ローマ教皇とは簡単に。 ローマ教皇/ローマ法王/教皇

教皇と法王の違い〜教皇と法王の違いを簡単解説

ローマ教皇とは簡単に

みやびんです。 新元号「令和」も決まり、いよいよ4月30日に今上天皇は退位され、5月1日に皇太子様が新天皇に即位されます。 元号は平成から令和となります。 新紙幣も発表されたりと新しいことづくめな時期にこの記事を書いています。 さて、以前の記事で首相と大統領の違いについて調べました。 法律で明文規定がないものの天皇陛下を日本の国家元首として見る根拠を補足しますと。 天皇陛下の世界的地位ランキングとは? 天皇陛下は日本の国家元首です、ですので海外の王、大統領、首相といった国の代表、国家元首と会談することが多々あります。 その際の天皇陛下のお立場、地位は世界的ランキングで如何程なのかを調べてみました。 ランキングの前にまず天皇という名称の語源を調べました。 天皇という名称は「皇帝・天子の敬称」であり、古代中国で最高神、神格化された北極星(天皇大帝)を指す語であるということです。 皇帝発祥の地、古代中国では皇帝は北極星であるとされたので、天皇という敬称はイコール皇帝であるといえるでしょう。 ですので、天皇の英訳は当然、「Emperor エンペラー 」です。 Emperorは皇帝ですが、Emperorが実在する国は現在、日本のみとなります。 そんな皇帝(Emperor)である天皇陛下の世界的地位ランキングはどうなのでしょうか? 下記の表はカナダ政府が発表した外交上の社交序列です。 atwiki. 世界に与える影響力が最も強い人物よりも、天皇陛下は遥かに序列が上なんて、日本人としてとても誇らしいですね! 実際の天皇陛下の世界的地位ランキングは? 天皇陛下の世界的地位ランキングは米大統領、スペイン王より上であると言うことがわかりました。 英訳で「Emperor」である天皇陛下、Emperorは現在、天皇のみしか世界で実在しません。 米大統領よりランキングが上であれば天皇陛下の世界的地位ランキングは「NO1」と考えて良いのでしょうか? しかし、それに関してはもう少し深く考える必要がありそうです。 日本語だとこんな感じです、首相は国家元首ではありませんが一応入れておきました。 であればここでみやびんが気になったのがイギリスのエリザベス女王よりも天皇陛下は世界的地位ランキングが上なのか?という点です。 それに関しては各国、空気を読み合って敬意を払うので、明確には示されていませんが恐らく、「同格」という表現になりそうです。 まず、世界NO1の国力を持つアメリカ大統領が正装をして敬意を払うのが「天皇陛下、イギリス女王、ローマ法王」ということです。 アメリカが大統領より天皇陛下は格上であると認めているということでしょう。 イギリス女王は現在はエリザベス女王です、イギリス王室は皇帝、つまり「Emperor」ではなく「king・Queen 」なのに「Emperor」である天皇陛下と同格というのはおかしくないかとも感じてしまいました。 ローマ法王も皇帝レベルと格というのも日本人にはイメージしにくいのではないかと思います。 その辺りどうなのでしょうか。 スポンサーリンク イギリス王室と天皇家の世界的地位 結論から言うと同格の扱いかと思われます。 また、日本、イギリス両国互いに敬意を示すのでどちらが上という話にはならないでしょう。 イギリス王室は皇帝(Emperor)という名称を使いませんでしたが19世紀には世界一の領土を誇った、「大英帝国」の統治者であったのがイギリス王室ですので、皇帝と同格と考えてよいでしょう。 また、イギリスは連合王国です、イギリス王室の「king・Queen」は一般的な王より格上であるともされているそうです。 ですので、天皇陛下とエリザベス女王の世界的地位ランキングは両国互いに敬意を示しながら「同格」と考えるのが妥当だと思います。 ローマ法王と天皇家の世界的地位 キリスト教の国ではない日本人には、ローマ法王は日本人にはあまり馴染みのない方となりますよね。 キリスト教の偉い人といったところでしょうか。 しかし中世の時代、ヨーロッパでローマ法王は絶対的な権力を持っていました。 ヨーロッパ各国の王はローマ法王から指名されて王座に付く形でしたので、もし、ローマ法王を怒らせ、キリスト教を破門でもされれば三日三晩雪の中で断食をして謝罪をする王も出たほどです。 ローマ帝国皇帝や、かのフランス皇帝ナポレオン・ボナパルトもローマ法王とは壮絶な権力闘争があったそうです。 ですのでローマ法王は間違いなく、各国の一般的な王より格上となり、権威は皇帝クラスです。 ちなみにローマ法王はローマ教皇という敬称も持っていますので、天皇家で例えると「法皇」格とも言えますね。 結論、ローマ法王は天皇陛下、イギリス王室と「同格」と考えるのが妥当でしょう。 まとめ 天皇陛下の世界的地位ランキングを調べて、簡単にわかりやすく解説してみました。 天皇陛下は国家元首であり、「Emperor」ですので、各国の大統領はもちろんのこと、各国の王よりも世界的地位ランキングが上とわかりました。 ただ、「イギリス王室」と「ローマ法王」とは同格の扱いなのではないかなと感じました。 ただ、各国そこはどちらが上というのは言わず、お互いに敬意を示すしているという感じと捉えて良いでしょう。 どちらにせよ、天皇陛下は世界中の国から敬意を示されている存在ということで、とても世界的地位ランキングTOPということがわかりました。

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ローマ教皇とは?簡単に分かりやすくご紹介!教皇と法王の違いってなに?|ミドルエイジの自分探し

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この項目では、カトリック教会の最高指導者について説明しています。 教皇のその他の用法については「」をご覧ください。 一般的にはカトリック教会のにして全世界のカトリック教徒の精神的である ローマ教皇を指す。 教皇のは「教皇位」あるいは「教皇座」と呼ばれる。 また「」 あるいは「使徒座」 という用語も使われる。 「聖座」と「使徒座」は中世の教会法学者たちによって形成された概念で、第一に教皇を指すが、広義においてはをも指す。 2013年3月からはが教皇を務めている。 では「 ローマ法王」と表記されることも多いが、日本のの中央団体であるは「 ローマ教皇」の表記を推奨しており、日本政府は2019年に「法王」から「教皇」へ呼称の変更を発表した()。 またカトリックの内部では「教父」の呼称を用いる場合もある。 なお、退位した教皇の称号は(名誉法王とも)という。 本項では主に教皇について記述する。 その他の教皇についてはの節を参照。 概説 [ ] 初期のローマ司教たちはの後継者、ペトロの代理者を任じていたが、時代が下って教皇の権威が増すに従って、みずからをもって「の代理者」と評すようになっていった。 「キリストの代理者」という称号が初めて歴史上にあらわれるのはで、ローマの会議において教皇を指して用いられたものがもっとも初期の例である。 これは五大座(ローマ、、、、)の中におけるローマ司教位の優位を示すものとして用いられた。 教皇はカトリック教会全体の首長という宗教的な地位のみならず、ローマ市内にある世界最小の独立国家のというたる地位をも担っている。 のイタリア半島統一以前には教皇の政治的権威の及ぶ領域はさらに広く、と呼ばれていた。 教皇領の成立の根拠とされた「」が偽書であることは以降広く知られていたが、教皇領そのものは統一まで存続した。 1870年以降、とイタリア政府が断絶状態に陥ったため、教皇の政治的位置づけはあやふやであったがに結ばれたによってようやくイタリアとの和解を見た。 現在の教皇は出身の(在位: - )である。 史上初の出身の教皇であり出身の教皇である。 先代の教皇の(在位: - )はドイツ出身であり、先々代の教皇(在位: - )はポーランド出身とイタリア人・イタリア以外の地域の出身の教皇が3代続いている。 それ以前の非イタリア人の教皇の先例は、ともともいえるの、非ヨーロッパ出身の先例は出身のまで遡る。 称号 [ ] 「教皇年鑑」によれば現在、教皇に用いられる公式な称号には以下のようなものがある。 ローマ司教(: Episcopus Romanus)• キリストの代理人(: Vicarius Christi)• 使徒のかしら(頭)の継承者(: Successor principis apostolorum)• 全世界のカトリック教会の統治者(: Caput Universalis Ecclesiae)• イタリア半島の(: Primas Italiae)• ローマ(: Archiepiscopus et metropolitanus provinciae ecclesiasticae Romanae)• バチカン市国の首長(: Princeps sui iuris Civitatis Vaticanae)• 神のしもべ(僕)のしもべ(: Servus Servorum Dei) バチカン年鑑2006年版からは、ローマ教皇の保持していたタイトル「西方の」(: Patriarcha Occidentis)が「不正確で、歴史的にも時代遅れ」との教皇の指示で削除された。 が公式言語であるの正文の中では、教皇は「Romanus Pontifex ロマヌス・ポンティフェクス」(ローマ司教)という名であらわされる。 このような長大な正式名称でよばれる機会はほとんどない。 たとえばなら「Paulus PP. VI」である。 PPは Papa の略である。 また、ローマ時代のから引き継がれた名称である「Pontifex Maximus ポンティフェクス・マクシムス」(最高司祭の意)の略称である「P. 」あるいは「Pont. Max. 」という称号が書き加えられることもある。 などの公式文書には正式に「教皇名、カトリック教会の司教 Episcopus Ecclesiae Catholicae 」と署名される。 文頭にはよく「教皇名、司教にして神のしもべのしもべ Episcopus Servus Servorum Dei 」という署名が書き込まれる。 この形式は大教皇とよばれたにまでさかのぼる古い呼び名である。 そのほかの称号として「summus pontifex」、「sanctissimus pater」(至聖なる父)および「beatissimus pater」(もっとも祝福された父)、「sanctissimus dominus noster」(われらがもっとも聖なる君主)などがある。 中世においては「dominus apostolicus」(使徒的君主)も使われ、現在でもラテン語の荘厳な連祷の中で、その格変化型である「dominum apostolicum」と呼ばれている。 変遷 [ ] 初代教会の時代から一貫してローマ司教が教皇という特別な地位を保持したわけではなく、のローマ到着以降、数世紀をかけて徐々に発達していったということはカトリック教徒も含めて広く受け入れられている。 古代のローマはの首都として初代教会の信徒たちにとっても特別な場所であった。 しかしそのころのローマ司教の権威と影響力はローマの外へおよぶものではなかった。 がごろ、の信徒へあてて書いた手紙にローマ司教の権威に関する言及があり、もごろにローマの信徒へあてて書いた手紙の中でローマ司教の「裁治権」にふれている。 この「裁治権」について、ある者はこれこそが古代からローマ司教が特別な権威を持っていたと考えるものと、単に的なもので実際的な権威はなかったというものがいる。 2世紀(ごろ)になって、が『』3:3:2でローマ教会の首位権について述べている。 そこでは「ローマの教会が特別な起源を有し、真に使徒に由来する伝承を保っていることはすべての教会で認められていることである。 」この記述は史上初めてローマ教会の特別な地位について明確に述べたものであるが、ギリシャなどの東方地域においてはローマの首位は受け入れられていなかったと考えられる。 特にローマ皇帝がローマを離れてコンスタンティノープルに移ったあとでその傾向は顕著となった。 のにおいて教皇が出席を見合わせたのもその地位と権威についてローマ帝国の東西で見解が分かれていたからである。 半世紀後のに着座した大教皇の時代になるとローマ教皇こそが、イエスから使徒ペトロに与えられ、ペトロから代々引き継がれた全教会に及ぶ権威を持っているという見解が公式に唱えられるようになる。 のではレオ1世は使節を通して「自分の声はペトロの声である」と述べた。 当時ローマとコンスタンティノープルどちらかの権威が上なのか議論になっていたが、この公会議の席上、コンスタンティノープル大司教は「コンスタンティノープルは新しいローマ」であるため「名誉ある地位をローマに譲るものである」という声明を出したが、ローマ側から事の判断をうやむやにしているという意見が出て受け入れられなかった。 世俗君主との関係では頃までの主権下にあり、教義問題で皇帝と対立した教皇が逮捕され、流刑に処されるということもあった。 8世紀中ごろが成立し、から離脱した。 カトリック教会では伝統的に教皇の地位と権威がに由来するものであるとしている。 特に重視されるのはの16:18-19のイエスのペトロに対する言葉である。 「シモン・バル・ヨナ。 お前は祝福されたものだ。 このことは血と肉によってでなく天におられる父によって示されている。 わたしは言う、おまえは岩(ペトロ)である。 この岩の上に私の教会をたてよう。 死の力もこれに勝つことはできない。 わたしは天の国の鍵を授ける。 あなたが地上でつなぐものは天でもつながれ、地上で解くものは天でも解かれるのである。 」 この箇所から「天国の鍵」のデザインが教皇の紋章に取り入れられている。 ただし、この聖書箇所については、教皇権の根拠とするこのようなローマ・カトリック教会における解釈は、、では受け入れられていない。 継承 [ ] 選出 [ ] 詳細は「」を参照 古代から中世の初期にかけて教皇はローマ周辺に住む聖職者によって選ばれていた。 に選挙権がに限定され、に入ってすべての票の権利が同等とされた。 教皇は枢機卿団から選出される。 教皇に選ばれるための条件は、(聖職者でなくてもよく)男子のカトリック信徒ということしかなかったので、司教でない聖職者が教皇に選ばれると、教皇位に着く前に枢機卿団の前で司教叙階を受けることになっていた。 教皇選出時に枢機卿でなかった最後の教皇は、に選ばれた教皇である。 現行の教会法では80歳未満の枢機卿から選出されることになっているため、そのような事態は起こらない。 のでは、教皇選挙のシステムが規定された。 それによれば教皇の死後、10日以内に枢機卿団が会合を開き、次の教皇が選出されるまでその場を離れないことが定められた。 これはの教皇の死後の混乱から、3年にわたる教皇の不在()が続いたことを受けて定められたものであった。 16世紀半ばまでには教皇選挙のシステムは、ほぼ現代のものに近いものになった。 教皇選挙の唯一の方法は、枢機卿団による投票である。 伝統的な教皇選出法としては「満場一致により決定する方法」、「司祭団の代表たちによって教皇を決定する方法」、そして「投票によって教皇を決定する方法」の三つがあった。 満場一致の方法というのは、選挙者たちが新教皇の名前を叫び、それが完全に一致した場合に、その決定を有効とする方法であるが以降用いられたことはなく、によって「代表たちによる方法」と共に廃止された。 以前、教皇選挙がおわると新教皇を中心としてからへ壮麗な行列を行うことが慣例とされていた。 そして大聖堂につくと教皇はを受け、教皇としての最初の祝福()を与える。 続いて教皇の前で飾り立てられたトーチに火をともし、すぐにそれを消して「シク・トランジト・グローリア・ムンディ」(この世の栄華はかくもむなしく消え去る)という訓戒を与え、教皇が(かつて「に対抗する誓い」とよばれた)教皇宣誓を行うというのが伝統的な教皇着座の流れであった。 しかし、以降、この種の古めかしい儀式は、教皇の就任時に行われていない。 ラテン語の「セーデ・ヴァカンテ」(使徒座空位)という言葉は教皇不在(通常は教皇の死去から次の教皇の選出まで)の状態を指す言葉である。 この言葉から「使徒座空位主義者」と呼ばれる人々の呼称が生まれた。 この人々は現代に至る数代の教皇たちは不当にその地位についていると考え、カトリック教会から離れている。 彼らから見れば現在の状態は「使徒座空位」であるということになる。 彼らがこのように唱える最大の理由は第2バチカン公会議以降の改革が受け入れられないことにある。 特にと呼ばれる伝統的なラテン語ミサが現代化の流れに沿って各国語で行われるようになったことが不満なのである。 このため、特に第2バチカン公会議以降、複数の自称教皇()が現れている。 死去 [ ] 現在、教皇の不在時()における対応を定めているのはのによる教皇文書『ウニベルシ・ドミニチ・グレギス』である。 それによれば教皇不在時にはを中心に枢機卿団が集団指導制によってバチカン市国とカトリック教会全体を指導する。 しかしでは教皇不在時になんらかの重大な決定や変更を枢機卿団だけで行うことは禁止されている。 教皇の承認を必要とする決定は新教皇の着座まで保留される。 教皇の死の確認に関しては、首席枢機卿が教皇の本名を三度呼び、銀のハンマーで額を三度たたくという方法によるとされていたが、あまりに時代錯誤であると批判の対象になっていた。 但しこの半世紀の間、実際にこの方法が用いられたことは無いとされ、医師による科学的知見に基づいた死が確認された後に「伝統的な儀式」として行われ、この時点で首席枢機卿が教皇の右手から「」を外す。 の場合は、晩年になって自ら指輪をはずしていたが、通常は教皇の死去時に指輪がはずされる。 指輪には教皇の印章が彫られているため、悪用を防ぐために破壊されることになっている。 教皇の遺体はすぐ埋葬されず、数日間聖堂などに安置される。 20世紀の教皇たちはみなサン・ピエトロ大聖堂に安置されてきた。 教皇庁は埋葬後、九日間の喪に服すことになる。 これをラテン語で「ノヴェム・ディアリス」という。 辞任 [ ] 「」も参照 332条第二項によれば、教皇が辞任(退位)するために必要な条件はあくまで自発的な辞任であることと、定められた手続きを守ることである。 ヨハネ・パウロ2世までは事実上の終身制となっており 、教皇の自発的辞任は直近で600年ほど例がなかった。 しかしベネディクト16世は2013年2月11日、高齢を理由として2013年2月28日午後8時をもって辞任すると宣言し、そのまま辞任が成立した。 辞任後の教皇は名誉教皇(Pope emeritus)と呼ばれの尊称も維持される。 辞任後は死去時同様であるが、服喪がないことが大きな違いである。 ベネディクト16世は辞任前に規定を追加し、全有権枢機卿がそろっていれば、コンクラーヴェ開始の前倒しを可能とした(もちろん会場であるシスティーナ礼拝堂の準備が整っている必要があるが)。 なお、2002年6月と7月の二度にわたってヨハネ・パウロ2世が教会法にもとづいての辞任を検討していたことがイタリアのメディアによって報道されたことがある。 ヨハネ・パウロ2世の遺言でも2000年に80歳の誕生日を迎えたことを節目に真剣に辞任を検討していたと報じられているが、定かではない。 ヨハネ・パウロ2世は晩年、さまざまな病で苦しみ、職務を果たせないと考えていたようではあるが、最終的に2005年4月2日の死まで教皇職にとどまることとなった。 シンボルと徽章 [ ] ( 、 ()(Cross keys(交差する金の鍵と銀の鍵)) Triregnum はここ数代の教皇たちは用いていない(取り止められたのは中頃から)が、古代以来ローマ教皇のシンボルとなっている。 教皇は典礼儀式の中では司教のしるしである(司教帽)をかぶっている。 十字架のついた杖も13世紀以前から用いられている。 また(幅二インチほどの布製の輪)がカズラの上に着用される。 金と銀の二つの鍵が交差する形で描かれる天国の鍵も教皇のシンボルとして用いられている。 そのうちの銀の鍵は現世的な権威を、金の鍵は宗教的な権威を示している。 漁師だったペトロにちなんで「漁師の指輪」と呼ばれる金の指輪も教皇によって用いられている。 また、ウンブラクルム unbracullum として知られる教皇用の赤と金の線が入ったの図柄も用いられることがある。 古代以来、長きにわたって教皇のシンボルとして用いられたものにがある。 みこしのような土台に教皇の椅子が備え付けられ、12人の従者によって運ばれる。 さらに二人のもちが付き添ってあおぐのが慣例であった。 教皇用輿はあまりに前時代的であるということでヨハネ・パウロ1世も使用を嫌がったが、ヨハネ・パウロ2世によって正式に廃止された。 ヨハネ・パウロ2世は移動用に教皇用オープンカー()を初めて用いた。 教皇はまた独自の紋章を持っている。 図柄は歴代の各教皇毎にそれぞれ違うが基本的な構成はほぼ同じであり、交差して組まれた金と銀の鍵、三重冠、赤い組紐は必ず描かれてきた。 とされているのは黄色と白の旗であり、教皇の三重冠がそこにも描かれている。 この旗がはじめて現れたのはのことであり、それ以前、教皇庁は聖座の色である赤と金の旗を使っていた。 装備品 詳細は「」を参照• () - 肩掛け• () - 帯• papal mantle - ()(マント)• () - 杖• 「」(、漁夫の指輪とも)• - 靴 地位と権威 [ ] 教皇は、カトリック教会の長(聖座)として宗教上の権威と、バチカン市国の国家元首として国際法上の権威の両方を保持している。 数百年の長きにわたり、(ローマの聖座)はカトリック教会の枢要機関として機能してきた。 「 」 Sancta Sedes あるいは「使徒座」という言い方は、教会用語でローマ教皇(と教皇庁全体)の特別な権威を示すものである。 歴史上、ローマ教皇座以外では例外的に座についても「聖座」の称号が用いられたが、1802年に大司教の位を廃されて以降のマインツ司教は特別な権威を失い、現在ではこのような呼び方は一般的ではない。 国際社会とカトリック教会の中で認められてきた教皇の特別な権威・栄誉・特権は、すべて使徒の頭ペトロの権威から引き継がれたものとみなされてきた。 ペトロの権威によってローマはカトリック教会の中で中心的な位置を占めることになった。 ローマ教皇はあくまでローマ司教としてその権威を行使するが、ローマに住むことが必須というわけではない。 ラテン語の定式「Ubi Papa, ibi Curia」(教皇が住むところは、どこでも教会の中央政府である)という言い方は、教皇がカトリック教会の中心都市に住む限りローマ司教であり続けることができることを示している。 たとえばからにかけて教皇座はにおかれていた()が、これはの故事になぞらえて「教会の」あるいは「」とよばれた。 現在の教皇の司教座聖堂はであり、公邸はである。 また避暑用の別荘として(古代の都市の近く)に別荘を持っている。 歴史上では、教皇は長きにわたってを在所としており、避暑用の施設はであった。 クイリナーレ宮殿はその後、イタリア王の宮殿を経て、大統領公邸になっている。 現在の教皇の地位を規定しているのは()で採択された教義憲章「キリストの教会」である。 同憲章の第一章は「ペトロに由来する使徒的首位性」というタイトルで、「福音書からも、主キリストが使徒ペトロに他の人々に優越する権威を与えたことは明らかである」(第1節)と述べ、さらに「もしペトロがキリストによって使徒のかしらとされ、教会の目にみえるしるしとして立てられたということを認めず、そのイエスからの直接の権威が単に名誉的なものだけで実質的な意味を持たないというものは教会から排斥される。 」としている。 (「~は教会から排斥される」という表現はと呼ばれるもので古代以来、第1バチカン公会議にいたるまで用いられ、カトリック教会が教義について述べた文章に必ず添えられる定型文であった。 ) 第二章「聖座におけるペトロの権威の存続について」では、「主キリストがペトロに与えた権威は永続的なもので、『岩の上にたてられた』教会として存続し、『おわりの時』まで続くものである」と述べ、「ペトロの座を引き継いだものは誰でもキリストに由来する権威を保持し、全教会に対する首位性を有する」とする。 よって「この権威がキリストの意図によるものでなく、ペトロの権威は永遠のものであることを認めないもの、ローマの聖座がペトロの権威を継承していないというものは教会から排斥される」という。 第三章「ローマの聖座の有する首位権の力と性質」では、「においてローマの聖座、使徒座は世界の教会におよぶ首位性を持ち、ローマの聖座が使徒の長、キリストの代理であるペトロの権威を引き継ぎ、全教会の父・教師たる地位を持つ旨が宣言されている」とし、「この聖座の布告にもとづいて、ローマ教会は他の教会に対しても卓越した地位を保持する」としている。 教皇の力は同憲章の3章などに定められている。 それは「信仰の最高の判定者であり、信仰の問題についての決定権を持つ。 すなわち聖座としての決定的な布告は、誰も覆すことができない」というものである。 これは同じ公会議で布告された教皇不可謬性の問題と密接な関連を持っている。 第2バチカン公会議以前のカトリック教会では「救いのためにはローマの聖座とのかかわりが必要である(教皇の言葉)」と伝統的に教えており、この考え方はよく「extra Ecclesiam the popeus salus」(教会の外に救いなし)という言葉で表されてきた。 パウロ6世も「教会の外にいるものは聖霊の恵みを受けられない。 カトリック教会は現代に生きるキリストの体である。 だからこそ、もしそこから離れてしまえば聖霊の恵みを得ることができないのである。 」といっている。 しかし、この考え方はカトリック教会以外の人だけでなく、肝心のカトリック教会の中でも誤解されてきた。 歴代の教皇たちは「カトリック教会の中にいる人々は救いにつながっている」といっている一方で「カトリック教会と縁のない人々が救われないというわけではない」ということをしばしば強調している。 ピウス9世は回勅『クアント・コンフィカムル・モエロール』()でこう述べた、「わたしたちは、われわれの聖なる宗教とかかわりのない人であっても、神によって全ての人の心に書き込まれた自然法に従い、徳に満ちた人生を送るなら、神の力と照らしによって永遠の命に入ることができるということを知っている。 」 ヨハネ・パウロ2世は『レデンプトーリス・ミッシオ』の中で「現代のみならず、過去においても、福音や教会について知る機会がなかった多くの人々がいて、たとえ彼らがまったくキリスト教と関わることがなくても、神秘的な絆によって、キリストの救いを受けてきたことは明らかです。 」といっている。 教皇のものとされ、実際に行使されてきた権能は以下のとおりである。 司教の任命、教区の設立と廃止、教皇庁の職員の任命、教皇庁文書の認可、典礼祭儀の変更、の改定、と、教会裁判の最高決定権、回勅の公布、(信仰と道徳に関する事柄についての)不可謬な宣言、の承認と禁止。 ただ、これらの権能を実際に行うのは教皇庁のメンバーたちであり、実質的に教皇が行うのは最終的な承認を与えることだけである。 政治的役割 [ ] にではキリスト教徒の数が飛躍的に増加したが、が世俗において何らかの権力を獲得することはなかった。 ローマ司教がその信徒に対する影響力によって帝国の行政システムの中で力を与えられるようになっていったのは以降のことである。 教皇が政治的な存在感を初めて見せつけたのはにローマに侵入してきたを教皇が駆け引きのすえに撤退させることに成功したことによってであった。 さらににはの(小ピピン)が領土の一部を教皇に寄進したこと(ピピンの寄進)は、教皇の政治的な影響力が無視できないものになっていたことを示している。 この土地が後のの基礎となった。 には教皇がフランク王国のにローマ皇帝としての王冠を授けている。 ここからのちにとして知られることになる王位の系譜が始まる。 これ以降、が自分自身で王冠をかぶるまで、教皇が王冠を授ける権威を持ち、世俗の王位はカトリック教会によって承認されるものであるという伝統がつくられていく。 先にのべた教皇領はの成立するまで存続した。 教皇領を保持することで、教皇は領土を持つ世俗の君主の一人というだけでなく、全キリスト教徒の長という聖俗にわたる強力な権威を持つことになった。 淫蕩の限りをつくしたことで悪名高いや、軍事的才能を備えて数度の戦役を闘ったなどが政治的な権威を行使した教皇の代表格といえよう。 またで知られるやなどはの影響下において教会改革を志した宗教的な権威者として後代に知られている。 中世の教皇たちは回勅によって政治的な影響力を行使したが、世界史上で特に有名な回勅としての侵攻の根拠となった『ラウダビリテル』()、世界をとで分割するのもととなった『インテル・チェテラス』()、を破門し、家臣の臣従の義務を解いた『』()、を定めた『グラビッシマス』()などがある。 現代のとして、教皇の外国公式訪問の際には、相手国のが教皇の宿泊先に出向いて挨拶を行う。 教皇位をめぐる議論 [ ] カトリック教会内 [ ] の中において「教皇の権威」は教義として宣言されたものである以上、その職務の権威を否定することは認められない。 では「カトリック教会において、裁治権を認めないものは分離される」というアナテマがはっきりと示された(ただ、教皇の地位の厳密な位置づけについて議論することは認められている)。 第1バチカン公会議で採択された・に反対するグループは、を形成した。 詳細は「」を参照 カトリック教会外からの異論 [ ] カトリック教会の外でははっきりとローマ教皇の権威については疑義が示されることがある。 その種の疑義をおおまかにまとめると次のようになる。 ローマ教皇を認めつつも、全世界の司教たちの中における首位権への疑問• 教皇制度そのものへの疑問 は『パーチェム・イン・テリス』において、、、、などの諸教会は「」という概念を共通に持っているため、ローマ司教たる教皇の持つ栄誉ある地位を多かれ少なかれ認めていると述べている(ここでいう「栄誉ある地位」というのは決して首位権とイコールではない)。 しかしこの箇所で言及されている諸は、を除き、ローマ教皇が他の司教を超えるの権威を継承しているということを認めていないし、ペトロがローマに行ったということすら認めないものもある。 教皇の首位権は、司教座としてのローマがの首都であったことにも由来することはの教令第28条でも明示されているため、教皇が全教会に対し教導権を発揮することを認めないのである。 また、彼らは第1バチカン公会議をとして認めておらず、結果的にそこで採択された教皇不可謬に関する宣言も無効である。 にとっては「使徒座の継承」という考え方すら受け入れがたいものである。 このような人々から見れば、名誉的なものであれ、教会裁治権上のものであれ、聖書に書かれていない以上、ペトロの首位権というものはありえない。 また教皇権がやなどの世俗の権力と複雑にかかわってきたことや、統一成立時の接収のあと長く続いた政府との確執などが教皇権というものへの歴史的な疑問点となっている。 西欧においては教皇権のありかたに対する不満がへいたるひとつの底流となった。 カトリック教会から離れた教派においては教皇の地位についての見解はさまざまで、単に全教会に対する統治権を認めないものから、に現れるであると言う極端なものまである。 ほかに出身のやのような堕落した教皇の例をあげて、堕落した人間がこのような権威を持っていたことに疑問符をつけるものもある。 そのような批判者によれば全智全能の神が、このような堕落した人間に聖なる権威を与えるはずがなく、「堕落した教皇」というものの存在することこそ教皇位が神の意思に由来するものでないことの証左であるという。 これに対する反論としては、神が堕落した人間にすら大きな地位を与えることがあることの証明として、の王たちや、使徒の一人でありながらイエスを裏切ったをあげる意見もある。 またどれほど堕落した教皇であっても教皇制度そのものが消滅しなかったことを教皇権が神に守られたものであることの証明であるというものもある。 正教会からの異論 [ ] においては、ローマ・カトリックが主張するようなローマ教皇( ロマの「パパ」)の権限は認められない。 正教会において現在名誉上の首位にあるのは、「」の称号を持つであるが、コンスタンディヌーポリ総主教も絶対的な権限を全正教会に行使している訳ではなく、各地にがある。 なお、では教皇 Papa に相当する訳語として" 「パパ」"(鉤括弧を含めて一語)という表記が用いられ、「教皇」の表記はあまり用いられない(完全に用いられない訳ではなく、用いられている媒体も稀に存在する)。 正教会からはローマ・カトリックの教会論に対して以下のような異論がある。 ローマ・カトリックは、ローマ教皇の道徳的な権威や調停といった穏やかな権限を、絶対的な権限に変えている。 ローマ・カトリックにおいては、ローマ教皇の首位は全教会の「原理・根源」とされ(への回勅:1864年9月16日)ているが、正教会においては、教会の唯一の「原理・根源」は以外に考えられない。 またの後継という観点については、正教会の教会論では全てのがペトロを受け継ぐものである。 これについては、全ての主教は自分の教会および他の全ての教会においてペトロの座にあるとするの考えが参照される。 またによる以下の指摘にも言及される。 教皇はではないし、使徒の統率者でもない。 使徒が他の使徒をした事は無い。 司牧者や学者を叙聖したのみである。 ペトロは全教会の師であるが、教皇はローマの()に過ぎない。 ペトロはアンティオキアやアレクサンドリアで主教を叙聖(叙階)する事が出来たが、ローマ主教にはそれは出来ない。 ペトロはローマの主教を叙聖(叙階)したが、教皇が教皇をペトロの後継者に任じる事は出来ない。 ただし、古代から現代に至るまでは教皇の首位性と地位についてローマカトリック側と見解を異にしてきた一方で、以前のローマ教皇で聖人となっていた者については正教会も崇敬している(例:、など)。 称号の変遷とその他の「教皇」 [ ] ()は、1978年以来、4代にわたって教皇位を主張している(2018年現在)。 これは当時の東方教会(領)と西方教会(領)のそれぞれ中心地であった。 一方、中世以降のにおいて、教皇は「ローマ司教」にしか使用せず、単に「教皇(Papa)」と呼べばそれはローマ教皇を意味する。 なおカトリックでは「」()はかつてローマ教皇のみの敬称であったが、以降、上記のアレクサンドリア教皇を含む東方教会のなどの高位聖職者にも用いている。 カトリック教会の公式な認定と関係なく教皇位を宣言する者を、という。 通常、対立教皇が生まれる背景には、カトリック教会内の論争や特定の教皇の正統性をめぐって紛糾する事態が存在する()。 対立教皇が多発した中世において、正統な教皇以外に教皇を名乗る人物が現れるのは、宗教だけでなく政治をもまきこむ大問題であった。 カトリック教会内で大きな影響力を持つの総長は、かつて「黒い教皇」と呼ばれることがあった。 これは士が質素な黒いスータンを着ていたことと、教皇は常に白い服を着ることに由来している。 教皇庁の一機関であるの長官(枢機卿)は「赤い教皇」と呼ばれることがある。 この職にあるものはアジアとアフリカ全域の教会の責任者であるため、教皇に匹敵するほどの地位だという意味である。 なお、「赤」は枢機卿の衣の色である。 日本語での呼称 [ ] 日本カトリック教会の呼称 [ ] 現在、日本のカトリック教会の公式な表記では、「教皇」が用いられている。 信徒の間では、親しみを込めた敬称として「パパ様」という呼び方が使われることがある。 日本のカトリック教会の中央団体であるは、のの来日時に、それまで混用されてきた「教皇」と「法王」の呼称を統一するため、世俗の君主のイメージの強い「王」という字を含む「法王」でなく「教皇」への統一を定めた。 このとき、東京にある「ローマ法王庁大使館」においてもこれにあわせて「法王庁」から「教皇庁」への名称変更を行おうとしたが、日本政府から「日本における各国公館の名称変更はなどによる国名変更時など、特別な場合以外は認められない」として認められず、「ローマ法王庁大使館」の名称のまま現在へ至っているとしている。 明治期日本のカトリック教会では「」の訳語を用いた用例が見られる (なお、大正期以降の文献には「教皇」の語が見られる )。 また、現在でも典礼の中では、現役の教皇を「私たちの教父」と呼ぶ慣習がある。 日本政府による呼称 [ ] 官報や外務省の文書では、戦前から長らく基本的には「法王」の語が用いられていたが、教皇が使用されないわけではなかった。 の長に対しては「コプト教皇」の呼称を用いている。 2018年には、所属衆議院議員のが衆議院において「教皇」に変更するべきではないかと質問を行っている。 これを受けて外務省はバチカンとローマ法王庁大使館に問い合わせを行ったが、いずれも変更を求めていないという回答を得ている。 外務大臣(当時)はへ変更を行った事例のように、変更の要求があった場合にはしっかりと対応していくと答弁していた。 11月23日から教皇が日本を訪問することを受け、政府は11月20日に「教皇」への呼称変更を発表した。 マスメディアの呼称 [ ] では、「ローマ法王」「法王」が慣用的に使われ、一般に定着しているとして原則的には「法王」の呼称を用いるとしていた が、日本のカトリック関係者を中心に「教皇」と呼ばれていること、2019年11月22日の教皇フランシスコの訪日にあわせて日本政府が「教皇」に呼称変更したことを踏まえ、「ローマ教皇」の呼称に変更した。 また、、、、、といった主要紙、、も「ローマ教皇」の呼称に表記を変更した。 各国語での呼称 [ ] この節のが望まれています。 中国語圏では「」という訳語が使われる。 韓国語では「(敎皇、キョファン)」である。 英語では「The pope」、または「father」。 「supreme pontiff」 : pontifex maximus とも。 その他 [ ]• 教皇の公用車の一つメルセデス・ベンツGクラスを改造したものは「教皇車」()と呼ばれる。 教皇名は自由に選ぶことはできるが、ペトロの名前を選んだものはいない。 対立教皇を除き、最も多く選ばれた教皇名は「(ヨハネ)」の22人である。 ついで「(グレゴリオ)」と「(ベネディクト)」が16人ずつとなっている。 かつては、歴史の混乱で「17世」以降がひとつ多くカウントされていた。 その後この過ちは修正されて「17世」から「20世」はそれぞれ代数が1つずつ若返って「16世」から「19世」となったが、21世以降の3名は修正されないまま残ってしまっている。 よって「」が実在しないため、現時点で最後に「ヨハネス」を名乗った教皇は(ヨハネスとしては22代目)となっている。 「ヨハネス」を複合名に使用して名乗った教皇が2人いる(と)ので、これをカウントに入れると「ヨハネス」を名乗った教皇は合計24人となる。 完全なオリジナルの教皇名を名乗った最新の教皇は、2013年3月に選出されたである。 それまでは長らくがその記録の保持者だった。 もっとも若く教皇になったのは、18歳のである。 1295年以降でもっとも高齢で教皇に選出されたのは、79歳のである。 1295年以降でもっとも長寿だった教皇は、93歳で亡くなったである。 史実で確認される範囲で在任期間がもっとも長かったのは、31年7ヶ月の( - )である。 在位期間がもっとも短かったのはで、僅か13日( - )である。 これは選出されて間もなくマラリアに罹り、教皇着座式すら出来ずに病没したため。 2月12日に、総主教と約1000年ぶりの歴史的会談 を行った。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 『』(、)728頁および編『』(、)649頁参照。 ラテン語: Sancta Sedes. ラテン語: Sedes Apostolica. ラベル「使徒座」『』OnlineDictionary。 2013年2月11日. 2013年2月11日閲覧。 2013年2月11日. 2013年2月11日閲覧。 4-560-05607-2• は、で「父」を意味する幼児語に由来する。 [ ]• サーチ. カトリック南山教会広報委員会. 2019年11月26日閲覧。 2019年10月9日. 2019年11月27日閲覧。 2019年11月22日. 2019年11月23日閲覧。 「羅馬教皇使節館記氏名羅馬教皇使節ポール・マレラ」「」 Ref. B15100606600• 「」 Ref. A03024608400• 「は、十一月二十日にヴァチカン市国を訪問し、教皇から謁見をたまわった。 池田総理大臣から、歴代教皇が、日本の直面する諸問題に対し(後略)」 - 昭和38年8月• , , 会見・発表・広報, 2019年11月20日 , 2019年11月21日閲覧。 2019年11月20日. 2019年11月21日閲覧。 2013年2月27日閲覧。 NHK 2019年11月22日. 2019年11月22日時点の [ ]よりアーカイブ。 2019年11月22日閲覧。 2019年11月22日. 2019年11月22日閲覧。 Oxford University Press. 2013年2月18日閲覧。 Education. yahoo. com. 2011年6月6日時点のよりアーカイブ。 2010年8月11日閲覧。 AFP通信、2016年2月13日 参考文献 [ ]• 新村出編『広辞苑 第六版』(岩波書店、2011年)• 松村明編『大辞林 第三版』(三省堂、2006年) 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するメディアがあります。 -67? -78? -91?

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「ローマ法王」「ローマ教皇」という二つの呼称について

ローマ教皇とは簡単に

ローマともいう。 ラテン語 Papaのは首長としての司教 教皇 以外の司教らにも適用されていたが,1073年以後教皇専用となった。 しかし,東方正教会はに全キリスト教を代表する地位を認めるが,他教会に対する首位権,不謬性を認めていない。 プロテスタント諸教会も教皇に関する教会の主張を否定している。 それにもかかわらず教皇のキリスト教全体に対する影響は決して小さくない。 カトリック教会の長として教皇は国家との間にを結ぶ権利をもち,1929年のイタリアとのでのとなった。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について の解説 ローマ・カトリック教会の首長、バチカン市国元首。 法王ともいう。 教皇の帯びる諸種の称号のうち、「ローマ司教」「イエス・キリストの代理者」「使徒の頭 かしら の後継者」「全カトリック教会の首長」の四つが、教皇権の起源と本質を物語る。 すなわち、教会の創立者キリストは「使徒の頭」ペテロ(ペトルス)を自分の代理者(「キリストの代理者」)とすることにより、自らが世を去ったのち教会を導く権能を与え、この権能は、ペテロのローマでの殉教ののち、その「後継者」である「ローマ司教」に代々受け継がれた。 したがって、ローマ司教である教皇は、教会の歴史を通じて「全カトリック教会の首長」の座にあったとされる。 教皇はまた「バチカン市国元首」としては一国の元首の地位にあり、いずれの国家にも属さない立場をとることにより、精神的独立性を確保している。 教皇の首位権の起源の根拠としては、聖書の「あなたはペトルス(ペテロ)である。 わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。 ……わたしはあなたに天国の鍵 かぎ を与えよう……」との箇所(「マタイ伝福音 ふくいん 書」16章18~19)、およびキリストがペテロに「わたしの羊を牧せよ」と3回繰り返し命じた箇所(「ヨハネ伝福音書」21章16~17)があげられる。 教皇の選出は、前教皇没後15日以内に招集される選挙会(コンクラーベconclave)において行われる。 選挙権は枢機卿 すうききょう のみが有し、3分の2以上の多数票を得た人物が就任を受諾すると、ただちに新教皇名が決定、公示される。 新教皇の着座式は選挙直後の日曜日または祝日に挙行される。 [梅津尚志] 歴史教皇の首位権は実際には教会史の流れのなかで徐々に全教会的に承認されるようになったのであるが、すでに3世紀にはローマ司教は「ペテロの座」Cathedra Petriと称されており、4世紀以降はローマ司教のみが「パパ」Papaとよばれるようになった。 キリスト教ローマ帝国の時代には、教皇権が皇帝権の強い干渉を受ける面もみられたが、異端を排除しつつ教義を確立するという課題は、概して教皇側の主導権のもとに解決され、それを通じてローマの首位権が広く承認されるようになった。 中世になると、教皇権はビザンティン(東ローマ)側と疎遠になる一方で、新生フランク王権と結び付くことによって地歩を固め、宗教的、文化的、政治的指導者としての立場にたつようになった。 とくに11~12世紀の「グレゴリウス改革」を通して、教皇は世俗権からの独立性を獲得するとともに、教会の中央統治機構としての教皇庁を整備し、全教会にわたる指導権を高めた。 また、当時の封建的諸勢力の併存・対立の状況のなかで、場合によっては政治世界にも大きな影響力を及ぼした。 そこに、インノケンティウス3世らに代表される中世教皇権の隆盛期が現出した。 中世末期に至ると、フランス王権を代表とする世俗権力の強大化によって教皇権は相対的に弱まり、さらにシスマ(教会大分裂、1378~1417)の結果、教皇首位権への信頼は揺らぎ、教皇よりも公会議全体の決定を上位に置く公会議首位説(公会議至上主義)が強まった。 「教会の頭と肢体の改革」が叫ばれながらも、改革の実をあげられなかった教皇権は、ルターに始まる宗教改革に対しても当初は有効な措置を講ずることはできなかった。 教皇の主導下に開かれたトリエント公会議(トレント公会議、1545~1563)による態勢の立て直し、また、とくに教皇に忠誠を誓うイエズス会の活躍などにより、カトリック側は失地回復に努めたが、ヨーロッパ・キリスト教世界を教皇のもとに再統合することはできなかった。 ヨーロッパの近代化が進むにしたがって、近代的政治体制、諸思想に直面して教会は守勢にたたされ、従来教皇が保持していた諸特権も否定されていった。 19世紀後半の第一バチカン公会議(1869~1870)は、時代思潮に対してカトリック教会の立場を明確にし、また教皇の不可謬 ふかびゅう 性を宣言して、近代世界に対する積極的態度を示した。 しかし、公会議中に、国家統一の完成を目ざすイタリアによりローマが占領され、教皇領のすべてを奪われた。 教皇は伝統的に保持してきた世俗権力を失い、イタリア政府と対立した(いわゆる「ローマ問題」)。 [梅津尚志] 現代世界と教皇世俗権力を失ったなかで、教皇はカトリック教会の首長として、宗教的な指導者の立場から、世界が直面する社会正義や平和問題について広く世界に訴えるようになった。 レオ13世は1891年の回勅「レールム・ノバールム」で労働者の人間性尊重を強く訴え、また、帝国主義時代の激しい国際対立のなかで世界平和のための国際連盟の必要性を世界に先駆けて説いた。 しかし、教皇の願いもむなしく、世界は二度の世界大戦に突入した。 その間、1929年にはピウス11世はイタリア政府とラテラノ条約(ラテラン協定)を締結して「ローマ問題」を解決し、その結果としてバチカン市国が成立した。 教皇はバチカン市国という一国の元首となり、カトリック教会の首長としての自由と独立を確保することになった。 20世紀の後半、教皇権は大きな転機を迎えた。 ヨハネス23世は第二バチカン公会議(1962~1965)を招集して、「現代化」(アジョルナメント)による教会の自己革新に努める一方、回勅「マーテル・エト・マジストラ」において富の不均衡の克服を訴え、また「パーチェム・イン・テリス」(地上に平和を)においては、力の均衡によってではなく、対話を通しての相互信頼によって国際平和を実現すべきことを説いた。 パウルス6世(パウロ6世)の国際連合での平和の演説(1965)も、その路線を継ぐものであった。 1978年に教皇座についたヨハネ・パウロ2世(ヨハネス・パウルス2世)はさらに精力的に世界各地を歴訪、1981年2月には教皇として史上初めて日本を訪れ、広島で平和アピールを発するなど、全世界に平和と正義の実現を呼びかけた。 とくにポーランド出身の教皇が、社会主義体制の母国を1979年に訪問して信教の自由や冷戦の克服を訴え、さらに1980年に成立したポーランド自主管理労組「連帯」への支持を表明したことは、その後の社会主義陣営の動揺と冷戦構造の崩壊の契機となった。 1989年にはポーランドの「連帯」が政権を獲得し、ベルリンの壁が崩壊し、一連の東欧革命が起こったが、同年、ペレストロイカ(改革)を掲げるゴルバチョフはソ連共産党書記長として初めてバチカンを訪問して教皇と会談した。 その2年後にソ連は崩壊した。 教皇は1998年1月にはキューバを訪問して国家評議会議長カストロと会談し、「聖年」にあたる2000年3月には諸宗教・諸民族間の「ゆるしと和解」を旨とする聖地巡礼を行った。 2001年5月にはキリスト教会が東西に分裂(1054)して以来、初めてギリシアを訪問した。 なかでもローマの司教は,イエスの復活を説いてカトリックの基礎を築いた使徒ペテロの後継者とみなされ,4世紀ごろから宗教的権威を高めて,特に教皇と呼ばれた。 8世紀中ごろカロリング朝を創立したよりのを受け,世俗的の観を呈し,は,13世紀には全盛期に達して,教皇のは諸国王をしのいだ。 近代初期におけるの形成やの成立とともに,その世俗的権威は著しく弱められ,1870年教皇領はイタリア王国に吸収された。 1929年のでヴァチカン市国が成立し,教皇はその元首として現在に至っている。 出典 旺文社世界史事典 三訂版 旺文社世界史事典 三訂版について 世界大百科事典 内の教皇 の言及.

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