エルヴィン ロンメル。 「砂漠の狐」ロンメルは作られた英雄だったのか?

「砂漠の狐」ロンメルは作られた英雄だったのか?

エルヴィン ロンメル

第2次世界大戦伝説の北アフリカ戦線、小兵力ながら戦車の機動力を活かして圧倒的兵力のイギリス軍を翻弄するナチス・ドイツ機甲部隊。 「砂漠の狐」と呼ばれた男 By : 不明 derivative work: — , , 1941年2月12日、北アフリカ・リビアのトリポリに一人のドイツ軍将官が降り立ちました。 彼の率いる部隊、ことに戦車は3月11日以降にならないと到着せず、主力部隊が揃うのはさらに5月を待たねばなりませんでしたが、彼はイタリア軍の反対を押し切り、手元にあったわずかな部隊だけで、ただちに東方に離れたシルテへ陣地を構えます。 驚いたイギリス軍は、それまでさんざん敗走させていたイタリア軍にそうしてきたように、小規模な攻勢で撃退できるだろうと動き出しましたが、逆に小規模な小競り合いだけで撤退したのはイギリス軍の方だったのです。 以後、イギリス軍に比べればわずかな兵力ながら、海のように広大な砂漠を駆け回って翻弄させる歴史的戦場、北アフリカ戦線とドイツ・アフリカ軍団の短くも熱い栄光の日々が始まります。 電光石火の動きで戦場の流れを変えたドイツ軍将官の名は、エルヴィン・ロンメル中将。 第1次世界大戦での奮戦と、ヴァイマル共和国陸軍時代 By 不明 — scan da A. Monticone, La battaglia di Caporetto, Gaspari editore, パブリック・ドメイン, 1891年にドイツ帝国連邦で数学教師の息子として生まれたエルヴィン・ロンメルは、少年時代にグライダーを製作していた「 航空少年」で、後に北アフリカでは勝手にシュトルヒ 連絡機 を自ら操縦するほどの飛行機好きでした。 そのため航空関連のエンジニアを志望していましたが、まだ飛行機があやふやな存在だった時代でもあり軍隊へ入隊、歩兵として第1次世界大戦に参戦します。 そこでロンメルは時には兵の先頭に立ち、時には負傷や病で床に伏せながらも指揮を続けるなど歩兵や山岳兵の指揮官として活躍。 イタリア戦線で山岳兵の指揮を取っていた時には、「 この山 あるいは丘 を陥落させれば、最高勲章のプール・ル・メリットを授与する!」と上層部から宣言された各隊が先を争うようにイタリア軍を攻める中、もっとも激しい戦闘に従事します。 あまりの激しい戦いで、結果的には他の部隊に名誉を奪われることも多かったのですが、3度目のチャンスでついに プール・ル・メリットを授与されました。 いかにイタリア軍の戦意が低かったとはいえ、少数の兵力による猛攻で多数の捕虜を得るロンメルの戦い方は、後の第2次世界大戦での活躍を思わせます。 そうした活躍や勲章の効果もあってか、大戦後も敗戦国として軍備を極端に制限されたヴァイマル共和国時代にも陸軍に残ることができました。 さらにナチス・ドイツとアドルフ・ヒトラー総統の台頭で再軍備を宣言して後、ヒトラーから気に入られて子飼いの護衛隊長として、ポーランド戦まではヒトラー行くところ常にロンメルの姿があったのです。 0, , ポーランド侵攻 1939年9月 で第2次世界大戦が始まり、翌1940年5月にフランスへの西方侵攻作戦が決まると、ロンメルはヒトラーに頼み込んで前線部隊指揮官として戦場に出ることとなりました。 それも専門だった歩兵や山岳兵ではなく、ロンメルが「 スピード重視でこれからの戦争を決する現代の騎兵」と断じていた新設の戦車部隊、第7装甲師団への栄転です。 フランス侵攻が始まるや、ロンメル率いる第7装甲師団は早速ベルギー 中立国だがフランスへの通り道 を突破してフランスに流れ込みますが、その進撃スピードがまた常軌を逸していました。 通常、敵と接触すればまずは停止して相手の戦力を見極め、戦術を検討して……と慎重になるところですが、ロンメルはそれら全てをすっ飛ばし、「 会敵しても止まらずそのまま交戦しながら突破せよ!」と、無停止戦術をとったのです。 そのためしばしば補給部隊や後続部隊どころか、常にロンメルが先頭に立つ先方部隊に第7装甲師団主力すら追従できず、同師団の参謀など連絡の取れないロンメルが戦死したと勘違いして、勝手に指揮を代行していた時期すらありました。 第7装甲師団の役目は主攻撃部隊の側面を守る助攻でしたが、「 戦車はスピードだ!」がモットーのロンメルはひたすら突撃、味方ですらどこにいるか判然としないロンメルの位置を敵が把握できるわけもありません。 こうして「 電撃戦」の象徴的存在となったロンメルですが、それは時に命令を無視して行われたので上官からの評判は芳しくなく、ただヒトラーからの信頼によってのみ、軍での地位を維持していたといえます。 もっとも、オーストリアの平民出身だったヒトラーにとって、同じく平民出身でユンカー 貴族 ではないロンメルは、結果さえ出せば常に英雄として扱うことがわかっていたので、あるいはそれも計算ずくだったのかもしれません。 猛攻、アフリカ軍団! その後、バトル・オブ・ブリテン 英本土航空決戦 と、その結果による英本土上陸作戦の無期延期 実際には中止 で、ヒマを持て余したロンメルは西方電撃戦の映画撮影に参加、実質的に監督として振る舞いますが、その間に地中海では大変な事件が起きていました。 1940年9月にはリビアからエジプトへ、翌月にはアルバニアからギリシャへ、同盟国ドイツに黙ってイタリアが強引に侵攻を始めたのです。 それで勝てば結果オーライでしたが、どうせイギリスは弱っているしギリシャや植民地軍など大したことない、とタカをくくっていたイタリアは、大軍で攻め込んでおきながら歴史的大敗北を喫し、逆に国境を越えて攻め込まれる始末。 これに対するヒトラーの反応は、激怒というよりむしろ困惑、大迷惑というもので、翌年のバルバロッサ作戦 ソ連侵攻 のため準備した兵力の一部を割いて、対ギリシャ、対ユーゴスラビア作戦を発動するも、北アフリカだけはどうにもなりません。 細い補給線で維持できる最低限の部隊でも、最大限の効果を発揮させられる指揮官は誰だ、となった時に、選ばれたのはヒトラー子飼いのロンメルでした。 もっとも、下手にバルバロッサ作戦に組み込まれて上官からのヒンシュクを買いながらよりは、北アフリカでノビノビと悪戦苦闘していた方がロンメルには向いていたかもしれません。 「 とにかくイタリアを枢軸国から脱落させなければ、それで良い」という効果だけを期待された北アフリカ戦線の戦略的価値は低かったので、ロンメルは補給がなかなか来ないことに苦労させられつつも、エジプトのイギリス軍と激しく戦いました。 独英両軍ともロクに補給が来ない中、互いに兵器や物資を鹵獲し合っての激闘は続き、装備だけのパっと見ではどちらが何軍だかもわからない状態でしたが、ともかく長い植民地支配の歴史によって砂漠での戦争も得意としていたイギリス軍を大いに苦しめます。 時には戦車やトラックに樹木などを引かせて盛大な砂ボコリを上げさせ、大部隊に見せかけたり、広い地域に拡散した友軍を把握するため、時にはロンメル自身が操縦桿を握るシュトルヒ連絡・観測機が戦場を飛び回ったのです。 最終的には戦略的価値の低さで細い補給線が決定的となり、物量で押し切られる形にはなりましたが、1943年5月に壊滅するまで、ドイツ・アフリカ軍団はよく戦ったと言えるでしょう。 「偉大なる戦術家」という評価 ドイツ・アフリカ軍団が壊滅した頃、ロンメルはヒトラーのはからいもあってベルリンに呼び戻され、一時的に休養に近い任務につけられた後、最終的にはB軍集団指揮官として北フランス防衛の任務につきます。 しかし、北アフリカ時代に元帥まで昇進していたロンメルは、既にドイツ軍の中でも大きな権威を持っていたものの、戦前の総統護衛部隊指揮官時代に親衛隊高官からの恨みを買っていました。 結局、同年10月14日にロンメルは軍人としての名誉を守るため自決、ドイツ軍は敗戦の混乱の中で、実績が豊富な装甲部隊指揮官をまた1人失ったのです。 なお、戦時中の活躍にも関わらず、戦後の評価では「 最高の戦術家ではあったが、戦略的視点を持たないという点で将軍としては失格だった」と評価されることが多くなりました。 これは、楽天的な性格でノリが良く、勢いに乗っている時は「 指揮官先頭、全軍突撃!」を具現化したような電光石火の働きを見せるかと思えば、気が乗らない時は何もできないというムラっ気が多かったこと。 さらに、調子が良い時でも弾薬燃料の補給などお構いなしに戦線を突破して数百km行軍してしまうことも珍しくなく、「 兵站や補給への理解が無く、部下がそれをお膳立てしなければ踊れないプリマ・ドンナ」と言われています。 北アフリカ戦線で苦労させられたイギリス、ことにチャーチル首相にとっては悩みの種だったロンメルですが、見方からの評価は意外なほど低かったのです。

次の

ミリタリー偉人伝「スイッチが入ればどこまでも進撃する電撃戦の申し子、“砂漠の狐”エルヴィン・ロンメル」|サバゲーアーカイブ

エルヴィン ロンメル

第2次世界大戦伝説の北アフリカ戦線、小兵力ながら戦車の機動力を活かして圧倒的兵力のイギリス軍を翻弄するナチス・ドイツ機甲部隊。 「砂漠の狐」と呼ばれた男 By : 不明 derivative work: — , , 1941年2月12日、北アフリカ・リビアのトリポリに一人のドイツ軍将官が降り立ちました。 彼の率いる部隊、ことに戦車は3月11日以降にならないと到着せず、主力部隊が揃うのはさらに5月を待たねばなりませんでしたが、彼はイタリア軍の反対を押し切り、手元にあったわずかな部隊だけで、ただちに東方に離れたシルテへ陣地を構えます。 驚いたイギリス軍は、それまでさんざん敗走させていたイタリア軍にそうしてきたように、小規模な攻勢で撃退できるだろうと動き出しましたが、逆に小規模な小競り合いだけで撤退したのはイギリス軍の方だったのです。 以後、イギリス軍に比べればわずかな兵力ながら、海のように広大な砂漠を駆け回って翻弄させる歴史的戦場、北アフリカ戦線とドイツ・アフリカ軍団の短くも熱い栄光の日々が始まります。 電光石火の動きで戦場の流れを変えたドイツ軍将官の名は、エルヴィン・ロンメル中将。 第1次世界大戦での奮戦と、ヴァイマル共和国陸軍時代 By 不明 — scan da A. Monticone, La battaglia di Caporetto, Gaspari editore, パブリック・ドメイン, 1891年にドイツ帝国連邦で数学教師の息子として生まれたエルヴィン・ロンメルは、少年時代にグライダーを製作していた「 航空少年」で、後に北アフリカでは勝手にシュトルヒ 連絡機 を自ら操縦するほどの飛行機好きでした。 そのため航空関連のエンジニアを志望していましたが、まだ飛行機があやふやな存在だった時代でもあり軍隊へ入隊、歩兵として第1次世界大戦に参戦します。 そこでロンメルは時には兵の先頭に立ち、時には負傷や病で床に伏せながらも指揮を続けるなど歩兵や山岳兵の指揮官として活躍。 イタリア戦線で山岳兵の指揮を取っていた時には、「 この山 あるいは丘 を陥落させれば、最高勲章のプール・ル・メリットを授与する!」と上層部から宣言された各隊が先を争うようにイタリア軍を攻める中、もっとも激しい戦闘に従事します。 あまりの激しい戦いで、結果的には他の部隊に名誉を奪われることも多かったのですが、3度目のチャンスでついに プール・ル・メリットを授与されました。 いかにイタリア軍の戦意が低かったとはいえ、少数の兵力による猛攻で多数の捕虜を得るロンメルの戦い方は、後の第2次世界大戦での活躍を思わせます。 そうした活躍や勲章の効果もあってか、大戦後も敗戦国として軍備を極端に制限されたヴァイマル共和国時代にも陸軍に残ることができました。 さらにナチス・ドイツとアドルフ・ヒトラー総統の台頭で再軍備を宣言して後、ヒトラーから気に入られて子飼いの護衛隊長として、ポーランド戦まではヒトラー行くところ常にロンメルの姿があったのです。 0, , ポーランド侵攻 1939年9月 で第2次世界大戦が始まり、翌1940年5月にフランスへの西方侵攻作戦が決まると、ロンメルはヒトラーに頼み込んで前線部隊指揮官として戦場に出ることとなりました。 それも専門だった歩兵や山岳兵ではなく、ロンメルが「 スピード重視でこれからの戦争を決する現代の騎兵」と断じていた新設の戦車部隊、第7装甲師団への栄転です。 フランス侵攻が始まるや、ロンメル率いる第7装甲師団は早速ベルギー 中立国だがフランスへの通り道 を突破してフランスに流れ込みますが、その進撃スピードがまた常軌を逸していました。 通常、敵と接触すればまずは停止して相手の戦力を見極め、戦術を検討して……と慎重になるところですが、ロンメルはそれら全てをすっ飛ばし、「 会敵しても止まらずそのまま交戦しながら突破せよ!」と、無停止戦術をとったのです。 そのためしばしば補給部隊や後続部隊どころか、常にロンメルが先頭に立つ先方部隊に第7装甲師団主力すら追従できず、同師団の参謀など連絡の取れないロンメルが戦死したと勘違いして、勝手に指揮を代行していた時期すらありました。 第7装甲師団の役目は主攻撃部隊の側面を守る助攻でしたが、「 戦車はスピードだ!」がモットーのロンメルはひたすら突撃、味方ですらどこにいるか判然としないロンメルの位置を敵が把握できるわけもありません。 こうして「 電撃戦」の象徴的存在となったロンメルですが、それは時に命令を無視して行われたので上官からの評判は芳しくなく、ただヒトラーからの信頼によってのみ、軍での地位を維持していたといえます。 もっとも、オーストリアの平民出身だったヒトラーにとって、同じく平民出身でユンカー 貴族 ではないロンメルは、結果さえ出せば常に英雄として扱うことがわかっていたので、あるいはそれも計算ずくだったのかもしれません。 猛攻、アフリカ軍団! その後、バトル・オブ・ブリテン 英本土航空決戦 と、その結果による英本土上陸作戦の無期延期 実際には中止 で、ヒマを持て余したロンメルは西方電撃戦の映画撮影に参加、実質的に監督として振る舞いますが、その間に地中海では大変な事件が起きていました。 1940年9月にはリビアからエジプトへ、翌月にはアルバニアからギリシャへ、同盟国ドイツに黙ってイタリアが強引に侵攻を始めたのです。 それで勝てば結果オーライでしたが、どうせイギリスは弱っているしギリシャや植民地軍など大したことない、とタカをくくっていたイタリアは、大軍で攻め込んでおきながら歴史的大敗北を喫し、逆に国境を越えて攻め込まれる始末。 これに対するヒトラーの反応は、激怒というよりむしろ困惑、大迷惑というもので、翌年のバルバロッサ作戦 ソ連侵攻 のため準備した兵力の一部を割いて、対ギリシャ、対ユーゴスラビア作戦を発動するも、北アフリカだけはどうにもなりません。 細い補給線で維持できる最低限の部隊でも、最大限の効果を発揮させられる指揮官は誰だ、となった時に、選ばれたのはヒトラー子飼いのロンメルでした。 もっとも、下手にバルバロッサ作戦に組み込まれて上官からのヒンシュクを買いながらよりは、北アフリカでノビノビと悪戦苦闘していた方がロンメルには向いていたかもしれません。 「 とにかくイタリアを枢軸国から脱落させなければ、それで良い」という効果だけを期待された北アフリカ戦線の戦略的価値は低かったので、ロンメルは補給がなかなか来ないことに苦労させられつつも、エジプトのイギリス軍と激しく戦いました。 独英両軍ともロクに補給が来ない中、互いに兵器や物資を鹵獲し合っての激闘は続き、装備だけのパっと見ではどちらが何軍だかもわからない状態でしたが、ともかく長い植民地支配の歴史によって砂漠での戦争も得意としていたイギリス軍を大いに苦しめます。 時には戦車やトラックに樹木などを引かせて盛大な砂ボコリを上げさせ、大部隊に見せかけたり、広い地域に拡散した友軍を把握するため、時にはロンメル自身が操縦桿を握るシュトルヒ連絡・観測機が戦場を飛び回ったのです。 最終的には戦略的価値の低さで細い補給線が決定的となり、物量で押し切られる形にはなりましたが、1943年5月に壊滅するまで、ドイツ・アフリカ軍団はよく戦ったと言えるでしょう。 「偉大なる戦術家」という評価 ドイツ・アフリカ軍団が壊滅した頃、ロンメルはヒトラーのはからいもあってベルリンに呼び戻され、一時的に休養に近い任務につけられた後、最終的にはB軍集団指揮官として北フランス防衛の任務につきます。 しかし、北アフリカ時代に元帥まで昇進していたロンメルは、既にドイツ軍の中でも大きな権威を持っていたものの、戦前の総統護衛部隊指揮官時代に親衛隊高官からの恨みを買っていました。 結局、同年10月14日にロンメルは軍人としての名誉を守るため自決、ドイツ軍は敗戦の混乱の中で、実績が豊富な装甲部隊指揮官をまた1人失ったのです。 なお、戦時中の活躍にも関わらず、戦後の評価では「 最高の戦術家ではあったが、戦略的視点を持たないという点で将軍としては失格だった」と評価されることが多くなりました。 これは、楽天的な性格でノリが良く、勢いに乗っている時は「 指揮官先頭、全軍突撃!」を具現化したような電光石火の働きを見せるかと思えば、気が乗らない時は何もできないというムラっ気が多かったこと。 さらに、調子が良い時でも弾薬燃料の補給などお構いなしに戦線を突破して数百km行軍してしまうことも珍しくなく、「 兵站や補給への理解が無く、部下がそれをお膳立てしなければ踊れないプリマ・ドンナ」と言われています。 北アフリカ戦線で苦労させられたイギリス、ことにチャーチル首相にとっては悩みの種だったロンメルですが、見方からの評価は意外なほど低かったのです。

次の

エルヴィン・ロンメル

エルヴィン ロンメル

例えば、ロンメルの指揮力は師団長クラスが限界という評価がある。 地中海・北アフリカ方面の空軍責任者だったケッセルリンクの評だったと思うが、北アフリカ戦線視察に訪れた際、ロンメルは司令部に不在で、前線に張り付いて陣頭指揮ばかりしていることを知ってからだろうか。 ロンメルにはロンメルの言い分があった。 通常の陸戦は面と面の戦いだが、砂漠の戦いは点と線の戦いなので海戦と同じだ。 海戦ならば提督が艦隊の先頭にいる旗艦から指揮を執るのが常識。 ゆえに司令官が最前線に身を置かなければ適切な指揮が執れない。 というものだった。 ケッセルリンクは、そうはいっても、司令官が最前線にいては、全体が見渡せない。 第一とても危険だ。 司令部で情報を集めて全体を観ながら指揮を執るべきだと主張しているが、ロンメルは一切耳を貸さなかった。 どっちが正しいのかは不明だが、前線にいてリアルタイムで戦況を把握して指揮を執るロンメルが、後方の安全な司令部から指揮を執られている英軍を、かなり少ない戦力ながら打ち破り続けたことは事実だ。 但し、ロンメル自身も砲火の真っただ中にいたので英軍の銃撃を受けて側近が戦死することはしばしばあったし、乱戦の中、自軍とはぐれてロンメルの乗った車1台だけが英軍の野戦病院に突入して危うく捕虜になりかけたこともあるなど、確かにケッセルリンクの危惧が現実に当たっていたことも事実だ。 しかしながら、ロンメルの戦術眼は好としても、戦略眼はかなり近視眼的だったことは間違いないと思われる。 ロンメルの弱点は補給にあり、補給を改善するためにはマルタ島を占領すべきだというケッセルリンクに対し、そんな戦力があるならそれを北アフリカに送ってくれというのがロンメルの主張だった。 後年のイタリア戦線では、ドイツ本国が連合軍の爆撃圏内に入らないよう戦線を維持しようとしたケッセルリンクに対し、ロンメルは純粋に陸戦のことのみ考えて戦線の後退・縮小で防備を固めるべしと主張している。 善悪は別にして、ロンメルは視野が狭かったと批判されてもやむを得ないだろう。 私もロンメルが大軍団の指揮者としては相応しいかどうか疑問を持っている。 ノルマンディー上陸作戦も彼だけの責任ではないにせよ、阻止することには失敗した。 但し、B軍集団司令官としてフランス防衛の任に付いてからは、負け続きで士気が低下していたドイツ軍に活を入れ、士気を大いに向上させるとともに、防御態勢を急速に高めることに成功している。 万能ではなかったことは事実だが、兵に人気があり、やる気にさせることについても疑いなく名将だった。 敵軍だった連合軍、特に英軍兵士にも人気があったことも事実だ。 最前線を走り回る姿を見て、前線に出ようともしない自軍の司令官との比較で敵ながら尊敬されていたのだ。 ロンメルは第二次世界大戦中を通じて、最も有名で人気の高い将軍であった。 ロンメル自身の宣伝力というかアピール力にヒトラーの宣伝力が加わったために、過大に評価された部分があることは間違いないが、敵軍からも尊敬された将軍なんて滅多にいるものではない。 戦史を飾る名将の一人であることは間違いないだろう。 意外かも知れないが、機甲戦力の運用について不見識と取れる行動が多い。 機動性を生かした迂回作戦、のつもりが英軍の機甲戦力とぶつかり合うことが多い。 実の所、機甲戦力の機動性を生かした作戦を行う場合、タイミング良く対抗出来るのは、やはり相手の機甲戦力なのだと言う初歩的な話だ。 結局の所、敵機甲戦力の迎撃をかわすには航空優勢による掃討戦しか無いのだが。 彼と彼のファンにはその理解が無く、スピードと欺瞞で「毎回まんまと敵が倒されてくれる」程度の話になる。 単純にマルタ要塞攻略がされない限りアフリカ戦線の勝利は有り得ない。 加えて東部戦線の需要を考えた場合、彼の選択肢は「限られた戦力で守りを固める穴熊作戦」以外無かった。。 実際に従軍した兵士の評判が非常に悪い。 兵士をゲーム盤面の駒くらいにしか考えていないような作戦を実行すると言われている。 また、実際にまるで瞬間的に勝てば後は考える必要を感じないような行動を取る。 上記の通り、望んだ補給は来ないと分かっている局面で後の守りは考え無い陣取りゲームに終始している。 ロンメルに限らず、ドイツの高級軍人の中には第一次大戦後に冷や飯を食った後に復権出来たことが頭から離れない傾向がある者がいる。 志向として、瞬間的な勝利で売名を果たせば戦略的な結果はどうでも良いような意識が見て取れる。 「まっ、こんだけ活躍すればドイツが負けてもまた復権出来るさ」みたいな感じ。 実際、モスクワ目前の敗退をヒットラーの過失になるように皆さんで意見を揃えたり、戦後もしっかり自分「たち」の復権に努めている。 戦中に亡くなったロンメルも、そもそもその理由が政治的野心(ヒットラー暗殺後の首班を目指したと言う)にある辺り、売名したいのも判らないでもない。 陣頭指揮を行うことが多かったせいか裏方仕事に疎かったと見受けられる点があったからです 補給や事務ですね その他、戦車を指揮していながら歩兵的な戦術を用いていたり、楽天的な思考を元に作戦を立てたりしていました 結果的にはうまくいっているものの戦術自体は特別優れたものではなかったというわけです 最も一番重要な"結果"を出しているわけですから優秀なのは間違いありません また命令であっても無茶なものであれば従わない人でした 騎士道精神にあふれ常識的な彼の人間性を表すエピソードであり好意的に受け止められていますが、軍人は命令に従うのが仕事です そういうことで評価を下げる人も居るかもしれません あとは英雄視されてしまったせいで評価のほうが鰻登りになってしまっているというのもあります いくら本人が優秀でも評価がぶっ飛んでいてはどうしようもありません 神様でもなんでもないのですから。

次の