広島 原爆 即死。 【閲覧注意】アメリカ軍が広島に落とした原爆の被害を忘れないためにまとめてみた

【広島・長崎の原爆投下理由】なぜ2県が選ばれたのか?背景や投下までの流れ。

広島 原爆 即死

「広島」と「ヒロシマ」 皆さんは「広島」と聞くと何を思い浮かべますか?もみじ饅頭?カキ?広島東洋カープ?厳島神社も有名ですね。 広島は観光地として魅力的な場所です。 では「ヒロシマ」と書かれていたらどうでしょう。 カタカナで書かれた「ヒロシマ」には特別な意味が込められます。 それは 「原子爆弾が落とされた場所」という意味です。 人類の歴史上、初めて核兵器が使用された町の名前を象徴的に表すために、「ヒロシマ」と「ナガサキ」は特別にカタカナであらわすのです。 原子爆弾開発の流れ 第二次世界大戦は、ドイツ・イタリア・日本などの国からなる「枢軸国」と、アメリカ合衆国・イギリス・ソビエト連邦を中心とする「連合国」の対決でした。 大戦中、原子爆弾の開発を進めていたのはアメリカだけではありません。 イギリス、ソビエト連邦、ドイツ、実は日本も開発を進めていました。 これらの国の中で、当時もっとも原子物理学研究が進んでいたのはドイツでした。 第二次世界大戦中のドイツといえば、国内でひどい人種差別政策をとり、何百万人ものユダヤ人を収容所におくってガス室で殺したりしました。 ドイツの迫害からアメリカに逃れたユダヤ人科学者たちは、こうしたヒトラーの非人道的なおこないに危機感を抱き、「ドイツが原爆を完成させれば、連合国は手も足も出ず、世界はヒトラーの手に落ちる!」と考えます。 そこで、亡命したユダヤ人物理学者のレオ・シラードらは、アメリカのルーズヴェルト大統領に原爆の研究を進言しました。 こうした背景をもとに、アメリカで原爆開発計画 「マンハッタン計画」が始動します。 (原子爆弾実験の様子 出典:) つまり、アメリカの原爆開発はドイツを念頭におかれていたのです。 しかし、戦争が進むにつれて「日本への原爆投下」も検討されていきます。 1945年 5月 8日にドイツが降伏すると、それが現実のものとなっていきます。 なぜ広島と長崎だったのか? ~原爆を落とす場所はどのように決められた?~ (原爆投下の様子 左:広島 右:長崎 出典:) 日本のどこに原爆を落とすかを話し合ったのは、原爆開発に携わるアメリカの軍人と科学者たちです。 ここで決まった内容を大統領の側近や大統領に伝え、承認をもらいます。 その条件が、 「人口が集中する地域で、直径 5キロ以上の広さがある都市」、 「 8月まで空襲を受けず、破壊されていない都市」です。 これに対し、トルーマン大統領と側近の陸軍長官スティムソンは、投下目標は 「軍事施設」でなければならないと考えていました。 戦争で市民の死が避けられないことは分かっていても、意図的に多くの無関係な女性や子どもを殺戮に巻き込むことは違うと思っていたのです。 元々、軍人や科学者が第一候補にあげたのは京都でした。 しかし、大統領や側近たちは、猛反対します。 主な軍事施設もなく、一般市民が多く暮らす京都に原爆を落とせば、国際社会の非難を浴び、アメリカのイメージを悪くし、国益にも反すると考えたのです。 特に広島は、広い平地でまわりを山に囲まれており、大きな効果があげられるとともに、原爆の威力を測定するのにも適していたので、最初の投下地に決まりました。 もちろん広島にも多くの一般市民が生活していましたが、広島は港が軍事物資の供給基地になっており、日本軍の司令部などがおかれた軍事都市だったため、大統領たちも反対しませんでした。 こうした理由から、 1945年 8月 6日午前 8時 15分、世界で初めて実戦で原子爆弾が広島に落とされました。 アメリカ軍はすぐに 2発目の準備をします。 8月 9日、実はこの時、原爆を積んだ飛行機が向かったのは長崎ではなく、小倉でした。 しかし、前日に空襲を受けた隣の市の大火災の煙が小倉の町をおおい、投下目標が確認できなかったのです。 飛行機は小倉への投下を諦め、長崎へ向かいました。 そして 8月 9日午前 11時 2分、 2発目の原爆が長崎市内上空で炸裂しました。 この 2発の原爆は、熱線・爆風・放射線による病気で、広島と長崎にいた多くの人を死にいたらしめました。 さらに生き残った人にも、今でも続く深刻な後遺症を残したのです。 原爆投下をめぐる様々な意見 原爆は広島と長崎の多くの人の命をうばい、日本だけでなく世界中を核戦争の恐怖に陥れました。 戦争が終わった後、世界中の様々な人たちは「原爆投下は必要だったのか?」ということを考えます。 」と説明しています。 今でもアメリカ人の多くはこの考えを信じています。 しかし、原爆が落とされる前、日本はすでに 100を超える都市がアメリカによる無差別爆撃にさらされ、多くの人がなくなり、戦争を続ける力は残っていませんでした。 日本との戦いを指揮していたアメリカの軍人の中には「原爆を落とさなくても日本は降伏していた。 」と考える人も多くいます。 アメリカ率いる連合国は、日本に 「無条件降伏」を求めました。 この「無条件」での降伏が日本を悩ませます。 というのも、日本は 「国体護持」という条件をつけて降伏したかったのです。 「国体護持」とは「天皇がいる国のあり方を続ける」ことです。 「無条件降伏」を受け入れれば、天皇が戦争犯罪人として裁かれたり、天皇制が廃止され、「国体」が守れなくなるおそれがあります。 それは日本にとって、最もあってはいけないことだったのです。 アメリカが原爆投下を選んだ理由 こうした日本の事情を知っていた人の中には、「原爆を落とすよりも、降伏条件を修正して、天皇制を維持できるように日本に伝えれば、戦争は早く終わり、多くの命を救うことができる。 」と大統領に伝えた人もいました。 しかし、トルーマンは受け入れませんでした。 なぜアメリカは戦争を終わらせる方法に、降伏条件の修正ではなく、原爆投下を選んだのでしょう? 本当の理由は分かりませんが、色々な説がとなえられています。 原爆の開発には莫大な予算がつぎ込まれたため、せっかく完成させた原爆を使わないわけにはいきませんでした。 また、実験では都市の破壊の様子や人体への影響が分からないので、実際に落としてデータをとるためだったという考えがあります。 アメリカとソ連の間には、同じ連合国でも「資本主義国アメリカ」対「社会主義をめざす国ソ連」という対立がありました。 アメリカはソ連に原爆の威力を見せつけて威嚇し、第二次世界大戦後の世界の支配権をスムーズに握ろうとしたという考えです。 原爆の開発から投下までには、様々な人が関わっていたので、投下した理由も1つではなく、色々な人の考えや政治的な要因が重なった結果でした。 しかし、この原爆投下によって、世界はさらに威力の大きい爆弾の開発を競い合い、人類の未来までをも脅かす核軍拡競争の時代に突入しました。 まとめ.

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【きのこ雲の下でおきたこと】 午前8時15分 1945年8月6日、月曜日の広島の朝は快晴でした。 深夜零時過ぎに空襲警報が出 たが、何ごともなく、午前2時10分に解除。 しかし、午前7時9分にまた警戒警報 が出ました。 これも7時31分に解除されました。 ほっとした人々は戦時下の朝食を 済ませ、それぞれの1日を始めていました。 その時、午前8時15分、上空にセン光 が走ったのです。 7時過ぎの警戒警報の時、実は原爆投下のために気象観測をするB29が1機、広 島に飛来していたのです。 しかし、人々はそれを知らないまま、真夏の街で行動を 始めていました。 学校の生徒は主に中学1・2年生の男女合わせて約8,400人が建物疎開を手 伝うことになっていました。 近郊の町や村の義勇隊約1万人も広島に入り、現場に 到着しつつありました。 軍需工場に動員された生徒も、学校で勉強しようとしてい た生徒もいます。 後に被爆教師として平和教育を進める石田明さんは市中心部の市内電車の中。 こ の日から日赤病院で被爆者の救護と医療の人生を歩み始める重藤文夫さんは広島駅 に着いて間もなく。 後半生を被爆者運動に身を投じる森滝市郎さんは高等師範学校 の学生たちと動員された市南部の三菱重工業広島造船所にいました。 石田さん以外 の2人はすでに亡くなっていますが、3人は特別の被爆者ではありません。 戦時中ではありましたが,勤労、家、配給、通院、見舞い、預金の引き出しなど、 いろんな市民生活が動き出した時刻だったのです。 直後の街 多くの被爆者の証言を聞くと、人々は爆発の直後、それぞれ爆心地から遠い方向 に逃げたようです。 広島駅付近の人は東や北へ、横川駅付近の人は北へ、比治山周 辺の人は南や東に。 もちろん家族や職場の事情などで、違う方向に向かった人もい ます。 同じころ逆に、救護のために周辺の町から広島に向かった人々もありました。 広 島港付近にいた陸軍船舶司令部は、所属する通称「暁(あかつき)部隊」の兵士た ちを市中心部に救助に向かわせました。 だれとも知れぬむごたらしい遺体、水を求めて川に飛び込む女学生、焼かれた皮 膚を引きずりながら幽霊のように行く人、倒れた壁の下でうめく母を助け出そうと する息子、迫りくる炎、「もう苦しむだけだ」とひん死の娘を板切れでたたく父…。 すべてが地獄でした。 炎と叫び声に包まれ、避難と救助の交錯する街に、もう1つの原爆の魔の手「残 留放射線」が立ち込めていました。 上空 580メートルの火球 B29爆撃機エノラ・ゲイが 9,600メートル前後の高度から投下した原子爆弾は、 高度約 580メートルで爆発。 爆発と同時に、空中の爆発点の温度は数百万度に熱せ られ周りの空気が白熱に輝く火球が現れました。 1万分の1秒後、火球は直径28メートルに広がり、温度は30万度近く。 1秒後に 火球は最大直径約 280メートルにまで急膨張したと言います。 爆発の瞬間に強烈な 熱線と放射能が発生。 周囲の空気がすさまじい力で膨張し爆風になりました。 火球の放った瞬間の光を、被爆者は「マグネシウムをたいたようなセン光」と言い ました。 続いて起きた衝撃音と合わせ、ふつうの爆弾と違うことを多くの人が直感 していました。 巨大なきのこ雲 爆発の直後、異常な空気の乱れで生じた原子雲が、上昇気流に吹き上げられました。 軍観測機の報告では、投下5分後、直径約5kmに達する灰色の巨大な雲が市中心部に垂れ下がりました。 雲の中心から白い煙の柱が立ち上って、やがて17,000メートルに達し頂上はかなりの大きさに広がりました、投下4時間後に広島上空に来た写真偵察機は「市全体がまだ煙の雲に覆われていて、その周にやっと火災を認めることが出来た」と言います。 すさまじい熱線、爆風 すさまじい爆風の圧力、爆風、熱線の威力が複合して起 きました。 結果は悲惨でした。 爆心の真下を中心に、半径約2kmの範囲では木造の家はほぼ全壊・全焼、崩れな かった丈夫な建物も窓は吹き飛ばされ、内部は焼失しました。 炊事の残り火などに よる火災もありましたが、半径1.8kmの範囲では、木造の家はの直射で燃え出し たと考えられています。 2-4kmの範囲では、距離に応じて全壊または半壊しました。 しかし、かなり離 れた場所でも熱線による着火の例があります。 火事は投下1時間後から広がり、その日午後2時ごろまで最も火勢が強く、夕方 までに広い範囲をなめつくしました。 火は場所によって、その後の2、3日も燃え 続けたと言います。 北西へ広がった「黒い雨」 快晴の夏の日に、原爆投下20-30分後から、広島市からその北西の地域にかけての広い範囲で、真っ黒い雨が降りました。 原子爆弾の雲に含まれた多量の放射能を含んだ細かいチリが上昇気流で吹き上げられたための降雨です。 炎の街から逃げ出したばかりの人々、市の郊外で市中にいる肉親の安否を気遣う人々が、黒いにわか雨に打たれました。 ねっとりと黒くぬれた人々は、それが核兵器のもたらす放射性降下物、つまり放射能の雨であることを、まだ知りませんでした。 井伏鱒二の小説『黒い雨』の主人公がその後に発病した「原爆症」も、この雨によるものです。 この雨の広がりはこれまでの調査で、長径およそ30kmのだ円形の区域とされていますが、もっと広いという指摘もでています。 被爆後の10日間 原子爆弾が投下されてからの10日間は、広島にとっては「被爆直後の10日間」で あると同時に、「まだ戦争中の10日間」でした。 国は陸海軍の調査団を派遣、専門家も動員して被災の状況を調べました。 8月10 日にはこの爆弾を「原子爆弾」と特定。 同日、「米国政府を糾弾するとともに即刻 かかる非人道兵器の使用を放棄することを要求する」と米国に抗議しました。 しか し国民には「調査中」とだけ伝えました。 広島では、県庁も市役所も大被害を受けたため、関係の地方機関が場所を変えな がら、応急対策について協議。 8日の軍官民連絡会議で、行政機関が救護、復旧に 全力を挙げるため、警防団でも罹災(りさい)証明を発行、患者の収容所で早急に 名簿を作って掲示、給食をあと1週間で打ち切り配給制に移す、といった方針を決 めています。 被災した人々は、郊外の親類に避難したり、市内や周辺の救護所、お寺、工場、 軍の施設、学校に逃れました。 軍の船で宇品沖の似島に運ばれた人もいました。 大 やけどや重傷の人が次々に死んでいきます。 そればかりか直前まで無傷に見えた人 も急に死んでいきます。 髪の毛が抜けたり、激しい下痢に襲われる人もいます。 「ただごとではない」。 人々はこの爆弾の異様な働きに、大きな不安に包まれてい きました。 敗戦の日が来ました。 15日に終戦の詔勅(しょうちょく)が発表されるまで、日 本政府が無条件降伏することをめぐって会議を重ねたことは後で知らされました。 ラジオから聞こえた昭和天皇の発表は、当時、「玉音放送」と呼ばれました。 受け 止め方は人によって違いました。 敗戦、打ちひしがれた人、戦争が終わってほっと した人、電灯がつく生活に安心した人などさまざまです。 しかし原子爆弾の被害の傷口はまだ大きく深い口をあけたまま、なおも広島の人 と街をのみ込もうとしていたのです。 広島市の原爆被災範囲(地図) 被爆後4カ月 被災した人々の「生きるため」の条件は過酷でした。 焼け野原の市街地は、8月 は肉親を捜す人々が絶えず、無数の遺体が焼かれました。 9月は被災調査に訪れた 東京大学、京都大学などの医師が被爆者に健康への注意を呼び掛けました。 そして 17日、広島地方を枕崎台風が襲いました。 10月には幟町国民学校などで授業が始ま り、11月に原爆と台風の被害から広島鉄道管理局管内の線区がほぼ復旧。 12月には 広島市が保管していた住所、氏名不詳の遺骨約 6,000柱が己斐町の善法寺に移され ました。 冬へ向かう被災者には、住む家も衣服も食料も乏しく、何もかも不安な年 の暮れでした。 広島県の高野知事は「市街地は相当な広場と広幅の 道路とによって将来火災の延焼予防や菜園建設をはかりたい」と談話を発表、 「市内に13万人が居住」としました。 被爆前の一般市民が30万人弱だったとして も大きな減少です。 広島市は翌年1月1日現在で被爆4カ月後の人口を 151,693人 と発表しました。 1945年6月末現在の市民の数よりも93,730人減ったとしています。 ファーレル代将ほか12人のスタッフです。 このころ、市内にはすでに全国から大学の医学者らが調査や医療支援に訪れていました。 米国の調査団は、人的被害・医学分野でこれらの専門家の調査結果、物理的破壊などの調査で日本の報道写真家や映画スタッフによる膨大な撮影資料を集め、米国に持ち帰りました。 それが米国からの返還資料として、日本で公開されたのは28年後の1973年のことでした。 日用品を含む生活必需品の生産は出来ず、衣服や食料の流通の仕組みも破壊されました。 それを緊急に補ったのが広島駅前などにできたヤミ(闇)市でした。 ここでは近郊の町や村から集めてきた野菜や服、家具、旧軍の倉庫にあった軍服、靴、薬品など、暮らしに必要な物は何でも売り買いされました。 人々の暮らしは厳しく12月7日には広島戦災者同盟大会が開かれ、知事あてに生活物資を求める決議文が出されました。 川が増水し、下水は逆流、バラックや半壊家屋が吹き飛び、汽車も不通に。 広島地方気象台の記録ではこの日の総雨量は197ミリ。 死者・行方不明者は2,012人に上りました。 この災害で、原爆調査にきていた京都大学調査班が、広島市の西、大野町にあった大野陸軍病院で山津波に遭い、真下俊一教授ら11人が即死しました。

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原爆投下側の視点 [ ] (この節以下では英国・米国の行動に視点を置く) 広島への原爆投下に至る国際的軍事背景 [ ] 詳細および日本の対応などはを参照• 1939年8月2日 - ドイツからアメリカに移住したのがに「大量のがを起こす現象は新型爆弾の製造につながるかもしれない。 飛行機で運ぶには重過ぎるので船で運んで港湾ごと爆破することになる。 アメリカで連鎖反応を研究している物理学者グループからなる諮問機関をつくるのがいい」と進言する内容の手紙()を執筆した。 1939年9月1日 - 第二次世界大戦が勃発。 1939年10月11日 - 前述のアインシュタインの手紙がルーズベルトの元に届けられる。 1939年10月21日 - アメリカがを設置。 1940年4月10日 - イギリスが第1回(MAUD委員会)の会議を開催。 1941年7月15日 - MAUD委員会がウラン爆弾が実現可能だとする最終報告を承認して解散。 1941年10月3日 - MAUD委員会最終報告書が公式にルーズベルト大統領に届けられる。 1941年12月8日 - 日本が第二次世界大戦に参戦。 1942年9月26日 - アメリカのがを最高の戦時優先等級に位置づける。 1942年10月11日 - アメリカはイギリスにマンハッタン計画への参画を要請。 1944年9月 - ルーズベルト大統領とイギリスのの間で()が交わされ、日本に対して原爆を使用することが決定された。 その後1945年4月には第1回目標選定委員会が開催され、原爆投下目標の選定が始まった。 原爆投下命令 [ ] 1945年7月25日、の責任者であるが投下指令書を作成し(しかし、それを大統領だったが承認した証拠はない)、ハンディ陸軍参謀総長代理からスパーツ陸軍戦略航空軍司令官(戦略航空隊総指揮官)により原爆投下がなされた。 第20航空軍第509混成群団は、1945年8月3日ごろから以降、天候が許し次第、目標:広島、小倉、新潟、長崎のうちの一つに、最初の特殊爆弾を目視攻撃により投下することとする。 この爆弾の爆発効果を観測し記録する目的で、陸軍省から派遣した軍と民間の科学者要員を運ぶためには、余分な機を爆弾搭載機に随行させることとする。 これらの観測機は、爆弾の爆発点から数マイルの距離にとどまることとする。 計画要員によって準備が整い次第、上記の目標の上に追加の爆弾を投下することとする。 上に列挙した以外の目標に関しては、追って指示を与える。 この兵器の対日使用に関する一切の情報を発表する権限は、陸軍長官および合衆国大統領だけが保有することとする。 前線の司令官によるこの主題に関する声明や情報の発表は、事前の特別な許可なしには、行ってはならない。 一切の報道記事は、陸軍省に送って特別な検閲を受けることとする。 上記の命令は、合衆国陸軍長官と参謀総長の承認の下に、その指示によって貴官に発せられる。 貴官はこの命令書の写し1通を将軍に、また1通を提督に、情報として送達されたい。 グアム島 [ ] 、の第20航空軍司令部からのに、次のような野戦命令13号が発令された。 2 a ここに挙げた以外の味方機は、攻撃時刻の4時間前から6時間後までの間は、この攻撃のために選ばれたどの目標に対しても、50マイル以内に入ってはならない。 第20航空軍は、8月6日に、日本の目標を攻撃する。 第313航空団、第509群団: 1 第1目標: 広島市街地工業地域。 a 照準点: 063096。 参照:XXI爆撃機集団リト・モザイク 広島地域、No. 30-市街地。 〔愛媛県川之江-伊予三島〕 2 第2目標: および小倉市。 3 第3目標: 長崎市街地域。 4 必要兵力: a 攻撃兵力: 3機。 b 予備機: 1機、失敗の場合に備えて硫黄島に進出させておく。 c 気象観測機: 3機、それぞれの目標に1機を派遣する。 10 搭載爆弾量と特殊装備: 第509群団指揮官により指定された通りとする。 11 目視攻撃だけを行うこと。 この作戦に対しては、作戦任務番号は付けない。 記録の目的には、特殊爆撃任務13番とする。 テニアン島 [ ] 、号 は最後の原爆投下訓練を終了して、 に帰還した。 翌21時20分、第509混成部隊の観測用B-29が広島上空を飛び、「翌日の広島の天候は良好」とテニアン島に報告した。 5日、第509混成群団司令部から作戦命令35号が発令された。 0時37分、まず気象観測機のB-29が3機離陸した。 号は広島へ、ジャビット3世号は小倉へ、号は長崎である。 0時51分には予備機のトップ・シークレット号がへ向かった。 続いて1時27分、Mk-1核爆弾を搭載したがを開始し、1時45分にA滑走路の端から離陸した。 その離陸から2分後の1時47分、原爆の威力の記録を行う科学観測機(号)が、さらに2分後の1時49分には写真撮影機( 91 or ネセサリー・イーブル号)の各1機のB-29が飛び立った。 すなわちこの日、6機のB-29が原爆投下作戦に参加し、うち4機が広島上空へ向かっていたことになる。 テニアン島から広島市までは約7時間の飛行で到達できる。 四国上空 [ ] 6時30分、兵器担当兼作戦指揮官 ()海軍大佐、兵器担当補佐陸軍中尉、爆撃手陸軍少佐らが爆弾倉に入り、の起爆装置から緑色の安全プラグを抜き、赤色の点火プラグを装填した。 作業を終えたパーソンズはティベッツ機長に「兵器のアクティブ化完了」と報告し、機長は「了解」と答えた。 機長は機内放送で「諸君、我々の運んでいる兵器は世界最初の原子爆弾だ」と、積荷の正体を初めて搭乗員全員に明かした。 この直後、のレーダー迎撃士官ジェイコブ・ビーザー陸軍中尉がレーダースコープに正体不明の輝点(ブリップ)を発見した。 通信士リチャード・ネルソン陸軍上等兵はこのブリップが敵味方識別装置に応答しないと報告した。 エノラ・ゲイは回避行動をとり、高度2,000メートル前後の低空飛行から急上昇し、7時30分に8,700メートルまで高度を上げた。 さらに四国上空を通過中に日本軍のレーダー照射を受け、単機の日本軍戦闘機が第一航過で射撃してきたが、被弾はなかった。 この日本軍戦闘機(所属不明)はハーフターンして第二航過で射撃を試みたが、射撃位置の占有に失敗した。 エノラ・ゲイ号は危機を回避し、目的地への飛行を再開した。 広島上空 [ ] 広島城本丸周辺。 中国軍管区司令部は本丸左下の3つ並ぶ建物。 本丸中央は旧で左上が天守。 7時過ぎ、エノラ・ゲイ号に先行して出発していた気象観測機B-29の1機が広島上空に到達した。 少佐の号である。 7時15分ごろ、ストレートフラッシュ号はテニアン島の第313航空団に気象報告を送信した。 この気象報告を四国沖上空のエノラ・ゲイ号が傍受し、投下目標が広島に決定された。 原爆の投下は目視が厳命されており、上空の視界の情報が重要であった。 ストレートフラッシュ号は日本側でも捕捉しており、司令部から7時9分に警戒警報が発令されたが、そのまま広島上空を通過離脱したため、7時31分に解除された。 8時過ぎ、B-29少数機(報告では2機であったが、実際には3機)が日本側によって捕捉された。 8時13分、中国軍管区司令部は警戒警報の発令を決定したが、各機関への警報伝達は間に合わなかった(当然、ラジオによる警報の放送もなかった)。 8時9分、エノラ・ゲイ号は広島市街を目視で確認した。 中国軍管区司令部が警報発令の準備をしている間に、エノラ・ゲイ号は広島市上空に到達していた。 高度は31,600フィート 9,632メートル。 投下に先立ち、原爆による風圧などの観測用のを吊るしたを三つ降下させた。 青空を背景にすると目立つこの落下傘は、空を見上げた市民たちに目撃されている。 この時の計測用ラジオゾンデを取り付けた落下傘を原爆と誤認したため、「原爆は落下傘に付けられて投下された」という流説があるが誤りである。 一部のラジオゾンデは「不発の原子爆弾がある」という住民の通報により調査に向かった日本軍がした。 広島県安佐郡亀山村に落下したラジオゾンデは、原爆調査団の一員だった航空参謀が回収している。 また一部の市民は「乗機を撃墜された敵搭乗員が落下傘で脱出した」と思って拍手していたという。 8時12分、エノラ・ゲイが攻撃始点 IP に到達したことを、航法士カーク陸軍大尉は確認した。 機は自動操縦に切り替えられた。 爆撃手フィアビー陸軍少佐はに高度・対地速度・風向・気温・湿度などの入力をし、投下目標 AP をに合わせた。 相生橋は広島市の中央を流れるが分岐する地点に架けられたT字型の橋である。 特異な形状は、上空からでもその特徴がよく判別できるため、目標に選ばれた。 8時15分17秒、原爆が自動投下された。 副操縦士のロバート・ルイスが出撃前に描いたとされる「爆撃計画図」によると、投下は爆心地より2マイル(約3. 2キロメートル)離れた地点の上空であると推察される。 3機のB-29は投下後、熱線や爆風の影響を避けるために進路を155度急旋回した。 再び手動操縦に切り替えたティベッツはB-29を急降下させた。 リトルボーイは爆弾倉を離れるや横向きにスピンし、ふらふらと落下した。 間もなく尾部の安定翼が空気を掴み、を描いて約43秒間落下した後、よりやや東南の付近高度約600メートルの上空で爆発を起こした。 帰投 [ ] 広島投下作戦終了後のテニアン島にて 14時58分、エノラ・ゲイ号は快晴のテニアン島の北飛行場に帰還し、戦略空軍総司令官少将から、ティベッツ大佐には栄誉十字章が、他の12人には銀星章が与えられた。 その日は夕方から、第509混成部隊の将兵や科学者らによって、深夜まで盛大な祝賀パーティが催された。 原爆投下時、撮影機はカラーフィルムで撮影していたが、テニアン島に帰還後、現像に失敗したためにその記録は失われた。 そのため、爆発から約3分後にに搭乗した科学調査リーダー、により8mmカメラによって撮影されたの映像が、世界初の都市への原爆投下をとらえた唯一の映像となっている。 原爆被爆側の視点 [ ] (この節以下では被爆地の状況に視点を置く) 民家が並ぶ被爆前の中島地区(模型) 上端中央のT字の橋が相生橋、左右の川に架かる2つの橋は右が・元安橋、左が・本川橋。 この両橋を通る道は旧で、沿いは江戸時代から栄えていた。 広島市の略史と被爆直前の状況 [ ] はの大名により河口にとして開かれて以来、の中心であり続けた。 にはの城下町として栄え、後は県庁所在地となり、中国地方の経済的な中心地として発展していた。 さらに・・・・を有する学都でもあった。 広島にはとしての側面もあった。 時には前線に近い広島に()が置かれ、また臨時()も広島で開かれるなど、一時的に機能が広島に移転されている。 これを契機として、陸軍の施設が広島に多く置かれるようになった。 内には陸軍司令部、広島駅西に司令部、その周囲には各部隊駐屯地等が配置された。 すなわち当時、爆心地の北側はおよそ陸軍の施設で広く占められており、陸軍敷地南端より約200メートルに爆心地がある。 またに置かれた陸軍は上の重要な拠点であった。 被爆当時の市中は約35万人と推定されている。 内訳は、 1 居住一般市民約29万人、 2 軍関係約4万人、および 3 市外から所用のため市内に入った者約2万人である。 中島地区 [ ] 現在の広島の地図から名前が消えた(中島本町・材木町・天神町・元柳町・木挽町・中島新町)は、数千人の一般が暮らす街であり、また広島の第一の・であった。 この地区は爆心地から500メートル以内にあり壊滅、唯一、建築の燃料会館(旧大正屋呉服店)だけが耐え残った。 戦後、この地区はとして整備され、燃料会館は全焼した内部を全面改築して公園のとなり現在も残っている。 8月6日の朝 [ ] 8月6日は月曜。 当時は週末の休みはなく、朝は8時が勤務開始であった。 大半の労働者・徴用工・、および勤労動員された中学上級生(1万数千人)たちは、やを始めとする数十の軍需工場での作業となった。 またには、中学下級生(数千人)および一般市民の勤労奉仕隊(母親たち)や病気などの理由によりされなかった男子らが参加した。 動員は市内の他、近隣の農村からも行われた。 建物疎開とは、による類焼を食い止めるために建物の間引きを行う作業である。 建物の破壊は軍が行い、瓦礫の処理を奉仕隊が行った。 当然、青空の下での作業である。 彼らは原爆の熱線を直接、大量に浴びることになる(後述)。 尋常小学校の上級生児童は1945年4月に行われたで市を離れていた者が多かったが、下級生児童は市内に留まっていた。 児童は各地区の寺子屋学校での修学となっていた。 就学以前の幼児は自宅に留まっていた。 8月3日、4日と雨が降ったが、5日以降はに覆われて天候は回復した。 8月5日は深夜に2回空襲警報が発令され、その度に市民はに避難したため、寝不足の市民も多かった。 この日、市街中心部では米の配給が行われ、市民は久しぶりの米飯の食卓を囲んだ。 8月6日の朝の気温は26. 7時9分の空襲警報で市民は一旦は防空壕に隠れたものの、7時31分には警報解除されたため、外へ出て一日の活動を開始していた。 原爆投下直後 [ ] が1998年に日米の科学者などの協力のもと、核分裂爆発直後の放射線の発生、火球の成長、衝撃波・熱線の照射などの状況を再現した番組を制作した。 1946年春が撮影した米軍映画撮影隊による物理的被害状況映像。 爆心地周辺。 爆心地 [ ] 爆心地である広島市細工町29-2の(現島内科)は、の東側にある。 8時15分、病院南西側の上空約600メートルで「リトルボーイ」は炸裂した。 爆心地500メートル圏内では閃光と衝撃波がほとんど同時に襲った。 巨大な爆風圧が建築物の大半を一瞬にして破壊、木造建築は全数が全壊した。 島病院の建物も完全に吹き飛ばされ、院内にいた約80名の職員と入院患者全員が即死した。 鉄筋コンクリート建築である産業奨励館は垂直方向の衝撃波を受けて天蓋部は鉄骨を残して消失、一部の外壁を残して大破したが完全な破壊は免れている。 相生橋や元安橋の石の欄干も爆風で飛ばされた。 爆心地を通過していたは炎上したまま遺骸を乗せて、力でしばらく走り続けた。 吊革を手で持った姿勢のまま死んだ乗客や、運転台でを握ったまま死んだ女性運転士 もいた。 そのなかで、爆心地からわずか700メートル付近で脱線し黒焦げ状態で発見された(651号車)が、修理・改造され今も現役で、平和学習に用いられる など残った物もある。 屋外にいた者は大量の熱線と放射線を浴びて即死し、屋内にいた者は家屋の倒壊に巻き込まれ、閉じ込められたまま焼死した。 広島県燃料配給統制組合に勤めていた野村英三(当時47歳)が手記を残している。 野村は爆発の瞬間に(会館は島病院や産業奨励館の直近170メートルに位置している。 現在でも建物が内に現存している)の地下室に書類を捜しに入っていて難を逃れた。 野村の証言によると、一瞬で燃料会館内は暗闇に包まれ、手探りで這い出した屋外も同様に闇の中だった、半壊した産業奨励館の窓枠から炎が立ち上り、やがて全壊した中島地区の各所から炎が上がり始めたという。 脱出に成功した同僚は8名いたが、その後の消息は分からなくなったとされる(大量被曝による急性放射線障害で間もなく全員死亡したのではと考えられている)。 野村はその後猛烈な火と煙の中、中島町を北進しを経て西方面の己斐方面へ脱出、その後、高熱・下痢・歯茎からの出血などの放射線の急性症状で生死をさまようが一命を取り留め、爆心地の状況を知るほぼ唯一の生存者として、1982年6月に亡くなるまで貴重な証言を残している。 全壊全焼圏内 [ ] 爆心地1キロメートル地点から見た爆心点は上空31度、2キロメートル地点で17度の角度となる。 したがって野外にあっても運良く塀や建物などの遮蔽物の陰にいた者は熱線の直撃は避けられたが、そうでない大多数の者は、熱線を受け重度のを負った。 野外で建物疎開作業中の勤労奉仕市民や中学生・女学生らは隠れる間もなく大量の熱線をまともに受けた。 勤労奉仕に来ていた生徒が全員死亡した学校もあった。 屋内にいた者は熱線こそ免れたものの、爆風で吹き飛んだ大量のガラス片を浴びて重傷を負い、あるいは爆心地付近同様に倒壊家屋に閉じ込められたまま焼死した。 被爆救護活動 [ ] 広島市の行政機関(市役所・県庁他)は爆心から1,500メートル以内であり、家屋は全壊全焼、当時の広島市長だった、のは共に被爆死し、職員も多くが死傷、組織的な能力を失った。 また周辺に展開していた陸軍第五師団の部隊も機能を喪失した。 市内の爆心地から4キロメートルにあったの陸軍隊は被害が軽かったため、この部隊(通称「暁部隊」)が救護活動の中心となった。 当日8時50分には最初の命令(消火・救難・護送など)が発せられている。 陸軍船舶練習部に収容され手当てを受けた被爆者は、初日だけで数千人に及んだ。 また原爆の被災者はのに所在したに多く送られている。 この船舶練習部以外にも市内各所に計11か所の救護所が開設された。 船舶練習部は野戦病院と改称し、救護所は53か所まで増加した。 救護所の中でも爆心地から500mの近さに在って尚RC構造の外郭を保ち倒壊を免れた広島市立袋町小学校西校舎は、 1階に広島県内外からの医療団詰所と救護所、2階には広島県庁の厚生部が臨時に置かれ、 3階は赤十字国際委員会駐日首席代表マルセル・ジュノー博士の尽力によりもたらされた15トンの医薬品と医療機材の保管場所となり翌年の小学校再開迄の間、被爆まもない広島の医療行政の拠点となった。 原爆による死亡者 [ ] 爆心地から500メートル以内での被爆者では、即死および即日死の死亡率が約90パーセントを越え、500メートルから1キロメートル以内での被爆者では、即死および即日死の死亡率が約60から70パーセントに及んだ。 さらに生き残った者も7日目までに約半数が死亡、次の7日間でさらに25パーセントが死亡していった。 11月までの集計では、爆心地から500メートル以内での被爆者は98から99パーセントが死亡し、500メートルから1キロメートル以内での被爆者では、約90パーセントが死亡した。 (20年)の8月から12月の間の被爆死亡者は、9万人ないし12万人と推定されている。 2019年11月27日に広島市が発表した調査結果によると1945年年末までの犠牲者で氏名が確認されたのは89025人で、これを翌28日に報じた中国新聞では一家全滅や朝鮮人等の外国人が確認できないためではないかと推察している。 原爆が投下された際に広島市内にはアメリカ軍の十数名が収容されていたが全員が被爆死している。 このアメリカ軍捕虜はにを行って戦艦「」に撃墜されたの爆撃機数機(タロア号、ロンサムレディ号、その他)の乗組員である。 彼らは憲兵隊司令部がある広島市に移送された直後の被爆であった(参照)。 被爆者を使った人体実験 [ ] が、広島と長崎の原爆による被爆者を使って、戦後2年以上に渡り施行後も、あらゆる人体実験を実施したことを、が2010年8月6日放送の『』にて調査報道した。 その報道の内容は次の通り。 字幕:東京大学 ナレーター:日本が国の粋を集めて行った原爆調査。 参加した医師は、どのような思いで被曝者と向き合ったのか。 山村秀夫さん90歳、都築教授が率いる東京帝国大学調査団の一員でした。 当時、医学部を卒業して2年目の医師だった山村さん。 調査はすべてアメリカのためであり、被曝者のために行っている意識は無かったと言います。 山村さん:もういっさいだって、結果は日本で公表することももちろんダメだし、お互いに持ち寄って相談するということもできませんですから。 とにかく自分たちで調べたら全部向うに出すと。 ナレーター:山村さんが命じられたのは、被曝者を使ったある実験でした。 報告書番号23、山村さんの論文です。 被曝者にアドレナリンと言う血圧を上昇させるホルモンを注射し、その反応を調べていました。 12人の内6人は、わずかな反応しか示さなかった。 山村さんたちは、こうした治療とは関係のない検査を毎日行っていました。 調べられることはすべて行うのが、調査の方針だったと言います。 山村さん:生きてる人は生前にどういう変化を起こしているかということを、少しでも何かの手掛かりは見つけて、調べるということだけでしたから、それ以外何にもないですね。 あんまり他のことも考えれなかったですね。 とにかくそれだけやると。 NHKインタビューアー:今となってみたらどうお感じになりますか? そのことは。 山村さん:(苦笑)、今となってみたらねぇ。 そうですねえ、まあもっと他にいい方法があったのかも知れませんけど、だけど今と全然違いますからねぇ、その時の社会的な状況がね。 原爆に対する日米政府の反応と原爆報道 [ ] (この節以下では被爆地の状況に視点を置く) 第一報 8月6日 [ ] 8時過ぎ、が広島市街を目視確認する直前、所轄の甲山監視哨・三次監視哨・松永監視哨等からに、敵大型機(あるいは)3機が広島市方面に向かうとの電話連絡があり、8時10分頃に警戒警報が発令された。 司令部にも同様の電話連絡があり、8時13分に広島・山口両地区に警戒警報が発令された。 続いて海軍の中野探照・板城探照燈台や陸軍の中国軍管区司令部から呉鎮守府に続報があり、呉地区に空襲警報が発令された。 陣地が戦闘配置し、対空戦闘用意の態勢に移行して高度標定機による敵機観測と高射砲弾の信管調定を開始した。 また呉鎮守府飛渡瀬砲台ではがを有効射程内に捕捉し、射撃命令を待っていた。 にある作戦室の指揮連絡室では、隣の作戦室からの伝票「八・一三、広島、山口、ケハ」を受け取り、学徒動員の恵美(旧姓・西田)敏枝が宇品高射砲大隊と吉島飛行場に、荒木(旧姓・板村)克子が司令部(善通寺)に、岡(旧姓・大倉)ヨシエが電話交換機を使って各地の陸軍司令部や報道機関に一斉に電話連絡しようとした瞬間、原爆が炸裂した(中国軍管区司令部からの警戒警報は各方面に伝達されることはなかった)。 の流川演奏所では、古田正信が呉鎮守府が発令した警報のメモを持って第2演奏室()に入った。 古田が原放送所(放送休止時間のため停波中)に警報発令の合図を送り、放送所の送信機が始動した直後に原爆が炸裂、演奏所と放送所を結ぶ中継線が断線したため警報は放送されなかった。 広島放送局では約40名の職員が犠牲となった。 広島城内にある中国軍管区司令部の地下壕は半地下式の耐爆シェルターであったため、熱線の被害は限定的であったが、小窓から入った衝撃波によって多くの負傷者を出した。 荒木と岡は一旦壕の外に脱出したが再び地下壕に戻り、荒木は四国軍管区司令部からの電話連絡を受け、岡は司令部()と(連隊)司令部に、広島空襲の第一報を電話で伝えた。 広島中央放送局 原放送所 [ ] 2014年のNHK祇園ラジオ放送所 上記のごく一部を除いてあらゆる通信が途絶した広島は、被害状況報告や救援要請を行う手段を失った。 しかし、広島市郊外にある原放送所(現在の)の主要設備(放送鉄塔を含む)は無事であった。 原放送所は広島支社の緊急避難先となっていたが、偶然郊外の同僚宅にいて無事だった同盟通信記者の中村敏が避難、11時30分頃(16時の説もある)、同盟通信社岡山支社に「6日午前8時16分頃、敵の大型機1機ないし2機、広島上空に飛来し、特殊爆弾を投下、広島市は全滅した。 死者およそ17万人の損害を受けた」との第一報を送った。 この第一報は同盟通信岡山支社経由で東京本社に届けられた。 また第一報は、当日昼過ぎに大本営にも届けられた。 なお広島中央放送局は翌7日朝より原送信所の予備演奏所を使い、生き残った職員によって単独放送を開始、ネット回線が復旧、全国放送まで完全にできるようになったのは8月29日夕方であった。 8月15日の玉音放送は、臨時回線によって届けられ、雑音だらけでほとんど聞き取れない状態ではあったが、広島でも放送された。 大本営発表 [ ] 6日8時30分頃、が大本営海軍部に広島が空襲を受けて壊滅した旨を報告した。 続いて10時頃には第2総軍が船舶司令部を通じて大本営陸軍部に報告した。 加えて、昼過ぎには同盟通信からも特殊爆弾により広島が全滅したとの報を受けた大本営は、政府首脳にも情報を伝え、午後早くには「広島に原子爆弾が投下された可能性がある」との結論が出された。 夕刻には長がに「広島市が全滅」と上奏した。 大本営は翌7日15時30分に報道発表を出した。 16時間前、アメリカの飛行機が日本軍の最重要陸軍基地・広島に一発の爆弾を投下した。 この爆弾の威力は2万トンを上回るものである。 これまでの戦争の歴史において使用された最大の爆弾、イギリスのと比べても、2000倍の破壊力がある。 (中略)つまり 原子爆弾である。 ポツダムで7月26日に最後通告が出されたのは、日本国民を完全な破壊から救うためであった。 日本の指導者たちは、この最後通告を即刻拒否した。 もし彼らがアメリカの出している条件を受け入れないならば、これまで地球上に一度も実現したことのないような破壊の雨が降りかかるものと思わねばならない。 — 強調引用者。 司令部、川越分室(現・)もこの声明を傍受した。 ラジオによる報道 [ ] 8月6日、大阪中央放送局が日本時間21時からの報道の最初に、B29が広島市に侵入し、焼夷弾と爆弾によって攻撃、損害は目下調査中という内容を放送し、アメリカの連邦通信委員会 FCC 内の外国放送諜報局 FBIS ポートランド受信所で受信された。 また、報道の後半のローカルニュースで、下り大阪からの列車は山陽線ので折り返し、三原からまでは呉経由などの情報が放送された。 新聞による報道 [ ] 原爆が投下された8月6日には大本営発表がなされなかったため、新聞各紙の扱いは小さかった。 しかし、同じ8月7日付朝日新聞であっても、大阪版は東京版よりも記事が詳細で、「きのふの来襲図」には原爆搭載機の飛行ルートが記されている。 米軍機によるリーフレット撒布 [ ] (AB-11) 即刻都市より退避せよ 日本国民に告ぐ!! このビラに書いてあることを注意して読みなさい。 米国は今や何人もなし得なかつた極めて強力な爆薬を発明するに至つた。 今回発明せられた原子爆弾は只その一箇を以てしても優にあの巨大なB-29二千機が一回に搭載し得た爆弾に匹敵する。 この恐るべき事実は諸君がよく考へなければならないことであり我等は誓つてこのことが絶対事実であることを保証するものである。 我等は今や日本々土に対して此の武器を使用し始めた。 若し諸君が尚疑があるならばこの原子爆弾が唯一箇広島に投下された際如何なる状態を惹起したか調べて御覧なさい。 この無益な戦争を長引かせてゐる軍事上の凡ゆる原動力を此の爆弾を以て破壊する前に我等は諸君が此の戦争を止めるように請願することを望む。 は曩に名誉あるの概略を諸君に述べた。 この条項を承認しより良い平和を愛好する新日本の建設を開始するよう我等は慫慂するものである。 諸君は直ちに武力抵抗を中止すべく措置を講ぜねばならぬ。 然らざれば我等は断乎この爆弾並びに其の他凡ゆる優秀なる武器を使用し戦争を迅速且強力に終結せしめるであらう。 日本国民諸君は今や重大なる秋に直面してしまつたのである。 軍部首脳部の連中が三国共同宣言の十三ヶ条よりなる寛大なる条項を以て此の無益な戦争を止めるべく機会を与へられたのであるが軍部は是を無視した。 そのためにソ聯は日本に対して宣戦を布告したのである。 亦米国は今や何人もなし得なかつた恐しい原子爆弾を発明し之を使用するに至つた。 之原子爆弾はたゞ一箇だけであの巨大なB-29二千機が一回に投下する爆弾に匹敵する。 この恐るべき事実は諸君が広島に唯一箇だけ投下された際、如何なる状態を惹起したかはそれを見れば判るはずである。 此の無益な戦争を長引かせてゐる軍事上の凡てを此の恐るべき原子爆弾を以て破壊する。 米国は此の原子爆弾が多く使用されないうち諸君が此の戦争を止めるよう天皇陛下に請願される事を望むものである。 米国大統領は曩に諸君に対して述べた十三ヶ条よりなる寛大なる条項を速やかに承諾し、より良い平和を愛好する新日本の建設をなすよう米国は慫慂するものである。 随つて日本国民諸君は直ちに武力抵抗を中止すべきである。 然らざれば米国は断乎この原子爆弾並に、其他凡ゆる優秀なる武器を使用しこの戦争を迅速且強制的に終結せしむるであらう。 また同日、第二部長の中将を団長とした大本営調査団 9名が、の教官を中心とする広島災害調査班と共に空路現地入りした。 9日、陸軍省広島災害調査班が広島赤十字病院の地下室でレントゲンフィルムが全て感光していることを確認、直ちに陸軍軍医学校に放射線専門家の派遣を要請している。 これを受けた陸軍軍医学校は、陸軍軍医学校レントゲン教官である御園生圭輔軍医およびの研究者玉木英彦研究員・村地孝一研究員・木村一治研究員らを派遣して残留放射能測定や被爆者の血液検査などを行った。 この結果、土壌中から92やが大量に検出され、白血球の減少している被爆者が多いことが分かった。 後に遺体病理解剖にて被爆者を蝕んだ放射線は、、、であることが判明した。 投下時急旋回セリ (二) 基地飛行機は有蓋掩体若ハ地下ニ格納スベシ 以上を直ちに政府に報告した。 日本政府の抗議声明 [ ] 日本政府は8月10日、スイス政府を通して下記のような抗議文を、に提出した。 本月六日米国航空機は広島市の市街地区に対し新型爆弾を投下し瞬時にして多数の市民を殺傷し同市の大半を潰滅せしめたり広島市は何ら特殊の軍事的防備乃至施設を施し居らざる普通の一地方都市にして同市全体として一つの軍事目標たるの性質を有するものに非らず、 本件爆撃に関する声明において米国大統領「トルーマン」はわれらは船渠工場および交通施設を破壊すべしと言ひをるも、本件爆弾は落下傘を付して投下せられ空中において炸裂し極めて広き範囲に破壊的効力を及ぼすものなるを以つてこれによる攻撃の効果を右の如き特定目標に限定することは技術的に全然不可能なこと明瞭にして右の如き本件爆弾の性能については米国側においてもすでに承知してをるところなり、 また実際の被害状況に徴するも被害地域は広範囲にわたり右地域内にあるものは交戦者、非交戦者の別なく、また男女老幼を問はず、すべて爆風および輻射熱により無差別に殺傷せられその被害範囲の一般的にして、かつ甚大なるのみならず、個々の傷害状況より見るも未だ見ざる惨虐なるものと言ふべきなり、 抑々交戦者は害敵手段の選択につき無制限の権利を有するものに非ざること及び不必要の苦痛を与ふべき兵器、投射物其他の物質を使用すべからざることはの根本原則にして、それぞれ第二十二条、及び第二十三條(ホ)号に明定せらるるところなり、 米国政府は今次世界の戦乱勃発以来再三にわたり乃至その他の非人道的戦争方法の使用は文明社会の与論により不法とせられをれりとし、相手国側において、まづこれを使用せざる限り、これを使用することなかるべき旨声明したるが、米国が今回使用したる本件爆弾は、その性能の無差別かつ惨虐性において従来かかる性能を有するが故に使用を禁止せられをる毒ガスその他の兵器を遙かに凌駕しをれり、 米国は国際法および人道の根本原則を無視して、すでに広範囲にわたり帝国の諸都市に対して無差別爆撃を実施し来り多数の老幼婦女子を殺傷し神社仏閣学校病院一般民家などを倒壊または焼失せしめたり、 而していまや新奇にして、かつ従来のいかなる兵器、投射物にも比し得ざる無差別性惨虐性を有する本件爆弾を使用せるは人類文化に対する新たなる罪悪なり帝国政府はここに自からの名において、かつまた全人類および文明の名において米国政府を糾弾すると共に即時かかる非人道的兵器の使用を放棄すべきことを厳重に要求す 原爆被害報道の本格化 [ ] 広島病院地下室のレントゲンフィルムが全て感光していることを知り、6日に広島を襲った新型爆弾の正体が原爆であると確認した軍部は、緘口令を諦めて報道統制を解除。 11日から12日にかけて新聞各紙は広島に特派員を派遣し、原爆のことを読者に明かした上、被爆地の写真入りで被害状況を詳細に報道した。 科学雑誌などで近未来の架空兵器と紹介されていた原爆が開発され、日本が戦略核攻撃を受けたことを国民はここに初めて知った。 この原爆報道により、新潟県は8月11日に新潟市民に対して「原爆疎開」命令を出し、大半の市民がから脱出した。 これは新潟も原爆投下の目標リストに入っているらしいという情報が流れたからである。 原爆疎開が行われた都市は新潟市のみであった。 また東京でも、単機で偵察侵入してきたB-29を「原爆搭載機」、を「原爆の閃光」と誤認する一幕もあった。 広島原爆の破壊力と被害 [ ] この節では広島に落とされた原爆の破壊力に関する科学的な記述をする。 爆風で窓ガラスの破片が壁に突き刺さった跡が残る 広島原爆の破壊力 [ ] 広島原爆には約50キログラムのが使用されており、このうち核分裂を起こしたのは1キログラム程度と推定されている。 広島原爆はウラニウム型原爆であり、計算上得られる一定量以上のウラン235を「寄せ集める」だけで臨界核爆発を起こす。 従って分割したウラン235の塊を合わせるだけの簡単な構造のもので、爆発そのものはほぼ確実であることから、複雑な構造を持つ爆縮型の長崎原爆(型原爆)とは異なり、事前の核実験(爆発実験)による動作の検証はなされず、設計図通りに作られたものがそのまま広島に投下され、後に広島の被災実態から詳細な計算がなされた。 1キログラムのウラン235の核分裂によって0. 68グラムの質量欠損が生じ、のが示す「質量とエネルギーの等価性 」によってエネルギーに変換される。 爆発で放出されたは約63兆(62. 8 [TJ(テラジュール)]、6. エネルギーは爆風(・)・熱線・となって放出され、それぞれの割合は50パーセント・35パーセント・15パーセントであった。 爆風 [ ] 爆発の瞬間における爆発点の気圧は数十万に達し、これが爆風を発生させた。 爆心地における爆風速は440以上と推定されている。 比較するとこの風速は、強いの中心風速の10倍である。 そして、爆風のエネルギーは風速の3乗に比例する。 すなわち、原爆の爆風はエネルギー比では台風の暴風エネルギーの1,000倍であった。 また、爆心地における爆風圧は350万に達した(1平方メートルあたりの荷重が35トンとなる)。 半径1キロメートル圏でも100万パスカルである。 丈夫な建築以外の建造物は、爆風圧に耐え切れずに全壊した。 半径2キロメートル圏で30万パスカルとなり、この圏内の木造家屋は全壊した(漫画『』のアニメ版ではその様子が描かれており、の天守閣が衝撃波によって爆風の引き起こしたあまりの荷重に耐えられずに崩壊するほか、爆風でレンガ造りの建物の一部が吹き飛ぶなどの様子が映像化されている)。 熱線 [ ] 核分裂で出現した火球の表面温度は数万度に達した。 火球から放出された熱線エネルギーは22兆ジュール(5. 3兆カロリー)である。 熱線はとして、爆発後約3秒間に一挙に放出された。 地表に作用した熱線のエネルギー量は距離の2乗に反比例する。 地表で受けたエネルギーは、爆心地では平方センチあたり100カロリー、500メートル圏で56カロリー、1キロメートル圏で23カロリーであった。 比較すると、爆心地の地表が受けた熱線は通常のの照射エネルギーの数千倍に相当する。 このような極めて大量の熱量が短期間に照射される特徴から、されず、照射を受けた表面は直ちに高温となった。 放射線 [ ] 核分裂反応により大量の・・・が生成され、地表には透過力の強いガンマ線と中性子線が到達した。 地表では中性子線により物質がされ、誘導放射能が生成された。 爆心地の地表に到達した放射線は、1平方センチあたりが1兆2千億個、が9兆個と推定されている。 原爆投下後、広島赤十字病院の地下に残っていた未使用のが放射線によって全て感光していたため、広島へ落とされた新型の爆弾は原爆と決定付けるものとなった。 黒い雨・二次被爆 [ ] 原爆の炸裂の高熱により巨大な(原子雲)が生じた。 これは爆発による高熱で発生した上昇気流によって巻き上げられた地上の粉塵が上空で拡散したため、特徴的な形になったものとされる。 キノコ雲の到達高度は従来約8,000メートルだとされてきたが、米軍機が撮影した写真を基に測定したところ、実に2倍の約16,000メートルに達していたことが判明した。 低高度爆発であったためにキノコ雲は地表に接し、爆心地に強烈な誘導放射能をもたらした。 熱気は上空で冷やされとなった。 この雨は大量の粉塵・煙を含んでおり、粘り気のある真っ黒な大粒の雨であった。 この雨をという。 この雨はを含んでいたため、雨を浴びた者をさせ、土壌や建築物および河川などを放射能で汚染した。 当日、広島市上空には南東の風が吹いていたため、キノコ雲は徐々に北北西へ移動し、やがて崩壊、日本海方面へ流れていった。 戦後の調査研究で、黒い雨の他、広範囲に放射性の黒い灰状の粉塵が6日15時頃まで降り、郊外にまで広範に放射能汚染をもたらしていたことが判明している。 なお、放射性核分裂生成物、核爆発時に生じた大量の中性子線による誘導放射能などにより被曝した者を「二次被爆者」という。 上述、郊外の黒い雨による放射線被曝者も二次被爆者になる。 原爆投下後、被爆者の救援活動などのため、広島市外より広島市に入市し、誘導放射能などにより被曝した者を「入市被ばく者」という。 規定では、原爆投下後2週間以内に爆心より約2キロ以内の区域に立ち入った者が入市被ばく者とされている。 原爆投下当日、爆心地へ入り数時間滞在した者は約0. 2シーベルト、翌日に入った者は約0. 1シーベルトの被曝をした。 その他、被災地域より避難してきた被爆者の放射能汚染された衣類や頭髪に触れて被曝した者も多くいた。 当時は放射能や放射線の性質、その危険性を知る者が、物理学者やごく一部の軍関係者、医療関係者程度であったことが影響した。 詳細は「」を参照 短期的影響 [ ] 熱傷 [ ] 原爆の熱線には強烈な・・が含まれており、約600メートル離れたところでも(瓦の表面が溶けて泡状になるという現象から)2,000度以上に達したと見られる。 爆心地から1キロメートル以内では5度の重いを生じ表皮は炭化し、皮膚は剥がれて垂れ下がった(表皮の水分が気化・膨張したことによるもので、アメリカ側はこの現象を ()(フラッシュバーン、Flash burn)と名付けた )。 熱線による被害は3. 5キロメートルの距離にまで及んだ。 また熱線にて発火した家屋の火災による第2次熱傷を受けた者もいた。 爆心地から1キロメートル以内で屋外被爆した者は重い熱傷のため、7日間で90パーセント以上が死亡している。 爆心から20キロメートル離れた呉の海軍基地や可部地区や大野地区では、戸外に出ていた人は熱傷を負わずとも、「熱い」と感じている。 外傷 [ ] 原爆の爆風により破壊された建物のや建材などが状となり全身に突き刺さって重傷を負う者が多数出た。 戦後何十年も経過した後に体内からこのときのガラス片が見つかるといった例もあった。 爆風により人間自体が吹き飛ばされて構造物などに叩きつけられ全身的な打撲傷を負ったり、急激な気圧の変化や体への強い衝撃によりやが体外に飛び出すといった状態を呈した者もいた。 さらに熱線を浴びた体に爆風を受けたことで、火傷の部位を引き剥がされ致命的な傷につながった。 このような全身的な被害を受けた者は大半が死亡した。 放射能症 [ ] 爆心地における量は、103(ガンマ線)、141シーベルト(中性子線)、また爆心地500メートル地点では、28シーベルト(ガンマ線)、31. 5シーベルト(中性子線)と推定されている。 また、爆心地から1. 25~1. 5kmの距離で発見された被爆者の顎の骨からは推定で9. 46シーベルトの放射線が検出されている。 すなわち、この圏内の被爆者は致死量の放射線を浴びており、即死(即日死)ないしは1カ月以内に大半が死亡した。 また爆心地5キロメートル以内で放射線を浴びた被爆者は急性放射線症を発症した。 「」を参照 急性放射線症では、細胞分裂の周期が短いよりなる・・が傷害を受けやすい。 症状は、悪心・・食思不振・・から始まる。 さらに被爆から2週間後頃に放射能症に特徴的なが始まる。 20日過ぎ頃より皮下出血斑(点状出血)、病巣を生じる。 大量の放射線により・リンパ腺が破壊され、・の減少など血液障害を起こす。 6シーベルト以上の放射線を浴びた被爆者は、腸管障害(組織の破壊により消化吸収不能となる)により、1カ月以内に大半が死亡した。 長期的影響 [ ] 肉体的影響 [ ] 熱傷・ケロイド [ ] 爆心地から2キロメートル以内で被爆した者は高度から中度の熱傷が生じたが、2キロメートル以遠で被爆した者は軽度の熱傷にとどまり、治癒に要した期間も短かった。 しかし、3 - 4カ月経過後、熱傷を受けて一旦平癒した部分に異変が生じ始めた。 熱傷部の組織の自己修復が過剰に起こり、不規則に皮膚面が隆起しを生じた。 放射線症 [ ] 大量の放射線を浴びた被爆者は、高確率でを発症した。 なお被爆者の発症のピークは1951年、1952年であり、その後は徐々に下がっている。 広島の被爆者ではが多く、白血病発症率は被曝線量にほぼ比例している。 また若年被爆者ほど発症時期が早かった。 発症すると、白血球が異常に増加し、逆になどの他のが減少して障害を招く。 さらに白血球の機能も失っていく。 1950年代、白血病は治療法のない代表的な不治の病の一つであり、発症者の多くが命を落とした。 のモデルとなったは、12歳で白血病のために亡くなっている。 以降は癌の発症が増加した。 ではなく、繰り返して多臓器にを発症する例がしばしば見られる。 これら被爆者の遺伝子には異常が見られることが多い。 放射線などにより回復不能にまで損傷を受けたは、を介し、癌の発病を招くこともあるため、これら被爆者が「原爆により癌を発症した」と主張することも理に適っている。 精神的影響 [ ] 心的外傷後ストレス障害など [ ] を分析した結果によると、被爆者の3人に1人が罪の意識(自分だけが助かった、他者を助けられなかった、水を求めている人に応えて挙げられなかった、など)を持っていることが判明している(一橋大石田による調査)。 (参照:、) 精神的影響は、原爆によって直接もたらされた、サバイバーズ・ギルト、心的外傷後ストレス障害だけではない。 戦後のによる原爆報道統制が日本国民の間に「被爆者差別」を生み、被爆者はこれにも長く苦しむことになった。 すなわち原爆、放射能、放射線に関する情報不足より、日本国民の間に「被爆者差別」が生まれた。 戦後しばらくの間、新聞・雑誌などにおいても被爆者は「放射能をうつす存在」あるいは重い火傷の跡から「奇異の対象」などとして扱われることがあり、被爆者に対する偏見・差別は多くあった。 これらは被爆者の生活に深刻な影響を与えた。 昭和30年代、例えば他の都道府県で就職の際、「広島出身」と申告すると「ピカ(原爆)を受けたのか」と聞かれるのは常であり、被爆の事実を申告したら、仕事に就けないことが多くあった。 このため少なからず被爆者は自身が被爆した事実を隠して暮らさざるを得なくなり、精神的に永く苦しめられることになった。 原爆のことを「ピカドン」とも言うが、転じて「ピカ」は被爆者を示す差別語ともなっていた。 被爆者差別の存在やその実態については、従来、一部で問題とされていたのみで、広く公にされることはなかったが、ついにに(NHK)は、その原因を、「戦後のGHQによる言論統制を受けた報道機関が、正しく原爆に関する報道を行わなかったため、当時、日本国民の間で放射能・放射線の知識が一般的でなかったことと相まり、国民の間に誤った認識が広く蔓延したためである」と分析、過去に存在した被爆者差別とその実態について発表した ただし、連合国軍の占領が終わった後も、NHKを含む報道機関が原爆について決して正しい報道だけを行っていたわけではない上に、これらの報道機関はそのことについて自己批判や謝罪をしたことはない。 なおその1年前、の記者であった(秋信は、昭和天皇に原爆について質問した記者である)は、当時の被爆者差別や被爆者の報道機関に対する強い反感と反発の実態について証言している。 多くの被爆者個人が公に自身の被爆体験を語り始めたのは、おおむね、被爆者差別の軽減以降である。 その主要因は、放射線による病気への不安と、差別・偏見体験である。 次世代への影響 [ ] 胎内被爆 [ ] 母親の胎内で被爆することを胎内被爆という。 胎内被爆により、 ()を発症する者がいた。 小頭症とは同年齢者の標準より頭囲が2倍以上小さい場合を言う。 脳の発育遅延を伴う。 諸説あるが、被爆時に胎齢3週 - 17週の胎内被爆者に多く発症した。 脳のみならず、身体にも発育遅延が認められ、これらが致命的であるものは、成人前に死亡した。 被爆二世の白血病高発症率 [ ] 「公式見解」では被爆二世、被爆三世については、永年にわたり健康への影響、すなわち遺伝的影響はないとされてきた。 は2007年に、被爆二世への遺伝的な影響は、死産や奇形、染色体異常の頻度、生活習慣病を含め認められないと発表した。 一方で、日本国政府などの公式見解となる放射線影響研究所などの発表には以前より疑問の声が多くあり、各大学などでの調査・研究が続けられていた。 2012年6月3日、で開催された第53回原子爆弾後障害研究会、のらによる「広島原爆被爆者の子どもにおける白血病発生について」の研究結果発表では、広島大学原爆放射線医科学研究所研究グループの長期調査結果報告において、被爆二世の白血病発症率が高く、特に両親共に被爆者の場合に白血病発症率が高いことが、50年に渡る緻密な臨床統計結果より示され、少なくとも被爆二世については遺伝的な影響を否定できないと結論付けた。 鎌田は「これでようやく端緒についた。 」と語っている。 その後の広島 [ ] 2016年G7広島外相会合において原爆ドームを見るアメリカのジョン・ケリー国務長官との外相。 終戦まで [ ]• - 未明にがを破棄し、日本へする前にへ侵略を開始する。 11時2分、、数万人が死亡した。 これは広島に投下されたウラニウム型とは異なる型()であった。 またこの日、市内線の一部区間が運行を再開している。 - 大阪から来たカメラマンが被爆の惨状を撮影する。 - において受諾が決定され、日本政府はスイス政府を仲介してに受諾を伝える。 - 終戦の詔勅()。 国民への終戦の告知。 放送の中で原爆について取り上げ、非人道的行為として非難している。 - 死去。 医学上認定された史上初の患者。 - 日系人ジャーナリストのが8月22日来広、8月27日付東京発として世界で初めて被爆の惨状を外電報道(もあわせて参照)。 - アメリカ軍やを中心とする連合国軍の上陸開始。 8月28日 - 終戦と支配により全軍武装解除、将兵の復員が開始された。 広島の被爆者救護を担ってきた暁部隊も解体し、救護活動は自治体に移管された。 しかし戦時災害保護法(1942年制定)の規定により救護期限は2カ月と定められていたため、10月上旬に救護所は閉鎖されてしまう。 - 各国政府代表がに調印。 が終了()。 戦後 [ ]• 9月上旬 - アメリカ軍が広島を含めた中国四国地方の占領業務を開始。 - アメリカによる原爆災害調査が開始された。 活動は発足の(ABCC)の母体、また後のとなる。 - 派遣のカメラマンが被害の様子を撮影する。 9月19日 - GHQ-SCAPより発令。 原爆被害に関する報道は禁止される。 9月下旬 - により原爆被害の撮影が開始される。 撮影は中途からアメリカ軍の管理下となる。 映像は(21年)に" The Effects of the Atomic Bomb on Hiroshima and Nagasaki"として完成後、フィルムをアメリカ軍に没収された。 - 被爆で壊滅状態の広島を(昭和の三大台風の一つ)が襲った。 広島県の死者・行方不明者合計は2,000名を超える大惨事となっている。 詳細は「」を参照• - 広島市復興局が開設。 しかし資金難により復興進まず。 - (BCOF)が、広島を含めた中国四国地方の占領業務をアメリカ軍から引き継ぐ。 - 広島流川教会の牧師が渡米。 15カ月間に渡り31州256都市で広島の惨状を訴える講演活動を行う。 8月6日 - が制定。 復興への前進となる。 9月 - 広島市中央公民館に原爆参考資料陳列室が設置され、原爆瓦などの展示が始められる。 - 広島原爆傷害者更生会結成。 同年11月に100メートルの道路がと名付けられる。 この時点では単なる荒野状態だった。 - が締結される。 - 日本国との平和条約が発効され、米英を中心とした連合国による日本の占領任務は終了した。 8月6日 - これまで判明した57,902人分のが初めて奉納される。 - 爆心地周辺がとして整備。 - アメリカがナム島で水爆実験「」を行い、日本の漁船等が被曝した。 原水爆禁止運動が起こる。 - が開設。 第1回原水爆禁止世界大会開催。 原爆乙女らが最長1年半に渡り滞米、においての治療を受ける。 - 日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)結成。 援護法要望運動の開始。 - 原爆被爆者の医療等に関する法律(原爆医療法)が制定されたが、極めて限定的な内容。 - 広島復興大博覧会が開催される。 1958年 - 原爆症で死亡したをモデルにしたが平和記念公園内に完成。 、原爆医療法の改正。 、が「原爆投下は当時の国際法に違反する」旨の判決。 、原爆被爆者に対する特別措置に関する法律(被爆者特別措置法)が制定。 - が記者会見で「この、原子爆弾が、投下されたことに対しては、遺憾には思ってますが、こういう、戦争中であることですから、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと、わたくしは思ってます」と述べた。 - 代表が広島平和記念公園で花輪を贈呈、が原爆投下を「の暴行」として批判した。 - でのリスト登録を求める意見書が採択。 - 原爆ドームの世界遺産化をすすめる会が発足。 全国で165万人の署名を集め、国会請願を行う。 - 被爆者念願のが戦後50年でようやく制定。 - 原爆ドームが文化財保護法の国の史跡に指定される。 - 原爆ドームがとしてのに登録。 - 爆心地に近いの校舎の建て替え工事に当たる壁の検査をしていた時、壁が剥がれ落ち、そこに文字が発見された。 それは被爆後、この校舎はで立てられていたため校舎は焼け残り、被爆して怪我をした人の救援所になっており、そこにこの学校のがの安否を調べるために壁にで伝言を書いたものだったと調査で分かった。 - 被爆者を追悼するが開館。 11月1日 - エノラ・ゲイの機長だったが死去。 8月6日 - 平和祈念式典に初めてアメリカ公式代表()が参列(献花なし)。 大使館を通じて「未来のため、核兵器廃絶に向けて努力する」旨のコメントが出された。 8月6日 - 広島市長(広島市公式見解)は平和宣言において、初めて核兵器を「絶対悪」と断じた。 また併せて核の平和利用における事故と原爆被害との「混同」を否定、国民の暮らしと安全を最優先にした責任ある国のエネルギー政策を早期に構築し、実行することを求めた。 7月28日 - 原爆投下時のエノラ・ゲイの乗組員で最後の生き残りであった航空士のが死去した。 2016年4月10日 - 広島外相会合において、国務長官がアメリカの現役閣僚として初の訪問となった。 2016年5月27日 - 原爆を投下した唯一の核兵器使用国の国家元首として、大統領がし献花。 現職のアメリカ大統領が被爆地へ訪れることは初の出来事である。 また、首相と共同平和宣言を行った。 『』 監督作品 特記 [ ] のは、広島市上空をで飛行中に原爆投下に遭遇し、上空から『原爆投下』を目撃した唯一の日本人となった。 本田は2012年8月14日に公開されたのインタビュー で、「戦後エノラゲイのパイロットが自分の機体に一機の戦闘機が向かってきたと言う証言をしたがそれは本田なのか」という質問に対し、「エノラゲイ見てませんですしですね、私、空中から爆弾を落としたとは思ってないんですよ。 下から爆発して」と答えた。 上皇は(6月23日)・広島原爆の日(8月6日)・の日(8月9日)・(8月15日)を「忘れてはならない日」として挙げ、ホームページには「忘れてはならない4つの日」として掲載されている。 脚注 [ ] 注釈 [ ]• ヴィクターナンバー 82。 現在のテニアン島に当たる• この7分後に広島では空襲警報が発令されている。 (この迎撃の背景情報)日本軍戦闘機は高高度性能に劣り、や与圧キャビンを装備してを飛行する「空の要塞」B-29に対して戦闘機動を行うのは極めて困難であった。 エノラ・ゲイ号に関しては尾部砲塔以外の防御火器を廃止して9,000ポンドの原爆を搭載しており、鈍重で無防備な状態だった。 このため、低空飛行では日本軍戦闘機や高射砲により撃墜される危険が大きかった。 [ ]の部分は不詳。 投下目標の気象報告の方法については、第20航空軍の野戦命令13号に明記されている。 原爆の第一報を伝えた新聞の見出しでも『落下傘付き』とあり、新型爆弾(原爆)は一発でなく少数の爆弾の投下による被害と報じられている(参照1945年8月8日付)。 また戦後発表された原爆を題材とした作品においても原爆に落下傘をつけて投下している描写があり(『』など)、多くの人に誤解を招いていた。 厳密な爆発時刻に関する注釈。 広島市および日本では、投下時刻である午前8時15分を原爆の爆発時刻として採用している。 一方、米軍資料では投下された原爆が落下した後に炸裂した同16分を公式な爆発時刻としており、日本以外ではこの時刻が採用されていることも多い。 また、は自著において、「8時6分説」を主張している。 原子爆弾の爆発高度・位置の注釈。 2002年の放射線影響研究所の調査で、上空600メートル・島病院の南西側とされた。 それまで利用されてきた被曝線量を推知するために用いられていた「DS86」(1969年制定)では、爆発高度580m・島病院の南東側で爆発したとされていたが、「DS86」算出当時に用いられた米軍地図にゆがみ・ずれがあったことから見直された。 戦争末期の当時は成年男子の多くが徴兵されたため、路面電車の運転手を女学生も勤めていた。 もあわせて参照。 「から被爆直後に「大阪さん、大阪さん」とに向けて助けを求めるラジオ放送を聞いた」という証言が多数あった。 原放送所の放送設備は無事であり、原放送所には予備演奏所、自家発電設備が設けられていたこと、当時は技術員等の常駐する有人放送所であったことから、放送そのものは被爆直後からでも可能であった。 この証言については、放送のによって詳細なが以下の書籍にまとめられている。 これは2013年、事実であったことが、従事した技手(番組制作技術者=現在のラジオミキシングエンジニア)森川寛の日記「兎糞録」より明らかになった。 森川は中波と短波の両放送波、さらに大阪打合線(局間連絡電話)で大阪放送局を呼んでいた。 このとき打合線で応答したのは岡山放送局であった(局間連絡電話はいわゆる同報電話であり、当時から一つの回線に複数の放送局が並列につながれていた。 当時は東京と大阪に現在でいうところのキー局がそれぞれ設けられており、大阪から西の局、東京から東の局がそれぞれ一つの回線につながれており、したがって大阪打合線で岡山放送局が広島放送局の呼びかけに対して応答できた)。 すなわち局間連絡電話は生きており、森川は概ねの被害状況を伝達、併せて救援を要請、岡山放送局より大阪放送局に情報をリレー、大阪からの短波放送を依頼していた。 一般に聴取されたのはこのうちの中波放送である。 「兎糞録」は広島原爆資料館に寄贈されている• 現在も当時の放送鉄塔が現役で使われ続けている。 郊外といえどもかなりの爆風を受けたが、風圧抵抗の少ないスケルトン型、支線式であるため、倒壊を免れた。 「NHK広島放送局の歴史」より。 通報の内容は記憶によるため、伝聞により揺らぎがある。 また中村敏がどうやって岡山支社に第一報を入れたのか、永らく謎であったが(当時、記者の利用できる一般電話回線は南回り、すなわち広島市中心部を経由しており壊滅状態、原放送所にある一般電話からの連絡はできなかったはずであるため)2013年、上流川町の演奏所で生き残った技手、森川寛が原爆投下直後、炎をかいくぐりながら直ちに原放送所に移動し、局間連絡線で岡山放送局との連絡に成功していたことが明らかになった(局間連絡線は専用線である。 この専用線は対戦用に軍用電話回線と同じルート、特別の北まわりとしてあり、近隣各県に通じていた。 広島の場合、戦後も永らく専用線はこの北回り回線が使用された)ことから、同盟通信社岡山支社に第一報が送られたことが裏付けられた。 また第一報は当日昼過ぎに大本営に上がっており、16時の説と永らく矛盾していたが、森川寛の日記より、第一報と救援要請は森川の原放送所到着直後、すなわち当日の午前中に発せられ、岡山放送局でリレーされて大阪放送局に届けられ、大阪放送局より短波で放送されていたことが明らかになり、東京の大本営は、昼過ぎには複数のルートでかなり正確な内容の第一報を受け取ることが可能であったことが分かった。 報道の前半は通例全国中継であり、広島空襲のニュースも全国中継された可能性があるが、東京などでこれを聞いたという記録は見つかっていない。 の博士をはじめとする頓挫した計画「ニ号研究」のスタッフらを含んだ原子物理学の専門家集団であった。 原爆報道は戦後になってによって禁止されたのであるが、被爆直後の広島からの生々しいルポは、戦時中のを含むにせよ資料的価値は大きいとされる。 ただし、1細胞の生死、異常を本人が認識できない以上、原爆からの放射線こそが決定的な発病要因であるとは言えず、「原爆の後遺障害」の全てを原爆によるものと断定することはできない。 「敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル」• このフィルムは(昭和42年)に米国国立公文書館にコピーが収められた後扱いとなり、映像の断片がさまざまな報道や作品に繰り返し引用されることになる。 その後、この出来事はニュースで取り上げられ、さらにその年の夏、伝言を書いた教師とその児童が54年振りに再会し、話題を盛り上げた。 この壁は、袋町小学校平和記念資料館に保存されている。 この記事は出版の中学2年のの『現代の国語2』に載っている。 出典 [ ]• 大学院コンピューターグラフィック研究室. 2016年12月31日閲覧。 2016年12月31日閲覧。 中国新聞2017年8月4日朝刊30面• , pp. [ ]. , pp. [ ]. , pp. [ ]. , pp. [ ]. , pp. [ ]. , p. 239. , p. 240. 時事ドットコム. 2015年4月30日. の2015年6月19日時点におけるアーカイブ。 2016年12月31日閲覧。 図によると投下地点は目標より2マイル離れた地点の上空となるよう計画されていたことが分かる。 , pp. [ ]. : p. 2002年9月10日• 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ウェンドーヴァーから広島・長崎まで 米軍資料』奥住喜重、工藤洋三訳、、1996年。 『米軍資料 原爆投下報告書 パンプキンと広島・長崎』奥住喜重、工藤洋三、桂哲男訳、東方出版、1993年。 奥住喜重、工藤洋三『ティニアン・ファイルは語る 原爆投下暗号電文集』奥住喜重(自費出版)、2002年。 北山節郎『ピーストーク 日米電波戦争』、1996年。 白井久夫『幻の声 NHK広島8月6日』〈〉、1992年。 『原爆は本当に8時15分に落ちたのか 歴史をわずかに塗り替えようとする力たち』、2001年。 、(編・解説)『真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝』、2007年。 、『チンチン電車と女学生』、2005年。 『資料 マンハッタン計画』山極晃、立花誠逸 編、岡田良之助(訳)、、1993年。 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 ウィキソースに の原文があります。 (・)• ( )• 外部リンク [ ]• (広島平和記念資料館の資料,被爆者の証言をGoogle Earth上にマッピング)• (広島原爆戦災誌をもとに原爆さく裂時の被害を地図上にプロット)• ("The Effects of the Atomic Bomb on Hiroshima and Nagasaki"の映像を元にした作品。 動画あり)• 中国新聞労働組合• - (2019年1月1日アーカイブ分) 肉声による被爆証言• 広島への原子爆弾投下に対するハリートルーマン大統領の声明 子供向け説明 [ ]•

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