におけるアーカイブ。 『2002ヤクルトスワローズファンブック』(ヤクルト球団、2002年)2-3頁• 『背番号1の打撃論』152頁• 『背番号1の打撃論』144頁• 『背番号1の打撃論』129-131頁• 古田敦也『優柔決断のすすめ』(2009年、PHP新書)pp. 142-145• ZAKZAK 産経デジタル. 2010年10月13日. の2010年10月16日時点におけるアーカイブ。 講談社刊 著「日本プロ野球記録大鑑」435ページ 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ]• - NPB. jp 日本野球機構• 選手の各国通算成績• 1950 - 1953• 1954 - 1955• 1956 - 1960• 1961 - 1962• 1963• 1964 - 1965• 1965• 1966 - 1967• 1968 - 1970• 1971 - 1973• 1974 - 1976• 1976 - 1979• 1980 - 1984• 1985 - 1986• 1987 - 1989• 1990 - 1998• 1999 - 2005• 2006 - 2007• 2008 - 2010• 2011 - 2014• 2015 - 2017• 2018 - 2019• 2020 -.

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若松ボートの場内ステージでプロ野球ソフトバンクの今宮健太と周東佑京のトークショーが行われ大勢のファンが詰めかけた。 現在、今宮と周東は北九州市内でキャンプイン前の自主トレーニング中だ。 今宮が守備が苦手な周東に「何か教えられることがあれば」と声をかけたという。 司会者に周東の成長ぶりを聞かれた今宮は「走ることに関しては一級品のプレーヤーですよ。 でもそれ以外は何もないですね。 道具(グローブ)を持つとだめみたい」。 辛口の評価に場内も大爆笑。 周東は「走ることと跳ぶことは得意なんですが…。 でも成果を出さないと帰らされちゃいます」と小さくなっていた。 今大会に出場している西山貴浩と菊地孝平もシリーズ前に今宮らのトレーニングに参加しており、今宮は「2人とも頑張ってほしいですね」とエールを送っていた。 ボート 西山貴浩3度目V 松井繁をツケマイで撃破/若松 []• ボート [7月17日 0:19]• ボート [7月16日 21:44]• ボート [7月16日 21:01]• ボート [7月16日 19:30]• ボート [7月16日 18:46]• ボート [7月16日 18:45]• ボート [7月16日 16:41]• ボート [7月16日 7:24]• ボート [7月15日 22:50]• ボート [7月15日 20:03]• 競輪 宮下貴之、縁のある当地で闘志を燃やす/青森ミッド []• 競輪 [7月17日 0:50]• 競輪 [7月16日 23:04]• 競輪 [7月16日 22:00]• 競輪 [7月16日 20:59]• 競輪 [7月16日 17:26]• 競輪 [7月16日 17:09]• 競輪 [7月16日 15:27]• 競輪 [7月16日 15:24]• 競輪 [7月16日 14:15]• 競輪 [7月16日 11:33]• オートレース 松尾啓史が手応えアップ「走りやすかった」/飯塚 []• オート [7月16日 21:47]• オート [7月15日 21:54]• オート [7月14日 21:33]• オート [7月13日 19:21]• オート [7月13日 8:30]• オート [7月12日 20:05]• オート [7月11日 20:48]• オート [7月11日 18:19]• オート [7月10日 20:56]• オート [7月10日 20:06]•

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