アングロ サクソン 人。 英語の歴史と語源・4 「ゲルマン民族の大移動」

#3796. ゲルマン人の移動とケルト人の移動

アングロ サクソン 人

アングロ・サクソン王朝の終焉と書くとドラマティックな印象を与えるが、当時の王侯は互いに何重もの通婚をしており、男系がアングロ・サクソンと言うだけで、実際には多くの血統を持っており、誰が王に成るかは大した問題ではなく、どのように王になったかが問題なのだ。 エドワード懺悔王が亡くなり、ハロルド2世が即位した時点でゴドウィン王朝になっている訳で、ノルマン王朝になったのが問題なのは、それが征服王朝だからだ。 このためノルマン・コンクエストの後の抵抗は長引き、結果として王直属の諸侯がノルマン人に入れ替わり、アングロ・サクソン人の王朝が復活することはなく、以降、フランスとの密接な関係がの終了時まで続くことになった。 庶子の継承権が否定されるのは11世紀中頃の教皇庁におけるグレゴリー改革以降である。 死後に奇跡が起きたとして聖人と見なされたため、殉教扱いになったようだ。 若年での殺害への同情と後のエセルレッドの悪評も影響したのかもしれない。 もっとも実際に虐殺が実行されたのは、デーン人勢力が弱い周辺部のみだったようだ。 この年の初頭にデーンゲルドを払っており、戦うつもりならその時に戦えば良く、勝てないと思ったのであれば勝算がつくまで待つべきであった。 これは、被害者に姉妹がいたデンマーク王スヴェンの恰好の口実となり、一層、デーン人の攻撃が激しくなった。 エマは大叔母に当たる。 しかし、軍事的には対抗し切れず、デーンゲルドを支払って凌いでいたが、1013年からスヴェンは王位を主張して本格的な侵攻を始め、エセルレッドは抗しきれずノルマンディに亡命し、スヴェンが即位したが、1014年に死去したため、イングランド貴族の要請を受けてエセルレッドが復帰した。 エセルレッドはスヴェンの息子クヌート(大王)を追い払うことに成功したものの、貴族への多大な譲歩に反発した自身の息子エドマンド(剛勇王)とも争うことになった。 エドマンドの息子エドワード(亡命公)はスエーデンに追放され、その後、キエフ、ハンガリーを転々とし、無思慮王とエマの息子のエドワード(懺悔王)とアルフレッドは母の実家ノルマンディに逃れた。 クヌートはエマと結婚し、ハーデクヌートが生まれ、1035年にクヌートが死去すると17歳のハーデクヌートがデンマーク王、イングランド王となった。 生涯の大半をノルマンディで過ごした エドワード懺悔王はイングランドには馴染みが薄く、その立場は極めて脆弱だった。 後の民族主義的史観では、ノルマン人を引き入れたことを非難する向きもあるが、当時としては極真っ当な方策である。 しかし、バランス政策はある程度は成果を上げたようである。 後に懺悔王が列聖されたため禁欲による不犯とも言われるが、生前は特に敬虔だった訳でなく後付けであろう。 これにより、再婚と子作りを諦めたようで、1054年に甥のエドワード亡命公がハンガリーに生存していることが分かり、子供のいない懺悔王は後継者として呼び寄せた。 これ以降、懺悔王は気力を失ったようで、ゴドウィン一族と友好関係を保って、狩猟などの趣味に没頭し、ほとんど実権を失っていた。 本音は正統なエドガー・アシリングだったろう。 彼は特に敬虔だった訳ではなく、最後の実質的なアングロ・サクソン王として後に崇拝を受けたことと、エドワード亡命公の娘マーガレットの血統を持つが懺悔王を推薦したからである。 この時点で、イングランドに居る有力候補はハロルド(2世)のみで、問題なくアングロ・サクソン賢人会議で王に選出された。 エドガー・アシリングは15歳になっていたが無視されたようだ。 しかし、直後にギョーム庶子公が来襲し、10月の「ヘイスティングズの戦い」でハロルド2世は敗死した。 戦う順番が逆であれば、征服王がトスティらに敗北していたかもしれない。 マルカム3世の支援を受けたエドガーは、デンマーク王スヴェン2世の襲撃に呼応して、イングランドの反乱を率いたが、1070年に敗れてスコットランドに戻った。 他の反乱者もエドウィンは家臣に殺害され、モーカーはなどと共にエリー島に篭ったが1072年に降伏し、主要なアングロ・サクソン人貴族は全て消滅することになった。 フランス王フィリップ1世は反ウィリアム包囲網を目論んでおり、ノルマンディ国境の城を与えることを提案されたエドガーは船で大陸に向かったが遭難したためスコットランドに逃げ帰った。 しかし遠征は成功せず、1087年におそらく征服王の死を聞いてイングランドに戻った。 しかし、既にエドガーには王位へのチャンスはなく、征服王の長男ロベールと次男ウィリアム(2世)が争っていた。 ロベールに味方したことで、ノルマンディで没収されたウィリアム派の所領を与えられたが、1091年にロベールが敗れてウィリアム2世と和解すると、ノルマンディの所領は返還され、怒ったエドガーは再びスコットランドに戻った。 十字軍の時期にウィリアム2世は死去しており、その間に王位に就いた弟ヘンリー1世に対して十字軍から戻ったノルマンディ公ロベールが王位を巡って争っており、西欧に戻ったエドガーはロベールに味方したが、1106年の「タンシュブレーの戦い」でロベールは敗れ、生涯、幽閉された。 エドガーも捕虜となったが、姪のエディス(マティルダ)が1100年にヘンリー1世妃となっていたため許され解放された。 結婚せず、子供もおらず、これによりアングロ・サクソン王朝の男系は断絶したが、彼の姉マーガレットの子孫は皇后モード、ヘンリー2世と繋がり、もちろんスコットランド王家にも伝わっており、現在の英王室まで辿ることができる。

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アングロ・サクソン人とは

アングロ サクソン 人

この記事はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2010年10月) アングロ・サクソン人(アングロ・サクソンじん、Anglo-Saxons)は、頃、現在のドイツ北岸から南部に侵入してきた 、 、 の系の3つの部族の総称である。 この中でアングル人が、としての基礎を築いたため、現在も英米などの英語圏白人をアングロ・サクソン人と呼ぶこともある。 このようにドイツ起源の民族であるが、現在のドイツ圏の国民をアングロ・サクソン人と呼ぶことは原則ない。 ただし、ザクセン王国は20世紀初頭までドイツ帝国内に存続しており、現在も州名などに残っているため、ドイツの地域住民としてのザクセン人(サクソン人)という名称は今も用いられる。 西暦400年代のからへの移住。 Jutes: Angles: Saxons: を・とする主流派のである、、、、 (稀にとを含む) [ ]をアングロ・サクソン諸国と呼ぶ。 しかし、がアングロ・サクソン人に由来しているだけで、的なアングロ・サクソン人とのアングロ・サクソン諸国には的な関係が薄い(との違いと同じ)。 アングロ・サクソン人の故地と見なされるイングランドでさえ、やなどの沿岸地域にルーツを持つや、の原住民である()などの多様なが入り混じって形成された国家である。 当のアングロサクソン諸国では一般にあまり用いられておらず、自分たちがアングロサクソン人であるという意識も乏しい。なお、イングランドに先立つ故地であるドイツでは、アングル人という呼び方は現在殆ど行われておらず、サクソン人(ザクセン人)という呼び方は残っているものの、少なくともアングロ・サクソンと繋げて呼んだ場合、ドイツ人とは別個の集団と考えるのが通常であり、ほぼ語源発祥の地というにとどまる。 用法 主にやで用いられることが多い。 アングロ・サクソン諸国は独特のやを形成しており、古くからの対象となってきた(等)。 また、の進展とその反発により、アングロ・サクソン諸国を「特殊」な国々と規定するために、様々な比較考証が行われてきた。 以下はその代表的なものである。 体系における• における• の研究による型• におけるベース型• 福祉レジーム論における型• とそれを元にした.

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第3章 ケルトの復活とアングロ・サクソンの時代

アングロ サクソン 人

アングロ・サクソン王朝の終焉と書くとドラマティックな印象を与えるが、当時の王侯は互いに何重もの通婚をしており、男系がアングロ・サクソンと言うだけで、実際には多くの血統を持っており、誰が王に成るかは大した問題ではなく、どのように王になったかが問題なのだ。 エドワード懺悔王が亡くなり、ハロルド2世が即位した時点でゴドウィン王朝になっている訳で、ノルマン王朝になったのが問題なのは、それが征服王朝だからだ。 このためノルマン・コンクエストの後の抵抗は長引き、結果として王直属の諸侯がノルマン人に入れ替わり、アングロ・サクソン人の王朝が復活することはなく、以降、フランスとの密接な関係がの終了時まで続くことになった。 庶子の継承権が否定されるのは11世紀中頃の教皇庁におけるグレゴリー改革以降である。 死後に奇跡が起きたとして聖人と見なされたため、殉教扱いになったようだ。 若年での殺害への同情と後のエセルレッドの悪評も影響したのかもしれない。 もっとも実際に虐殺が実行されたのは、デーン人勢力が弱い周辺部のみだったようだ。 この年の初頭にデーンゲルドを払っており、戦うつもりならその時に戦えば良く、勝てないと思ったのであれば勝算がつくまで待つべきであった。 これは、被害者に姉妹がいたデンマーク王スヴェンの恰好の口実となり、一層、デーン人の攻撃が激しくなった。 エマは大叔母に当たる。 しかし、軍事的には対抗し切れず、デーンゲルドを支払って凌いでいたが、1013年からスヴェンは王位を主張して本格的な侵攻を始め、エセルレッドは抗しきれずノルマンディに亡命し、スヴェンが即位したが、1014年に死去したため、イングランド貴族の要請を受けてエセルレッドが復帰した。 エセルレッドはスヴェンの息子クヌート(大王)を追い払うことに成功したものの、貴族への多大な譲歩に反発した自身の息子エドマンド(剛勇王)とも争うことになった。 エドマンドの息子エドワード(亡命公)はスエーデンに追放され、その後、キエフ、ハンガリーを転々とし、無思慮王とエマの息子のエドワード(懺悔王)とアルフレッドは母の実家ノルマンディに逃れた。 クヌートはエマと結婚し、ハーデクヌートが生まれ、1035年にクヌートが死去すると17歳のハーデクヌートがデンマーク王、イングランド王となった。 生涯の大半をノルマンディで過ごした エドワード懺悔王はイングランドには馴染みが薄く、その立場は極めて脆弱だった。 後の民族主義的史観では、ノルマン人を引き入れたことを非難する向きもあるが、当時としては極真っ当な方策である。 しかし、バランス政策はある程度は成果を上げたようである。 後に懺悔王が列聖されたため禁欲による不犯とも言われるが、生前は特に敬虔だった訳でなく後付けであろう。 これにより、再婚と子作りを諦めたようで、1054年に甥のエドワード亡命公がハンガリーに生存していることが分かり、子供のいない懺悔王は後継者として呼び寄せた。 これ以降、懺悔王は気力を失ったようで、ゴドウィン一族と友好関係を保って、狩猟などの趣味に没頭し、ほとんど実権を失っていた。 本音は正統なエドガー・アシリングだったろう。 彼は特に敬虔だった訳ではなく、最後の実質的なアングロ・サクソン王として後に崇拝を受けたことと、エドワード亡命公の娘マーガレットの血統を持つが懺悔王を推薦したからである。 この時点で、イングランドに居る有力候補はハロルド(2世)のみで、問題なくアングロ・サクソン賢人会議で王に選出された。 エドガー・アシリングは15歳になっていたが無視されたようだ。 しかし、直後にギョーム庶子公が来襲し、10月の「ヘイスティングズの戦い」でハロルド2世は敗死した。 戦う順番が逆であれば、征服王がトスティらに敗北していたかもしれない。 マルカム3世の支援を受けたエドガーは、デンマーク王スヴェン2世の襲撃に呼応して、イングランドの反乱を率いたが、1070年に敗れてスコットランドに戻った。 他の反乱者もエドウィンは家臣に殺害され、モーカーはなどと共にエリー島に篭ったが1072年に降伏し、主要なアングロ・サクソン人貴族は全て消滅することになった。 フランス王フィリップ1世は反ウィリアム包囲網を目論んでおり、ノルマンディ国境の城を与えることを提案されたエドガーは船で大陸に向かったが遭難したためスコットランドに逃げ帰った。 しかし遠征は成功せず、1087年におそらく征服王の死を聞いてイングランドに戻った。 しかし、既にエドガーには王位へのチャンスはなく、征服王の長男ロベールと次男ウィリアム(2世)が争っていた。 ロベールに味方したことで、ノルマンディで没収されたウィリアム派の所領を与えられたが、1091年にロベールが敗れてウィリアム2世と和解すると、ノルマンディの所領は返還され、怒ったエドガーは再びスコットランドに戻った。 十字軍の時期にウィリアム2世は死去しており、その間に王位に就いた弟ヘンリー1世に対して十字軍から戻ったノルマンディ公ロベールが王位を巡って争っており、西欧に戻ったエドガーはロベールに味方したが、1106年の「タンシュブレーの戦い」でロベールは敗れ、生涯、幽閉された。 エドガーも捕虜となったが、姪のエディス(マティルダ)が1100年にヘンリー1世妃となっていたため許され解放された。 結婚せず、子供もおらず、これによりアングロ・サクソン王朝の男系は断絶したが、彼の姉マーガレットの子孫は皇后モード、ヘンリー2世と繋がり、もちろんスコットランド王家にも伝わっており、現在の英王室まで辿ることができる。

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