五木 の 子守 唄 歌詞。 五木の子守唄の歌詞(2)

五木の子守唄 宮城まり子 歌詞情報

五木 の 子守 唄 歌詞

ドクター和のニッポン臨終図巻 堂坂ヨシ子さん。 この名前にピンとくる人は少ないはず。 でも、「五木の子守歌」ならば、ある世代以上の人は誰でも一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。 堂坂さんは、「五木の子守歌」の歌い手として、熊本県では名の知れた方でした。 8月2日、熊本県相良村の介護施設で死去との訃報を目にしました。 享年102。 死因は老衰との発表です。 「五木の子守歌」は、熊本県五木村に伝わる子守歌です。 お盆の季節にぴったりの歌なので、今日は、堂坂さんとともにこの子守歌について紹介しようと思います。 というのも、「歌い手」をなくしてしまった歌は、その人とともに臨終を迎えてしまうのではないかと危惧したのです。 その歌を歌う人がいなくなれば、歌も死にます。 「おどま盆切り盆切り 盆から先きゃおらんと 盆が早よ来るりゃ 早よもどる」で始まる、国民的に知られたメロディーは、実は、本家本元の「五木の子守歌」とは違うのだそうです。 これは、戦後に作曲家の古関裕而氏が作ったもので、1953年に照菊さんという民謡歌手がレコードにして大ヒット、お座敷唄として人気を呼びました。 一方、堂坂さんが歌う本家は、「正調 五木の子守歌」と呼ばれ、五木村のホームページでも聞くことができます。 私も聴いてみましたが、これほど悲しい子守歌を聴いたことがありません。 貧しかった時代、口減らしのため、小作人の家に生まれた女の子は10歳になるかならずで、豪農の家の子守のために別の村に奉公に出されました。 その少女が、己の不幸な境遇を嘆いているのです。 いつ生まれた歌か、誰が作った歌かもわからぬまま、熊本の地に伝承され続けている歌なのです。 歌詞の中には、こんなフレーズがあります。 「おどんが打っ死んだら 往還(みち)ばちゃ埋(い)けろ 通るひと毎(ご)ち 花あぐる」 私が死んでも、誰も墓参りなどしてくれないだろう。 それならば人通りがある道端に埋葬してもらったほうが、誰かが花でもあげてくれるだろう-という意味です。 10代の娘が、「私が死んでも誰も悼んではくれない」と嘆いているのです…しかし、それに比べて今は幸せだね、とここに書くのもちょっと違う気がしています。 やるせない虐待のニュースや、貧困家庭や貧困女子という言葉をネットで目にするたび、この詞の世界が遠い昔の出来事と思えなくなっているのは私だけでしょうか。 堂坂さんの魂の入った「五木の子守歌」。 どうか、死なないで。 東京医大卒業後、大阪大第二内科入局。 1995年、兵庫県尼崎市で長尾クリニックを開業。 外来診療から在宅医療まで「人を診る」総合診療を目指す。 この連載が『平成臨終図巻』として単行本化され、好評発売中。 関西国際大学客員教授。

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五木 の 子守 唄 歌詞

五木の子守唄は子守唄ではない!? 五木村の守り子唄の悲しいルーツ話 暮らしに役立つ生活日記 五木の子守唄(いつきのこもりうた)は 熊本県球磨郡(くまぐん)五木村に伝わる子守唄です。 長い間、 地元の住民か民謡の専門家しか知らない曲でしたが 現在では 五木地方で伝承されている 「正調・五木の子守唄」といわれる2拍子のものと、 1950年(昭和25年) 作曲家・古関 裕而(こせき ゆうじ)が 熊本・人吉(ひとよし)地方で唄われていた民謡を 採譜・編曲した「五木の子守唄」の3拍子のものが 多くの人々に愛唱されるようになり いずれも 熊本県を代表する民謡として知られています。 実は この「五木の子守唄」は、 悲哀が漂う子守唄ですが どの歌詞が「元歌」なのか不明で、 謎多き子守唄でもあります。 子守唄の伝承 球磨郡五木村の「五木の子守唄」は 伝承者により様々な歌詞が伝えられており 長い時間をかけて 多くの人々の思いが積み重ねられてきたため 「元歌」は不明とされますが 記録されているだけでも 70~80程も歌詞があると言われていて 五木村以外の地域にも散見されています。 また、 歌の発祥地や伝承地は様々な説がありますが 五木村の子守唄は 山村の厳しい暮らしの中から生まれたもの、 長く唄い継がれてきた歴史があり 背景には 貧しさゆえ、子どもながらに 子守り奉公に出されたため 様々な地方で広がり 子守り生活の辛さから「口ずさみ」が歌詞となり 切ない心情が子守唄の歌詞となって 口ずさみの歌詞が、散乱したのもと思われます。 子守唄と守り子唄 日本の民謡や童謡などでは 「子守唄」と「守り子唄(もりこうた)」があり 本来の 「子守唄」は 子供を寝かしつけるための歌。 対して 「守り子唄(もりこうた)」は 子守をする少女が、 自分の不幸な境遇や生活、仕事の辛さなどを歌詞にして 子供に唄って聴かせ、自分を慰めるための歌。 五木の子守唄は、 子守娘の気持ちを唄った、守り子唄のひとつです。 五木村 昔 源平の戦いに敗れた平家の動向を監視するべく 五木村に源氏が住み、 これらの源氏の子孫を主として 33戸で構成される 33人衆と呼ばれる地主(よか衆、だんな衆)が土地を所有し、 それ以外は、ほとんどが 「名子(なご)」や「勧進(かんじん)」と呼ばれる 小作人たちで 地主から家、屋敷、土地、田畑、山などを借り受け 林業や、焼き畑農業を営み 「農奴」として暮らす最低の生活でした。 子守奉公 五木村の山深い里の暮らしの営みは厳しく、 娘たちは7、8歳になると、 食い 扶持(くいぶち)減らしのために 人吉や八代地方の豊かな家に「子守奉公」に出されます。 それも奉公とは名ばかりであって 「ご飯を食べさてもらうだけで給金はいらない」という 約束が普通だったといいます。 食べさせてもらうといっても、 家族とは違う粗末な食べ物しか与えられず、 子守りだけでなく、さまざまな雑用をさせられ、 女の子ですから、 無道な行為をされることもあったようです。 五木の子守唄の真相 こうした 悲しい諦めや小さな抵抗が唄となり 仕事の辛さや望郷の思いを即興的に歌うことによって、 わずかな慰め(なぐさめ)を見出していたようです。 こうして成立したのが、 「五木の子守唄」です。 赤ん坊を眠らすための唄ではなく、 子守り奉公をしている、娘たち自身の「嘆きの唄」であり 聞かせる唄ではなく、 ひとりで寂しく「口ずさむ唄」という歌が 「五木の子守唄」の真相です。 それから時は現代へ 伝承されてきた歌詞は、 確かに、悲しい内容の歌になっていますが、 それは今では遠い昔のこと・・・ 五木村の悲惨な状況は、 敗戦後、GHQ(占領軍総司令部)の指令で実施された 「農地改革」によって解消されました。 新たに、 川辺川ダム計画が始まり 五木村は、 いつの日か、村の中心部がダムの底に沈む事になってしまいました。 五木の子守唄 様々な歌詞が現代まで伝わっており どれが1番で、どれが2番だという順番もなければ 人や地方により歌詞や言葉も違い 即興的に歌われだしたものだと言われています。 五木の子守唄の一例です。 6 花は何の花 つんつん椿 水は天から 貰い水 花は何の花でもいいが 道端にある椿でいい。 水はなくても 天から雨が降ってくれるから。 一家を養うためには、 幼い子どもすら稼ぎに出された時代、 五木村に限ってではありませんが 7、8歳~10歳前後の子どもにとって 毎日の生活は、 きつく、辛く、悲しく身を裂かれる想像を絶する中 どんな思いで故郷を見つめていたのでしょう。 五木の子守唄は 当時の 子守り子たちの切ないまでの 心境や生活が伝わる悲哀の唄です。 五木村も、 水没する集落は高台に造成された代替地へ移転も終わり 「五木の子守唄」発祥の地として 観光地にもなっていますが 遠からず 昔の故郷は、ダムの底に沈むことになっている事も忘れないで・・・ 最後に 私が小学生の頃 音楽の授業の中で 意味知らずに歌っていた歌であり 周りの皆も、歌っていたわけというか 授業という名の元に歌わされていたわけで 大人になって意味を知ると、 自分が情けないというか 子守り奉公の娘たち自身の嘆きの唄を あの頃歌ったあの歌は何だったのかと 今更思うわけで もしかすると 故郷に帰れない子どもも居たかもしれない。 当時の五木村の少女たちは 今ではいないかもしれないが 自分の故郷がダムの底に沈むかもしれないと思うと やるせない気持ちで一杯だ・・・ 一粒の種とは ある、がん患者の 亡くなる3日前に残した最期の言葉を 心を動かされた女性看護師が 親父の小言は 処世訓を短い言葉で連ねた 全45ヶ条の小言を記した格言集です。 居酒屋の壁やトイ 「取り付く暇もない」とか「つっけんどんで取り付く暇もない」とか・・・仕事などの場面や状況で、よく耳 円山動物園と言えば 札幌市中央区の 円山公園内にある動物園。 上野動物園(東京 プリンセス駅伝は クイーンズ駅伝の予選会です。 【目次】 プリンセス駅伝とは アクシデント 読んでみたら9割の人が涙したという物語で 実話に基づくお話です。 本当のタイトル プリンセス駅伝とは 愛称「プリンセス駅伝in宗像・福津」と呼ばれ 実業団女子日本一決定戦への出場 感動しました。 「あるバッタの話」って、ご存知ですか? とても面白い話で、素敵だと思いま 「赤い靴(あかいくつ)」の 童謡(どうよう)は、ご存知でしょうか? ある少女が 天国へ 幸せの「はひふへほ」を ご存じでしょうか? 幸せって何だろう? 幸せって人それ.

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五木 の 子守 唄 歌詞

実際は『五木の守り子歌』? 内容的には、曲名は『五木の守り子歌』、『五木の子守哀歌』といった感じが誤解が少なそうだが、実際に守り子がこの民謡を子守歌として歌っていたのであれば、現状どおり『五木の子守唄』で問題はないだろう。 『五木の子守唄』は戦後にレコード化され、お座敷唄の曲調で一般的に知られるようになった。 これとは別に、商業的な色合いの薄い『正調・五木の子守唄』も存在する。 歌詞には様々なバリエーションが存在し、伝承者によって多様な歌詞が伝えられている。 どの歌詞が元歌なのかも不明であり、五木村以外の近隣の村でも類似した「子守唄」が確認されているなど、そのルーツを明らかにすることは難しそうだ。 童謡『赤とんぼ』も守子の歌 「夕焼小焼の赤とんぼ」が歌いだしの童謡『』は、『五木の子守唄』と何も関係がなさそうだが、実は「守り子」に関する歌というつながりがある。 『』の歌詞では、「負われて見たのはいつの日か」というくだりがあるが、赤ん坊の頃に自分を背負ってくれていたのは、他でもない守り子の「ねえや」なのである。 「十五で姐や(ねえや)は嫁に行き」という『』の歌詞は、『五木の子守唄』で歌われているような守り子の娘を、お世話されていた子供の視点から描写した歌だったのだ。 子守歌 一覧 『江戸の子守唄』や『五木の子守唄』など、昔の日本の子守奉公(こもりほうこう)や守子(もりこ)を題材とした日本の子守唄(子守歌)まとめ。 「シューベルトの子守歌」、「モーツァルトの子守歌」など、世界各国の有名な子守歌の歌詞と視聴 ご当地ソング 津軽じょんから節、ソーラン節、ちゃっきり節など、日本全国各地の民謡・ご当地ソング特集 『炭坑節』、『黒田節』、『おてもやん』など、九州地方7県に関連する有名な民謡・童謡・祭りの歌まとめ.

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