藤原清衡 家系図。 奥州藤原氏

藤原(南家・北家)氏|MNKニュース by 名字由来net

藤原清衡 家系図

平泉、中尊寺、毛越寺、奥州藤原氏の案内 岩手県盛岡観光、歴史情報 平泉、中尊寺、毛越寺、奥州藤原氏の案内 岩手県盛岡観光、歴史情報 For The World Heritage 平泉の文化遺産を世界文化遺産登録に 平泉の浄土思想 奥州藤原氏、初代藤原清衡の父は、前九年の役の最後の戦い、現盛岡市厨川柵の戦いで敗れて処刑された藤原経清です。 藤原経清は官軍でしたが安倍一族、安倍頼良 貞任に味方し、官軍源頼義、義家と戦いました。 前九年の役、後三年の役を通じ多くの戦死者を出し地獄を味わいました。 清衡はこの戦死者の霊を慰め、且つ平和を願う心から中尊寺を再興し平泉の建設に着手しました。 この理想の世界が極楽浄土世界の建設でした。 清衡は豊富な産金、漆、馬を活用し、中央文化だけではなく、中国文化も取り入れ、平泉文化の礎を築きました。 2代基衡は毛越寺、観自在王院の建立に着手し、3代秀衡は基衡の遺志を継いで毛越寺を完成し、さらに無量光院を建立しました。 仏教思想の平和浄土のために建設されたのが平泉文化です。 当時、平清盛は源氏討伐のために秀衡に軍を率いて上洛するように勧誘しましたが秀衡は平和主義者のためにこれに応じませんでした。 しかし平和主義者秀衡も息子の泰衡の代に、国家統一主義者、源頼朝の大軍勢の前に敗れることになりました。 ここに100年続いた栄華の奥州藤原氏は滅亡しました。 時代は貴族の時代から武士の時代に大きく変化していきました。 平泉 <平泉文化> 安倍氏が滅ぶと制圧に協力した出羽の清原氏が支配者になり、やがて一族内紛の後三年の役が起きて安倍氏血縁の藤原氏が奥州を支配しました。 藤原氏は豊富な資源にものをいわせて、京の都に匹敵する平泉文化を築きました。 しかし、この藤原氏も源頼朝に滅ぼされ、奥州は鎌倉幕府の直轄になり、平泉攻め参戦で論功があった、葛西清重、千葉常胤、足利義兼、伊達朝宗、工藤行光、河村秀清など38名の鎌倉御家人に領地が与えられました。 <北上川流域における仏教文化の定着> 平安時代の9世紀後半から10世紀頃にかけて、朝廷の蝦夷政策により北上川流域では、志波城、徳丹城、胆沢城が設置されました。 この過程において在地の豪族層により村々に寺院や仏堂が建設されていきました。 こうした平安期の寺院や仏堂は現仙台市、多賀城市付近から平泉を過ぎて盛岡市の間に多く存在しています。 安倍氏の奥六郡と呼ばれる北上川流域では、すでにこの時代に仏教文化は定着したと思われます。 安倍氏による一関骨寺遺跡、平泉の長者ヶ原廃寺遺跡、紫波町高水寺の十一面観音像、盛岡市玉山区東楽寺、十一面観音像、金剛力士像などの平安期の寺院跡や仏像が存在しており、定着が確認できます。 末法の時代には釈迦の正しい教えが及ばなくなり、世の中に大きな乱れが生じると考えられていました。 この下降史観が末法思想です。 日本では、平安時代から現実味を帯びて考えられるようになりました。 とくに1052年 永承7年 が末法元年とされ、人々は恐れて厭世的思想に傾いていきます。 この時代は貴族政治や仏教界の腐敗の一方で、新たに武士が台頭しつつある動乱期であり、各地で治安が乱れました。 末法思想はこうした社会情勢とも重なり、有力者を中心に経典を埋納して未来に保存する事業が盛んになりました。 東北地方では、末法思想の流行が、前九年、後三年の合戦の時期とも重なり、この後、安倍氏、清原氏の領地を引き継いだ奥州藤原氏の国づくりのもと、藤原氏一門を中心に、経塚の造営が盛んに行われました。 渥美灰釉壷 つなぎ温泉 盛岡市繋温泉一本松経塚 ここから出土している経壷は渥美灰釉壷で、平安時代末期、ちょうど藤原清衡、基衡の時代のものです。 繋、または雫石盆地内に住む有力者が造営したものと推定されます。 珠洲壷 五郎沼 紫波町南日詰遺跡経塚 比瓜館と五郎沼の南方、南日詰遺跡内から発見された珠洲壷は、奥州藤原氏時代のものです。 日詰は藤原清衡の四男清綱の館があり居住していた所です。 最初院とも号した多宝寺や大長寿院など、清衡は次々と大伽藍を完成させていきます。 堂内は、螺鈿や蒔絵、透かし彫りの金具で荘厳され、平安時代後期の工芸技術の粋を現代に伝えています。 さらに平泉を中心として、南は白河から北は外ヶ浜までの道程の一町毎に、金色堂の阿弥陀如来を図絵した傘塔婆を建立しました。 こうした藤原清衡の意思は、基衡、秀衡、泰衡へと受け継がれ、寺院の整備に合わせて、街も拡大され、都市平泉が形成されていきます。 そして奥羽各地の村々には、阿弥陀堂などの寺院や神社が建立されました。 その遺跡は、中尊寺南東方向に張り出した舌状台地に立地する、柳之御所遺跡です。 この平泉館は藤原清衡の開府から、基衡、秀衡、泰衡まで、1189年 文治5年 平泉が滅亡するまで、一貫して平泉の行政の中心として機能した館です。 <「館」について> 「館」は「タテ」と読むのではありません。 「たち」と読みます。 吾妻鏡には、豊田館、衣河館、平泉館、比爪館、厨河館などが出てきます。 これは「政庁」のことで、中央政庁、地方政庁を意味します。 つまり行政庁のことです。 奥州藤原氏の直接支配地は奥六郡と出羽三郡であり、他は婚姻政策による間接支配であったろうとされています。 平泉館(柳之御所)を中央政庁として各郡ごとに直接支配に地方政庁があったとされています。 奥六郡内に同族を分置しなかった清衡にしては、特別の配置です。 これは、北上川河東の佐比内河・赤沢川・山屋川(天王川)の砂金や、良馬育成の牧場の管理のために配慮したものと考えられています。 二代俊衡は、仏堂に帰依して、「蓮阿入道」ともいい、大荘厳寺の開基です。 頼朝の奥州攻めで樋爪氏は滅亡しましたが、俊衡は老齢のために本所比爪館は安堵され、泰衡の遺子秀安を養育しながら、生涯を送ったといわれています。 なお清綱の娘は佐藤庄司正信の妻で、源義経に従軍しました。 佐藤継信、忠信兄弟の母です。 奥州藤原氏は婚姻政策により東北の地を管理していたものと思われます。 <五郎沼薬師神社> 南日詰字箱清水189。 比(樋)爪館内部にあり、比爪太郎俊衡の勧請です。 祭神は少彦名命。 本殿、幣殿、拝殿、神楽殿、社務所。 例祭9月10日。 泰衡はすでに行方をくらませ、館はまた煙と化していた。 周囲数町はひっそりとして人影もなかった。 そこで、なお奥の方を追うよう決定した。 これは泰衡が隠れ住んでいる所を捜索するためである。 また頼朝の祖である鎮守府将軍源頼義が朝敵安倍貞任を追討した頃、十二ヶ年間、所々の合戦で勝負が決まらず年を送っていたところ、ついにこの厨河柵において貞任らの首を獲た。 この昔の吉例によって、ここで泰衡を討ち、その首を獲ようと、内々に思案されていたからだという。 ところが藤原泰衡と親しい樋爪俊衡法師がこのことに驚き、同郡内の比爪館を焼き払って逃亡し、奥の方に赴いたという。 そこでこれを追討しようと、三浦介義澄ならびに義連、義村らを遣わした。 今日頼朝は陣岡の蜂杜に陣を敷かれた。 そこへ河田次郎が泰衡を殺害しその首を持参した。 泰衡の首は頼朝によって検証された後、長らくさらし首にされていた。 その後ひそかに父秀衡の眠る中尊寺の金色堂に安置された。 その時、泰衡の親戚関係にある樋瓜氏が五郎沼に咲いていた蓮の花を泰衡の首桶の中にたむけた。 この蓮の花が種子となり820年を経て現代によみがえったものです。 雫石川と諸葛川との合流点にあり、大館町と稲荷町にまたがって存在します。 大館町の地名はこの居館に由来する地名と考えられます。 居館の内容は平泉館(柳之御所遺跡)や比爪館遺跡の規模構造に近似しており、大規模なものです。 吾妻鏡の記述では、源頼朝が七日間滞在した場所です。 <厨川稲荷神社> 創建不詳。 今日、工藤小次郎行光が、否酒とかん飯を献じた。 これは当郡を行光が拝領することになったので特別に仰せがあり、この仕儀に及んだという。 ところが平泉の館が炎上したとき焼失したという。 その詳細を知ることは困難となった。 古老に尋ねられたところ、奥州の住人である清原実俊ならびに弟の橘藤五実昌が故実に明るいというので、召し出され詳細を問われた。 俊衡は子息三人(太田冠者師衡、次郎兼衡、同河北冠者忠衡)を季衡は子息一人(新田冠者経衡)を伴っていた。 ・・・頼朝は、俊衡入道は六十を超え高齢であったので、本領比爪を安堵された。 下河辺庄司がこれを召し進めた。 泰衡の一方の後見である熊野別当は足利義兼が召し進めた。 およそ残党はことごとく今日捕らえ終えた。 厨河に逗留されたのは七日間であった。 <金戒光明寺 地獄極楽図> 浄土思想を一図で表現した地獄極楽図。 手前に地獄(左)と娑婆世界(右)が描かれています。 上方に海をへだてて描かれる極楽浄土は、無量光院とよく似ていることがわかります。 だが、日本仏教・浄土思想史のながれにその思想がどのように位置付けられ、どう造形に反映しているのか?その合理的な説明は、必ずしもされてこなかった。 中尊寺仏教文化研究所主任の菅野成寛さんは、平泉藤原氏の十二世紀に特徴的な「天台本覚思想」との関連性を指摘。 平泉の浄土思想は「日本の十二世紀仏教思想のピークの一つ」であり、その典型的な造形として無量光院の構造を読み解く。 浄土とは、五世紀に漢訳された「浄土三部経」(「無量寿経」「阿弥陀経」「観無量寿経」)によると「如来(仏)や菩薩が住む清浄な国土」の意味だ。 思想史的には来世浄土と現世浄土に大別されるが、平安時代中・後期は来世浄土=阿弥陀浄土信仰・文化が大流行した時代。 天台宗の高僧源信による「往生要集」 985年成立 が決定的な影響を及ぼし、全国各地に中尊寺金色堂はじめ阿弥陀堂が建立された。 清衡には妻室平氏との間に六男三女があったほか、腹ちがいの男子もいた。 このため清衡の死後、相続権をめぐって兄弟間に紛争がおこった。 妾腹の子の長男惟常が内紛を起こしたのでこの首を切った。 しかし基衡の相続権が確立したのは清衡が死亡後10年も経てからであった。 根本中堂を嘉祥寺と称し、大師自作の医王善逝の霊像を本尊としている。 常行堂も創立されていて、ここで秘法を修したという。 その後、盛衰とともに堂社僧坊が荒廃。 基衡が建立した。 まず金堂は円隆寺と号する。 金銀をちりばめ、紫檀・赤木などを継ぎ、万宝を尽くし、多くの色を交えている。 本尊は、丈六の薬師像、同じく十二神将像(運慶が造った)を安置した。 講堂・常行堂・二階造りの惣門、鐘楼・経蔵などがある。 九条関白家(藤原忠通)が自筆で書かれた額を下され、参議藤原教長卿が堂中の色紙形を書いた。 次に嘉祥寺(いまだ完成しないうちに基衡が死去した。 そこで秀衡がこれを完成させた)は四壁と三面扉に、法華経二十八品の大意を彩色で描いており、本尊は薬師像で、丈六である。 堂は宝形造りで須弥壇中央に木尊・宝冠の阿弥陀如来、両側に四菩薩、奥殿には秘仏としてあがめられている摩多羅神がまつられている。 当初の常行堂は現在の位置より10mほど南方に位置し遺跡が残っている。 四壁には洛陽の霊地・名所を描いた。 仏壇は銀である。 高欄は磨金である。 次小阿弥陀堂も同人が建立した。 障子の色紙形は参議教長卿が筆を染めた。 <観自在王院跡にある墓碑> 観自在王院跡には、「基衡の室、安倍宗任の女」と刻んだ墓碑が立っています。 これには「仁平二年四月二十日有日」とあります。 仁平2年は清衡の死後24年目、基衡の治世になって22、3年の頃ですが、この頃、基衡は妻室を失ったのでしょう。 墓碑そのものは江戸時代の享保15年 1730年 9月13日、村上治衛照信が建てたとされています。 基衡の妻室の死亡年月日を知るための史料はこの墓碑だけです。 西木戸に嫡子国衡の家がある。 同じく四男の隆衡の宅がこれと並んでいる。 三男の忠衡の家は泉屋の東にある。 無量光院の東門に一郭(加羅御所と称する)を構えて、秀衡の日常の居所とした。 泰衡がこれを継いで居所としていた。 西行法師、秀衡を訪ねる。 藤原秀衡、死去(67歳)。 ついには「陸奥守」という職に任命されました。 「鎮守府」に任ぜられたのは在地豪族としては二度目で、前九年の役の鎮定に武功があった清原武則でした。 堂内の四壁の扉に観無量寿経の大意を描いている。 そればかりか秀衡みずから狩猟の様子を描いた。 本尊は阿弥陀像。 丈六である。 三重の宝塔、院内の荘厳は、ことごとく宇治の平等院を模したものである。 ところが不思議なことに陣場が浮き上がって陸地が高くなった。 このことから陣ヶ岡と呼ばれるようになったと伝えられている。 この時に数代にわたる郎従である河田次郎を頼って肥内郡の贄柵(現秋田県大館市)に到ったところ、河田が突然長年のよしみを変え、郎従らに泰衡を囲ませ首を穫った。 河田はこの首を頼朝に献上しようと鞭を揚げて頼朝のもとに向かったという。 陸奥押領使藤原朝臣泰衡(年35)。 鎮守府将軍兼陸奥守秀衡の次男、母は前民部少輔藤原基成の娘。 文治3年10月、父の遺跡を継ぎ、出羽・陸奥押領使として六郡を支配。 9月4日 頼朝は志波郡に到着された。 ところが泰衡と親しい比爪俊衡法師がこの事に驚き、同郡内の比爪館を焼きはらって逃亡し、奥の方に赴いたという。 そこでこれを追討しようと、三浦介義澄ならびに義連・義村らを遣わした。 今日、源頼朝は陣ヶ岡の蜂社に陣を敷かれた。 そこに北陸道追討使である比企能員・宇佐美実政らが出羽国の敵を討ち平らげて参上し合流したので、軍士は諸人の郎従らを加えて28万4千騎となった。 それぞれが白旗を打ち立て、おのおの弓に倚せ置いた。 秋の尾花が色を混じえ、晩の月が勢を添えていたという。 9月6日 河田次郎が主人の藤原泰衡の首を持ち陣岡に参上し、梶原景時を通じて献上した。 和田義盛・畠山重忠に首実検させた上、囚人の赤田次郎を召して見せられたところ、泰衡の首であることに間違いないと申した。 そこでこの首を義盛に預けられた。 また景時に河田に仰せ含めさせて言った。 「汝の行為は、ひとまずは功があるように見えるが、泰衡を捕らえることはすでに我が掌中にあったのであり、他人の武略を借りる必要はなかった。 それなのに譜第の恩を忘れて主人の首をさらした罪は、すでに八虐の罪にあたるもので、賞を与えることは難しいので、後人の戒めのためにも身の暇を与えよう」 そこで小山朝光に預け、斬罪に処されたという。 その後、泰衡の首が懸けられた。 康平5年9月、入道将軍家源頼義が安倍貞任の首を獲た時、横山野大夫経兼が承って、その門客である貞兼に首を受け取らせ、郎従の惟仲に首を懸けさせた。 (長さ八寸の鉄釘でこれを打ち付けたという) この例にならって経兼の曽孫小椎守横山時広に命じられると、時広は子息時兼に景時の手から泰衡の首を受け取らせ、郎従惟仲の後胤である七太広綱を召し出して、首を懸けさせた。 高水寺城跡(城山)の西方約2kmのところにある丘陵で、標高は138m、比高13m、規模は東西360m、南北400mです。 「吾妻鏡」に記されている「蜂の社」で、周囲には幅2m・深さ1〜2mの濠跡が残っていて、昔の面影をとどめています。 ここは居館や城郭ではなく、戦略上の軍営地(陣所)として、前九年の役、頼朝の奥州攻め・南部信直の高水寺城攻めの三度陣所が置かれたところで、陣ヶ岡の呼び名もそれから出ています。 この時、戦勝を祈願して、三日月堂の蜂神社を奉建したが、たまたま9月15日の月夜に源氏の日月の旗が古堤に映り、金色に輝いたという。 これを見た軍勢の士気は大いに鼓舞され将軍源頼義も「吉兆なり」と喜び池の中央に太陽と三日月の中島を造らせた。 その時、吉兆の古事を聞き、勿体なき偉業と感服し、この中島を修像させたと伝えられている。 この日月の像は「月の輪形」として伝え継がれ、幾星霜を経た今日においても、未だにその形をとどめている。 今日まで7日間、ここに逗留された。 ところで高水寺の鎮守は(伊豆の)走湯権現を勧請したものであるが、その傍らにもまた小さな社があり大道祖といった。 これは清衡が勧請したものである。 この社の後に大きな槻の木があった。 二品(源頼朝)は、この木の下に立つと、走湯権現に奉納すると称して、上矢の鏑二つを射立てられた。 ここから厨川柵までは二十五里の行程だった。 吾妻鏡より <走湯神社> 二日町字向山172。 1189年 文治5年 源頼朝が勧請したもの。 境内社は諏訪神社、八坂神社、天満宮、八幡宮、道祖神、菊池稲荷社、合祀社は愛宕神社。 祭神は天忍穂耳命、本殿、幣殿、神楽殿、社務所、手水舎。 例祭8月27日。 同月参陣した伊達政宗、南部信直、佐竹義重らとともに宇都宮城に入城し、ここで奥州任置を行った。 この時参戦しなかった葛西春信、大崎義隆は所領没収となった。 この事により葛西、大崎氏は反乱を起こし、葛西、大崎一揆となった。 豊臣政権は、蒲生氏卿、伊達政宗を鎮圧軍として派遣し一揆は平定された。 葛西、大崎領は伊達政宗の所領となり、平泉は正宗が管理するところとなった。 関連ホームページ紹介 奥州藤原氏略年表 平安時代 1050 永承5年 この年、安倍頼良、鬼切部で陸奥守藤原登任・秋田城介平繁成と戦い、勝利する 1051 永承6年 この年、源頼義、安倍頼良追討のため、陸奥守に任じられる【前九年合戦始まる】 1052 永承7年 安倍頼良、大赦により追討を逃れ、源頼義に服従、名を頼時と改める 1056 天喜4年 源頼義に安倍頼時追討の宣旨を下す(前九年合戦が本格化) 藤原経清、安倍氏に加わる 1057 天喜5年 安倍頼時、討死。 以後、安倍貞任ら抗戦。 源頼義、黄海で安倍貞任らと戦い大敗 末法思想の流行 1062 康平5年 この年、出羽山北の俘囚清原武則、頼義に協力する。 厨川柵が陥落し、安倍貞任討死、安倍氏が滅亡する【前九年合戦終わる】 1063 康平6年 清原武則、安倍氏追討の功により、鎮守府将軍に任じられ、奥六郡の遺領を継ぐ この頃、『陸奥話記』成るか 1070 延久2年 この年、陸奥守源頼俊が陸奥の賊藤原基通らを討ち、衣會別嶋・閉伊七村の蝦夷を征討 1083 永保3年 陸奥守源義家、出羽の清原一族の争いに介入。 清原家衡・清原(藤原)清衡ら、同族の真衡と争う。 義家は真衡を援け、家衡・清衡と戦う【後三年合戦始まる】。 真衡死し、奥六郡を家衡と清衡で折半する 1085 応徳2年 この年、清原家衡・武衡と清衡争う。 源義家、清衡を支援する この冬、源義家、清原(藤原)清衡を援へ、清原家衡・武衡の沼柵を攻めるが敗北 1087 寛治元年 源義家、出羽国金沢柵に家衡・武衡を討つ【後三年合戦終わる】 1091 寛治5年 藤原清衡、関白藤原師実に駿馬2頭を贈る 1092 寛治6年 藤原清衡が挙兵を企てているとの陸奥国解を審議する 1098 承徳2年 成島毘沙門堂(旧東和町)の十一面観音像完成 1105 長治2年 藤原清衡、陸奥国平泉に最初院(中尊寺)を造立 この年以前、藤原清衡、江刺郡豊田館より平泉に本拠を移す 1107 嘉承2年 この年、藤原清衡、平泉に大長寿院(二階大堂)を建立する 1117 永久5年 この頃、紺紙金銀字交書一切経の書写始まる 毛越寺の大泉ヶ池をつくる 1120 保安元年 藤原清衡、摂関家領陸奥国小泉荘の年貢対捍の嫌疑を受けたが、冤罪と判明 1124 天治元年 中尊寺金色堂落成 1126 大治元年 藤原清衡、中尊寺大伽藍一区画の落慶供養を行う 1128 大治3年 藤原清衡、死去(73歳) 1129 大治4年 この年から翌年にかけ、藤原基衡、兄弟の惟常と戦う。 毛越寺焼失す 1138 保延4年 藤原基衡、亡父清衡のために金字法華経の書写を始める 1153 仁平3年 摂関家領陸奥国本良・高鞍荘など五ヶ荘の年貢増徴問題について、左大臣藤原頼長と藤原基衡との間に交渉が行われる 1157 保元2年 この頃、藤原基衡死去 1170 嘉応2年 藤原秀衡、鎮守府将軍に任命される 1174 承安4年 この年、源義経、陸奥国に向かう 1175 安元元年 源義経、平泉にて藤原秀衡の保護を受ける 1176 安元2年 藤原秀衡、亡父基衡のために紺紙金銀字一切経を書写 1181 養和元年 藤原秀衡、陸奥守に任命される 1186 文治2年 これ以前、源頼朝、藤原秀衡に書状を送り、朝廷への貢馬・貢金は頼朝が伝進すると告げる。 西行法師、秀衡を訪ねる 1187 文治3年 源義経、陸奥国の藤原秀衡のもとへ逃れる。 藤原秀衡、死去(67歳) 1188 文治4年 藤原基成・藤原泰衡に宣旨を下し、源義経追討を命じる 1189 文治5年 源頼朝、藤原泰衡に義経の誅伐を命じる。 源義経、泰衡に襲われ、衣川館で自害。 源頼朝、奥州藤原氏追討のため鎌倉を発向【文治五年奥州合戦始まる】。 伊達郡阿津賀志山合戦で藤原氏方敗北、藤原国衡戦死。 源頼朝、平泉を占領。 泰衡、郎従河田次郎に討たれる。 頼朝の軍勢、志和郡陣岡蜂社で北陸道の部隊と合流。 頼朝、岩手郡厨川に赴く。 工藤行光を岩手郡の地頭に任命する。 頼朝、胆沢郡鎮守府八幡に奉幣。 葛西清重を陸奥国御家人の奉行(奥州総奉行)に任命する 1190 建久元年 平泉の旧臣大河兼任の乱鎮圧。 伊沢家景、陸奥国留守職に任命される 鎌倉時代 1195 建久6年 源頼朝、葛西清重・伊沢家景に平泉の堂塔復旧を命じる 1200 正治2年 幕府、陸奥出羽諸郡郷の所務は平泉以来の旧例に従うべきことを命ずる 1223 貞応2年 この年、承久の乱によって奥州江刺に配流された河野通信、国見山極楽寺で死去(その墳墓が聖塚) 1226 嘉禄2年 平泉毛越寺金堂円隆寺ほか主要伽藍焼失 1256 康元元年 この年、一関市川崎町門崎の最明寺境内に「建長八年丙辰二月廿七日」とある石塔婆(建長の碑)が建立される。 岩手県紀年銘古碑の最古のもの 1280 弘安3年 この年、一遍、祖父河野通信の墓(聖塚)に詣でる 1288 正応元年 葛西氏と中尊寺の間に山野をめぐる相論がおき、中尊寺が鎌倉に訴え出る 平泉寺院の堂塔修理が始まり、初冬に金色堂の覆堂が竣工する 室町時代南北朝 1337 建武4年 金色堂と経蔵のみ残し、中尊寺焼失す Copyright C morioka-kankou. com. 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藤原清衡 家系図

年表 西暦(年齢) 1056年(1歳)藤原清衡誕生 1062年(7歳)前九年の役の後、清衡が出羽清原家に引き取られる 1083年(28歳)後三年の役始まる 1086年(31歳)清原一族の抗争で清衡の妻子が殺害される 1087年(32歳)後三年の役が終わる。 清衡は安倍氏の土地だった奥六郡を領有する 1095年(40歳)このころ清衡は平泉に居を構えた(1099年説も) 1105年(50歳)清衡、中尊寺の造営に着手 1124年(69歳)中尊寺金色堂上棟 1126年(71歳)中尊寺落慶供養を行う 1128年(73歳)清衡死去 藤原清衡の生涯 奥州藤原氏の初代当主・藤原清衡の前半生は戦いの半生、そして後半生は奥州の覇者としての半生でした。 藤原清衡の運命を変える前九年の役と後三年の役 (前九年の役) 清衡は、陸奥国亘理郡(わたりぐん/現在の宮城県内)の豪族 藤原経清(つねきよ)と陸奥国奥六郡(おくろくぐん/現在の奥州市から盛岡市)を治めた俘囚(ふしゅう/朝廷に属した蝦夷のこと)長・安倍賴時の娘・ 有加一乃末陪(ありかいちのまえ)の息子でした。 しかし、父の経清は、1051年から始まった前九年の役で源頼義に敵対した安倍氏に味方し、敗死。 7歳の清衡の母親が敵将だった清原武貞(たけさだ)に嫁ぎ、その養子となった清衡は命を救われました。 しかし、武貞の嫡子で清衡とは血のつながらない 義兄の真衡、武貞と清衡の母の間に生まれた 異父弟の家衡という血縁関係は複雑でした。 (後三年の役) かつての 敵同士が家族を作った清原家の抗争は1083年の 後三年の役という形になって現れたのです。 勃発した 清衡・家衡兄弟対 真衡との戦いに、当時の陸奥守だった 源義家が真衡を支援します。 この大物参入によって清衡と家衡は義家に降伏せざるを得ませんでした。 ところがその後、 真衡が急死。 そこで義家は清衡と家衡で清原氏の所領を分割させましたが、その取り分に不満を持った家衡が、今度は清衡の妻子などを皆殺しにしたのです。 難を逃れた清衡は義家に助けを求め、日本で初めてと言われる「兵糧攻め」の戦法で家衡を討ち取りました。 朝廷はこの戦いを清原家の「私闘」と見なし、勝者の清衡に恩賞や官位を与えていません。 しかし清原家で勝ち残った彼は、結果的に 陸奥と出羽の所領全てを手に入れることができたのです。 その後、清衡は自分の姓を実父の「藤原」に戻し、 奥州藤原氏の祖となりました。 関連記事 >>> 藤原清衡の後半生 奥州藤原氏の祖として 清衡は本拠地を江刺郡豊田館(えさしぐんとよだのたち)に構え、東北での勢力の拡大を図ります。 同時に、朝廷や藤原摂関家に砂金や馬などの献上品や貢ぎ物を欠かさず、 中央との交流を深めました。 その甲斐あって、朝廷は奥州藤原氏を 事実上の奥州支配者として容認。 豊かな財力と強大な武力を背景に、清衡の勢力圏内は朝廷での権力争いにも無縁な独立国のような立場を保持しました。 事実、奥州は源平合戦にも巻き込まれていません。 こうして、清衡は 奥州藤原氏初代当主として基盤を作り上げました。 洗練された都市・平泉を見届けた清衡 清衡が基盤を磐井郡平泉に遷したのは1094年頃です。 奥州政治文化の中心都市建設が目的でした。 1108年には中尊寺造営を開始し、そこから平泉は発展していきます。 それを支えたのが三陸海岸沿いにある幾つかの金鉱山でした。 奥州は豊かな金の産地だったのです。 さらに、貿易にも熱心だった清衡は、 北方貿易を行います。 北方貿易は、 京で平清盛らが熱心に行った日宋貿易とは別ルートの別物です。 清衡は、中国の宋、朝鮮半島やオホーツク周辺、アフリカや東南アジアからの珍しい物品・産物の輸入で莫大な利益を得たのです。 これにより、野蛮な蝦夷や俘囚の住む土地だと思われていた平泉は、京に続き高度で華やかな文化の香る日本第2の都市となりました。 その結晶が金銀や螺鈿(らでん)に彩られた 中尊寺金色堂です。 清衡はその落慶を見届け、1128年に 73歳の生涯を終えました。 関連記事 >>> きょうのまとめ 今回は、藤原清衡がどんな人物だったかについてその生涯をたどりました。 藤原清衡とは.

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藤原清衡

藤原清衡 家系図

タップでお好きな項目へ:目次• 奥州藤原氏の祖・藤原清衡 藤原清衡を祖とする 奥州藤原氏は、前九年の役・後三年の役を経て、 1189年に源頼朝によって藤原泰衡が滅ぼされるまで平泉を中心に東北地方に勢力を持っていた豪族でした。 奥州藤原氏は、藤原北家秀郷流を称していました。 藤原秀郷(ふじわらのひでさと)とは平将門を討伐した人物で、またの名を俵藤太(たわらのとうた)と呼ばれました。 藤原清衡の父・経清(つねきよ)は、その秀郷の子孫と名乗っていたのです。 そうであれば、 奥州藤原氏は中央藤原氏と繋がっていると言えますが、その 真偽を判断する材料はありません。 その経清は前九年の役で源頼義(みなもとのよりよし)に反旗を翻し、安倍氏に味方しましたが、1062年厨川(くりやがわ)の戦いで敗れました。 7歳の息子・清衡は、処刑されるところを、母である有加一乃末陪(ありかいちのまえ)が敵将である清原武則(きよはらのたけのり)の長男・清原武貞(たけさだ)に嫁ぎ、彼の養子となって助かりました。 清衡の家族と奥州藤原氏4代 【初代】藤原清衡 清衡は実父・ 藤原経清と養父・ 清原武貞の二人の父親を持ちました。 清衡の家族構成は以前の敵が混じった複雑なものになり、清衡は義兄や異父弟らと1083年に始まった後三年の役で争います。 その戦いで正室を殺された清衡は、のちに後妻や妾を取り、 6男3女を設けました。 【2代目】藤原基衡 奥州藤原氏初代当主・藤原清衡に続いたのは、長男の惟常との後継者争いに勝利した 二男の基衡です。 【3代目】藤原秀衡 次に奥州藤原氏第3代当主となったのが、 基衡の嫡男・秀衡。 秀衡は仏教文化を誇る大都市・平泉で独自の勢力を持ち、源平の争いにも中立を守って中央から距離を保っていました。 しかし、源平合戦に勝利した源頼朝が秀衡の財力に目をつけてその配下にしようとします。 秀衡はそれを嫌い、頼朝との関係悪化を覚悟で頼朝に追われた源義経を保護しました。 【4代目】藤原泰衡 しかし秀衡の死後、4代目当主・ 泰衡は、頼朝からの執拗な圧力に屈し、義経を襲撃して自害へ追いやりました。 その後は結局、泰衡も鎌倉軍に破れ、 奥州藤原氏の栄華は幕を閉じたのです。 残った子孫は? 残念ながら直系が滅亡した奥州藤原氏の 子孫を辿るのは容易ではありません。 【初代】藤原清衡からの子孫 清衡の四男・清綱は「樋爪(ひづめ)」氏の祖先となったと言われています。 また、娘の乙和子姫(おつわこひめ)は源義経の従者となった佐藤継信(つぐのぶ)・忠信(ただのぶ)の父となる佐藤基治(もとはる)の後妻に入り、その子孫が全国的な 「佐藤」という姓の源の一つであると考えられています。 【3代目】藤原秀衡からの子孫 3代目の秀衡の血統では、彼の6人の息子たちは、そのほとんどが 早くに戦死したか不明です。 しかし、秀衡の息子忠衡には生存説もあり、彼の三男・助衡が武蔵国で「武蔵国の藤原氏」として 「武藤」を名乗ったとも岩手の下閉伊郡野田村で 「中野」氏を称したとも言われます。 しかし、いずれも史料に乏しく、詳細はクリアになっていません。 【4代目】藤原泰衡からの子孫 4代目の泰衡は源頼朝に追われて亡くなりました。 しかし、息子・秀安からの系譜が続き、南北朝時代頃までの記録はあります。 泰衡の息子・泰高の子孫については1377年に瀬戸内海の因島に移り住み、 「巻幡(まきはた)」という姓を名乗ったという伝承があります。 上記の通り、いずれも 現代に明確に繋がる血筋を辿ることが出来ていないのです。 藤原道長と奥州藤原氏の関係 歴史の中における「藤原氏」として気になるのは、あの朝廷の中心で活躍した 藤原道長に繋がる藤原氏と 奥州藤原氏が関係するのかどうか、ということです。 近年の研究では、 『造興福寺記』という五位以上の地位にある藤原氏の名前の記録に藤原清衡の父・経清の名前が確認されています。 道長との血のつながりは不明ですが、中央の藤原氏からもその 一族の者であるとは認められていたようです。 さらに、中尊寺金色堂に保存されていた奥州藤原氏の遺体計測により、身体的特徴として彼らは東北人というよりは京都人であったと考えられています。 やはり 中央出身の血筋だったようです。 きょうのまとめ 今回は藤原清衡の家系図について見てみました。 記録はなくても東北地方を中心に、おそらく子孫は全国に残っていることでしょう。 あなたの知り合いの佐藤さん、武藤さん、中野さんも、もしかしたら・・・。 関連記事 >>>> 藤原清衡の年表を含む【完全版まとめ】はこちらをどうぞ。 関連記事 >>>>.

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