君 は 最後 の 晩餐 を 知っ て いるか。 中二国語 君は「最後の晩餐」を知っているかの感想を教えてくだ...

君は最後の晩餐を知っているか:本文まとめとテスト問題の解説!

君 は 最後 の 晩餐 を 知っ て いるか

H12. あの人 愛した日から始まった ブラックホールみたいこの苦しみ 自分で自分を苦しめていくよ Help! Help me,please! 性格・スタイル・何をとっても あの人に近づけないはがゆさ 金縛りみたい 身動きできない Stop love! Stop my heart! もっともっと激しく愛したら ボロボロになるかも そっとそっと消えてしまいたいわ あの人の前から 慣れてないの 人を好きになること 本気の恋なんか 忘れかけてたわ 伝え方さえわからなくなってる OH my God! Tell me how to love! 2.心と体が離れていきそう コントロールさえできなくなってる 誰か私ささえて欲しいのよ Help! Help me,please! 一千一秒 友達さえも 何もかも気になるときりがないわ 誰かあの人 忘れさせてよ Stop love! Stop my heart! 雨よ 嵐よ 私に吹き付けて びしょ濡れになるまで どこか遠く流されていけ 行方不明者気取るから 好きなら好きと言えばいいけれど 冗談ぽくしか言えなくなってる あなたの心射止めれないまま ああ 消えていく ぶつかりあわずに 逃げる方がラク No No 激しく愛した分ぶつかれ 傷ついてもいい 後悔しちゃダメ Do my best! Go my heart! Do my best! Go my heart! ゆらり ゆらり 揺れるのは 私のせいじゃない あなたのこころ ゆらり ゆらり 揺れるのよ あなたが私をみていないから・・・ 片思いでしょうか かなわないでしょうか あなたをひとりじめには できないでしょうか? 私より若い子? きれいな素肌かしら 私といるより 楽しいのでしょうか ゆらり ゆらり 揺れるのよ 心は遠く 離れ離れよ ふわり ふわり 飛んでいきそうよ 私の心が迷子になりそうよ 2. ほろり ほろり 涙がこぼれるの このままあなたが かえってこないようで 鏡の中の 醜い顔は よけいにあなたを 遠ざけそうよ 泣き落としでもだめ 意地を張ってもだめ あなたを責めても よけいにあの子を 好きになるだけ こんなにそばにいても あなたが遠く見え 寂しい気持ちがよけいに募る ゆらり ゆらり 揺れるのは あなたが私を見ていないから ふわりふわり 離れそうなの あの子があなたを盗みそうなの ゆらり ゆらり 揺れるのよ 心は遠く 離れ離れよ ふわり ふわり 飛んでいきそうよ 私の心が迷子になりそうよ 私の心が迷子になりそうよ 下手ピィーな短歌? (@。 好きよと打ち明ければ 前よりいっそう 好きになりそう でもいつだって臆病な私 勇気がどこかへ かくれんぼ そういつもおびえているのよ 不安で仕方ないから 愛してしまった瞬間 あなたがどこかへ消えそうで 2. 信じることさえできたら きっと幸せつかめるでしょう でもとべないの翼が壊れて 自分の殻もこわせないのよ そうさよならは となりあわせ いつもおびえているのよ 愛してしまった瞬間 私もどこかへ消えそうで 3.

次の

H12.10月のポエム

君 は 最後 の 晩餐 を 知っ て いるか

光村図書の中学校2年の国語教科書には,「君は『最後の晩餐』を知っているか」という,美術に関する評論の文章が掲載されています。 実は,宗我部義則先生(お茶の水女子大学附属中学校教諭)が,この教材文の大ファン。 2015年9月16日発行の小社広報誌「中学校国語教育相談室 No. 78」では「特集 評論を読み,自分の考えをもつ」と題し,この教材を使った宗我部先生の授業をリポートしています。 全7時間の授業となりましたが,なんと第6時で,筆者である布施英利さん(芸術学者・批評家)をお招きすることに。 「中学校国語教育相談室 No. 78」では,その第6時を中心に授業の模様をご紹介しています。 ここでは,広報誌の紙面でご紹介しきれなかった第1~5時,第7時の様子を中心にご紹介します。 筆者が述べている新しい見方や考え方を読み取ることができる。 筆者が述べていることに対して,「ふーん」でなく「へぇ」と思える。 筆者の考えに対して,自分の考えをまとめることができる。 という学習目標が設定されました。 ここで,先生は教室前方のスクリーンに2枚の「最後の晩餐」の画像を映しながら,生徒たちにこう問いかけました。 「みんなが知っている『最後の晩餐』は,どっちだろう? 『最後の晩餐』は,何度も修復作業が行われていますが,1999年に最新の大修復が終了しました。 どちらが,その後の絵でしょうか」。 スクリーンに修復前と修復後の「最後の晩餐」の画像を映す,宗我部先生。 写真は修復前。 「色が薄いほう。 そのほうが顔がよく見えるから」「いちばん右の人の袖のしわが細かく見えるから,濃いほう」……。 生徒たちは,次々に自分の意見を口にします。 クラスの意見はおおよそ半数ずつに分かれたようです。 第2時までに,教材文を読んで,どちらが修復後の絵かを考え,筆者の新しい見方・考え方が表れた部分に線を引いてくることになりました。 そして最後に,先生からの重大発表です。 「なんと,今度このクラスに,筆者の布施さんが来てくれるそうです! みんなの考えを聞いてもらいましょうね」。 「ええっ!」という生徒たちの声。 教室が驚きと喜びでざわめく中,第1時が終了しました。 第2時。 どちらが修復後の「最後の晩餐」か,根拠となる叙述とともに自分の意見を発表していく生徒たち。 ここで,先生が言います。 「では,種明かし。 実を言うと,色が薄いほうが修復後の絵です」。 濃いほうを修復後と考えていた生徒たちからは,驚きの声が上がりました。 「どんな修復作業をしたんだろうね。 第18段落の2文目に『それまでかびやほこりで薄汚れて,暗い印象のあった絵から』とあります。 それはなぜか。 一つは,描かれてから500年以上経っているから。 もう一つは,第二次世界大戦中,爆撃から守るために泥を塗って埋め,その影響で一気に汚れてしまったからだそうです」。 続けて,修復作業はこれまでに何度も行われてきたこと,過去の修復家たちが絵の具を描き足すうちに,違う絵になってきてしまったこと,最新の修復では,新しい時代の絵の具を丁寧に落とす作業が行われたことを,先生は話して聞かせました。 その説明を自分の目で確かめるように,じっと絵を見つめる生徒たち。 この後,授業は全文への通読へと進んでいきました。 ズバリ述べている表現(言葉や文)を本文中から抜き出してみよう。 先生からの「今日は,グループ学習で進めてもらいたいと思います。 課題について,話し合ってまとめてください」という指示を受けて,生徒たちは一斉に机や椅子を動かし,グループ学習に入りました。 教室のそこかしこから,生徒たちの活発な話し合いの声が聞こえてきます。 ワークシートを見ながら,話し合いを進める生徒たち。 話し合いを終えて,課題 1 について全体で確認した後,続いて 2 の確認へと進みます。 「『最後の晩餐』の絵に対して,布施さんはどんなふうに評価しているのか。 本文中のどこを抜き出しましたか」と,先生。 「第4・16・19段落の『かっこいい。 かぎでくくっているし,何度も出てくるから,やっぱり重要な言葉なんじゃないか」「第10段落の『心の動きの見本帳』」「『かっこいい』『すばらしい』『衝撃』をまとめて,第19段落の『魅力的』」などなど,各グループの発表が続きます。 どの生徒も,筆者の評価の言葉をしっかりと吟味しているようでした。 第4・5時 筆者の考えに対して,自分はどう思う? これまで読み取ってきた「最後の晩餐」への筆者の評価をもとにして,自分の考えを形成していきます。 「そのために,文章に沿って『絵を読み解く』ことをもう少しやりたいと思います。 解剖学・遠近法・明暗法,それぞれが指すことを確認します。 絵に書き込みをしながら,確かめ読みしていきましょう」と,先生。 スクリーンに,「最後の晩餐」が大きく映し出されます。 驚き,失意を表しているのはどの部分か。 どの人物がユダか。 生徒たちとやり取りしながら,絵で確かめていきます。 続いて,スクリーンに映し出されたのは,先生が用意したさまざまな補足資料のスライド。 レオナルド・ダ・ヴィンチの手による人体図や骨格・筋肉などのドローイング,飛行機や歯車の構造図です。 「すごい……!」。 解剖学をはじめとした,レオナルドの数々の研究の成果を,生徒たちは息をのんで見つめていました。 それから,遠近法。 先生は,こんな指示を出しました。 「ちょっと確かめてみよう。 定規を使って,キリストの右のこめかみにあるという消失点を探してみてください」。 天井や床,机の端,テーブルクロスのしま模様。 生徒たちは,周りの友達と相談しながら,消失点へとつながるいくつもの線を見つけていき,「わあ,どの線も消失点を通るよ!」と,盛り上がります。 そして,クラス全体で明暗法について確認した後,いよいよグループごとに,自分の考えをまとめる時間に入ります。 先生から示された論点は,次の3点。 これらについて,筆者の考えに共感できるか,疑問に感じることはあるかを,グループで話し合います。 ここでまとめた自分たちの考えを,筆者の布施英利さんの前で発表し,聞いてもらうことになるのです。 いよいよ,筆者の布施英利さんを教室に迎えての発表の時間。 生徒たちは「筆者の考えに対して自分はどう思うか」を,布施さんの前で堂々と発表していきます。 布施さんは,メモをとりながら,真剣に生徒たちの意見に耳を傾けていました。 そして,授業の最後には,布施さんから,生徒たちの疑問や意見をふまえて,授業の講評をいただきました。 第6時の詳細については,9月16日発行の小社広報誌「中学校国語教育相談室 78号」(P4~15)をご覧ください。 左/教科書に掲載されている写真とは,少し印象の違う布施さん。 丸い眼鏡がトレードマーク。 右/生徒たちは,筆者の考えや意図を聞き,自分の考えを深めていった。 第7時 自分の考えをまとめる 単元の最後,これまでの学習を振り返って,絵や評論に対する自分の考えをまとめる時間。 一人一人の考えを文章に書く前に,第6時に筆者が話してくれたことの中で印象に残ったことについて,クラス全体で交流します。 「布施さんが,『評論とは,答えを与えてくれるのではなく,問いを与えてくれるものだ』とおっしゃっていて,とても心に残った」,「『自分の目でよく見ること』が何より大事,という言葉が印象的だった」,「『最後の晩餐は新しい絵なのか』という,僕たちの問いに対して,当時はかなり新しい絵だったという説明をしてくれて,納得した」など,生徒たちはそれぞれに,印象に残った筆者の言葉を挙げていきました。 そして,自分の考えをまとめる文章として,先生から提案された書き方は3種類。 著者へのリーダーズボイス……著者に宛てた感想文や手紙のスタイル。 書評……「君は『最後の晩餐』を知っているか」を1冊の本として,評論のおもしろさ,見方の新しさやすごさ,課題に思うことを指摘するスタイル。 本の紹介になるように,よさや提案の新しさについて,まだ読んでいない人に向けて書く。 後書き……文章を読み終えた読者に向かって,評論のおもしろさ,見方のよさについて解説したり,評論を味わい直す文章を添えたりするスタイル。 文章には,内容の中心となるタイトルを付けます。 「みんなが書いたものは,後日,布施さんにも読んでもらいます」という先生の言葉。 生徒たちは,真剣な面もちで取り組んでいました。

次の

美術ブログ 新着記事

君 は 最後 の 晩餐 を 知っ て いるか

芸術は特別な人だけが味わうものじゃないし、味わうのに資格も何も必要ないのに、なぜこうした 苦手意識が根強いのだろう。 これは学校教育に問題があったと思う。 最初の出会いが良くなかった。 音楽や美術の時間、そして誤解を恐れずに 言うならば読書感想文など国語の時間も、テストや通知表から切り離すべきだった。 これらの授業は 子どもたちにとって、成績を気にせず、純粋に感受性を育み、知的好奇心を満たす時間になるはず だった。 作品を自由に感じることを禁じられた僕らは、芸術に堅苦しさを感じるようになってしまった。 芸術作品はテストの問題にされるために創られたんじゃあない。 『どうして残ったんだろう?』 これだ。 ベートーヴェンの曲は200年、シェイクスピアの文章は400年、ダ・ビンチの絵画は500年、ずっと 人々に愛され続けている。 でも、彼らの名と作品はなぜか忘れられていない。 作者に頼まれたわけでもないのに、世代から世代へと作品を伝えている。 今でも第九はCDショップに行けばズラリと並んでいるし、ハムレットは様々な出版社から発売されて おり、ダ・ビンチの画集も大判からハンドブック・サイズまで選り取りみどりだ。 ここでちょっと考えてみて欲しい。 多くの詩集は初版で絶版になり、CDも半年で廃盤となる。 世界には無数の画家がいるけど、国境を 越えて名を残している者はほんの一握りだ。 しかし、僕らはバッハを300年間、モーツァルトを200年間聴き続けている。 実際、どんなに小さな 街角のCDショップでもバッハの作品は手に入る。 昨今のミュージシャンの歌唱力、深みのある歌詞は、感嘆に価するし、ライブに僕も足を運ぶ。 シェイクスピアの作品が400年間も本屋の店頭に並び続けている、この奇跡! 奇跡、と書いたが大袈裟じゃない。 過去の例だとピンと来ないなら、未来を想像してみよう。 20年後の 世界ですらどうなっているのか見当もつかないというのに、今日発売された本を400年後の人が まだ読んでいるんだ。 これは、スゴすぎると思わないかい? そして、もうひとつ特筆したいのは、「モナリザ」「運命」「ロミオ&ジュリエット」などが完成してから これまで数百年の間に、社会環境や人々のライフスタイルがガラリと変わっていること、 そして、はるか遠い外国の作品なのに日本人の僕らが知っているという事実だ。 ベートーヴェンやゲーテが生きていた時代は封建社会で、現代と社会環境が全く違うし、民衆は文字 を読めず迷信を深く信じていた。 人々はペストやコレラの流行などで、いつも死と隣り合わせに生きて いたのだから、当然、今の僕らとは幸福の基準も人生観も随分異なるはずだ。 また、住む国が異なれば文化も当然違うわけで、それによって国民性・価値観もかなり変わってくる。 なのに僕らは、数百年も昔に異国の人間が味わった喜怒哀楽の「追体験」をして、深い感銘を受け ている…。 それが世間では名作といわれているが、自分にはピンと来ない…(僕はしょっちゅうこうだ)。 その時は、 「分からない、だから興味がない」 ではなく、 「分からない、だからこそ興味がわく」 と、なぜ先人たちが名作と判断して残してくれたのか、その魅力を探して欲しい。 名作が名作と呼ばれる由縁、作品の秘密(魅力)を探る旅は、実にスリリングでエキサイティングな ものだ。 1つ1つの謎を解き明かしていく度に新しい感動が待っている。 それは、時代や住む場所によらず、人類共通の価値観で 計れ、誰にだってすごいことが分かるからだ。 でも、芸術作品は見る人によって評価が分かれ、感動する人と、そうでない人がいる。 ある人には 名作であっても、他の人には失敗作と感じられたりする。 人間の内面世界を形(作品)にして、万人の 共感を得ること、名を残すことは至難の技だ。 ベートーヴェンの時代にはジャズやロックは存在せず、クラシックの作曲家がたくさんいた。 だが、 当時の人々はその多くの作曲家の中からベートーヴェンを残すことにした。 残そうとする人たちがいた から残った。 彼の音楽には、他の作曲家にはない、「何か」があったんだ。 人類愛、希望、自然美、誠実さ、自己との闘い、勇気、いずれを受け止めたかは、人によって様々だ ろう。 だが、何であっても、間違いなく人々の感情に訴えかけたんだ。 そうでなければ、誰もベートー ヴェンの知り合いでもないのに、後世に作品を残そうとしてきた理由が見つからない。 クラシックは「暗い」と一般に受け止められているけど、もし本当に暗いだけなら、人は味わおうとしな いだろう。 誰しも落ち込むより陽気になりたいものだから。 でも、「暗いのではなく、深い」ことに気づけ ば、暗いのと深いのは違うということを知れば、クラシックはもう聴き手を退屈させることはない。 また、古典文学は「生き残った文章の宝庫」だ。 どれも、時の重みに耐えたものばかり。 そこにどんな 言葉が刻まれているのか、考えただけでワクワクしてしまう。 次世代はそんな作品を受け取らない。 普遍的な人間の真実の姿が刻み込まれた作品だけ が、個人の人生観の違いを乗り越え受け継がれてゆく。 つまり、現在「古典作品」と呼ばれるものを僕らが味わうことは、まさに「美味しいとこ取り」をする わけだ。 古典文学を紐解くこと、それは作者の心だけでなく、作品を残そうとした 過去の読者の魂にまで 触れることだ。 あなたが芸術家の卵ならなおさらだ。 美味しいものを食べていないと何が 美味しいのか分からず、美味しいものを作れない。 作家を目指す場合も、名作を一気に読んだという 体験が自分にあるからこそ、少しでもそうした名作に近づこうと努力出来るんだ。 最初に書いたように、芸術はちっとも難しくなんかない。 どういった人物で、どういう 理由でその作品を創るに至ったのかという背景を知って欲しい。 ゴッホが描いた『カラスのいる麦畑』という絵は、ゴッホの生涯を知らなければただの風景画だ。 しかし、彼が自殺をする直前の風景画であり、彼自身その麦畑の中で銃弾を胸に撃ち込んだことを 知ると、画面からゴッホの助けを求める声が聞こえてくる。 また、彼の一連の自画像についても、生涯を知らぬ者には普通の肖像画だが、その人生を知って いる者は、発狂したゴッホが自分で左耳を切り落としたから、晩年は常に右側面からしか描いてない ことが分かる。 その痛みを知る。 モーツァルトのレクイエム(鎮魂曲)も、メロディーだけを聴いていれば美しいけれど、彼が病魔と戦い ながら作曲し、実際に完成させることが出来ず作曲のさなかに35才という若さで死んでいることを 考えると、レクイエムという曲のタイトルがより深い意味をもって聴き手の魂を揺さぶってくる。 芸術!! 絶対に味わって損はない。 はるか昔の、それも遠く海を隔てた土地に住んでいた人間の感情や息づかいが、あたかも目の前に いるかのように迫って来る興奮。 人は芸術に触れ、肉体が滅んでも作品に込められた魂が輝き続け ることを知る。 身体が存在しないからといって、死んだわけではないと実感する。 人は死なない、それがまた泣けてくる。 これほど素晴らしい「芸術」を楽しまない手はないッ! 僕は人間がどれだけのモノを創り上げることが出来るのかを知りたい。 すると、子供達の好奇心はいやがうえにも高まり、ゴッホの画集は授業中に隠れて回し読み され、あるいは、 成人したその夜、 「こ、これが噂のベートーヴェンか!」 と驚喜して聴きまくるだろう…なんてね(笑)。 どんな名作も作者だけでは 後世に残らない。 現代まで残った芸術作品は、膨大な時間と何千、 何万人もの労力が注がれて受け継がれてきた。 だが、ここで伝えることをやめれば、僕らの代で 作品は時間の海に沈み、人類の記憶から消えてしまう。 「芸術がなくても生きていけるじゃん?」 確かにそのとおりだ。 別に芸術と接点がなくても、生存は可能だ。 呼吸に支障はない。 僕も20代にこのことをよく考えていた。 そこで出した答えはとてもシンプルで 「感動したいから生きている」 だった。 これは本当に単純なことで、その日の夕食でも、半年後のライブでも、愛読しているマンガの発売日 でも、日帰りの旅でも何でもいい。 人が生き続けるのは、先に楽しみがあるからだ。 テレビを見るのも 何かしら感動したいからだと思う。 生きている実感を味わいたいという切望を、芸術はいとも簡単に満たしてくれる。 人は背中に何回電気が走ったかで、人生の幸不幸が決まると思う。 豪邸に住もうが外車を何台持っていようが、物欲は新たな物欲を生み、モノに幸福の基準を置いて いる限り永遠に心は満たされない。 だからモノが無くなれば、とたんに不幸になる。 でも、味わった 芸術の感動は消えない。 それは、人生という長旅の道連れとなり、僕らと共に最後まで歩み続ける。 「こんな世の中、もう生きていたくない」 思わずそういう言葉が出てしまうほど、新聞を読んでもテレビのニュースを見ても世相は暗い。 海外で は戦争、テロ、国内では親が子を、そして子が親を殺すという悲惨なニュースが続いている。 僕たちが暮らしているこの日本は、自殺率が世界第1位になってしまった(02年)。 世界には約200 の国家があるけど、その中でトップというから凄まじい。 自殺者数は4年連続で年間3万人を超えた ままだ。 日清戦争の死者数は1万7千人。 つまり、その倍の人数が毎年死んでいることになり、ここ数年 日本はずっと戦時下にあるようなものだ(実に毎日80人以上が自殺している計算になる)。 そんな世の中で、子供たちに向かって「世界は素晴らしい、生きるに値する」と言っても、まったく 説得力がない。 第一、当の大人自身がその言葉に確信を持てないのだから説得出来るわけがない。 子供を説得するにはまず大人が人類の素晴らしさを確信せねば! 人間は戦争のようなひどい事もするけど、美しい芸術作品も山ほど創ってきたし、それを鑑賞できる のも人間だけだ。 ロシア文学、独文学、仏文学ほか、どの土地で書かれようと、どの時代に書かれ ようと、良い作品は、宗教も、人種も、国民性も関係なく人を感動させる力を持つ。 芸術は、国や 文化、思想が違っても、他人の心の動きに共鳴出来る人類の素晴らしさを教えてくれる! (これらの作品はこうも言ってるようだ--「200年も前の作品に感動したのかい?それならば、あなた がた同時代を生きている人間同士が分かり合えないはずは無いでしょう?」と。 そういった傑作を多くの先人たちは 後世の人のために、全力で残してきた。 芸術は、この簡単なことを僕らに気づいて欲しいと手を差し伸ばし、導いて くれている! 素晴らしい芸術作品の存在を知らずに生を終えるか、あるいは、知っていても「難しそう」「面倒くさそ う」と、見て見ぬ振りをして生を終えるのか。 芸術は向こうからやって来ない。 ガンガン自分から動か なくちゃ! クラシックの歴史的名演を聴こうと思ったら、CDを借りるか買わなきゃならないし、本物のゴッホに 触れようと思ったら、電車に乗って美術館に足を運ばなくちゃならない。 ジッとしていて体験できるもの なんかひとつもない。 もう、一瞬たりともムダに出来ない。 読まなきゃならない本、聴かなきゃならないCD、見なきゃ ならない映画、そうした人類の遺産は一生かかっても時間が足りぬほどたくさんある。 日々の 生活の中で、済んだ事にくよくよ落ち込んだり、後悔してるヒマはない。 仮に「愛している」という歌詞があれば、その言葉の鉄鎖がメロディーをラブソングに限定してしまう けど、クラシックは音楽オンリーなので、その時々の感情で毎回曲の内容(イメージ)が変わっていく。 そこにあるものは魂と魂の正面衝突だ。 ゴッホならゴッホがストレートに身体の中に入って来る という、尋常ではない衝撃、緊張感を体験することになる! また、絵画の特徴として感動の即効性がある。 「だめだ、もう、もたない」という緊急事態に、急いで 感動したい時に画集は効果抜群だ。 音楽は序盤の展開から盛り上がりまで一定の時間がかかるし、 映画は2時間、文学にいたっては数日間を要することがあるけど、絵画の場合、瞬間的にアート・ サンダー(芸術雷)の直撃が待っている。 もちろん、韻という言葉そのものの響きの美しさを楽しむことだって可能 だ。 監督や俳優以外に、大勢の裏方の 人間が各作品に参加しており、そうした数百、数千という芸術家の共同作業、互いの信頼関係から 創り出される芸術という点でも映画は特別だ。 2時間で他者の一生を体験出来る点も素晴らしい! 以下に僕の人生を支えてくれた16本の作品を挙げておく。 もし君が誉められたら、周りが素晴らしいお陰なんだ(モーガン・フリーマン)俳優 ・信じて騙されるのは、誠のものを疑うよりどれ程まさっているだろう(倉田百三)作家 ・人生はゼロから生まれゼロに戻るのだから、失敗しても何も損はしない(英コント集団モンティ・パイソン) ・人間は、行動した後悔より、行動しなかった後悔の方が深く残る(トム・ギロビッチ)心理学者 ・失敗じゃないさ。 この方法では上手くいかないって発見が出来たじゃないか。 だからこの実験は成功なんだよ(エジソン) ・「人生で肝心なのは、どれだけ強いパンチが打てるかではなく、どれだけパンチを受けられるかだ」(シルベスター・スタローン) ・カラ元気も元気のうちだ!そのうち本当の元気と取り替えればいい!(島本和彦)マンガ家 ・自分を何も変えないで、ただ事態だけが変わればいいと思っているさまを狂気という(伊藤守)著述家 ・「気づかなかった。 ドアをあけて外に出れば、どこへでも行けたんだ」 (マンガ『ハチミツとクローバー』7巻) ・勇気とは、立ち上がって語るために必要なものであり、また、腰を下ろして耳を傾けるためにも必要なものである(チャーチル)英首相 ・「何が嫌いかより、何が好きかで自分を語れよ!」(マンガ『ツギハギ漂流作家』から) ・ 国際化というのは平均化する事じゃない。 幸せを感じることのできる心を手に入れるんじゃ(甲本ヒロト)ミュージシャン ・「肝心な点は感動すること、愛すること、望むこと、身震いすること、生きること。 芸術家である前に人間であれ」(ロダン)・ ・ 人生どうせ棒に振るならフルスイングで(山口隆)サンボマスターのヴォーカル ・私がこの世に生まれてきたのは、私でなければできない仕事が何か一つこの世にあるからなのだ。 それが社会的に高いか低いかそんなことは問題ではない(相田みつを)詩人 ・自分を励ます一番のやり方は、人を励ますこと(マーク・トゥエイン)作家 ・自由が欲しい時は他人に頼んじゃいけないんだよ、君が自由だと思えばもう君は自由なんだ(リチャード・バック)作家 ・船は港にいる時、最も安全であるが、それは船が作られた目的ではない(パウロ・コエーリョ)作家 ・我々は現在だけを耐え忍べばよい。 過去にも未来にも苦しむ必要はない。 行為が実を結ぶかどうかは、生きているうちに分かるとは限らない。 正しいと信ずることを行いなさい。 結果がどう出るにせよ、何もしなければ何の結果もないのだ(ガンジー) ・世界一美しいものは、その世界自身だ(映画『キャスト・アウェイ』) 【番外編】 若い人たちへ 「自分探し」という言葉がある。 芸術は人間の無限の可能性を教えてくれるし、本は 悩んでいる時間の経過を早めてくれる。 知っていることが少なければ、やりたいことが少ないのも当然。 世界の見聞を広めれば、絶対に好奇心をヒットするものが見つかるハズ!! (なぜ学校で毎日勉強するのか?答えは簡単。 将来やりたいことが見つかってから勉強するより、 記憶力が良い若いうちに色々学んでいる方が効率いいし、職業の選択肢も広がる。 それに知識が 増えることで、 人の判断に頼らなくても自分の頭で考える力がつく。 自力で人生の壁を乗り越える ことが出来る。 そのとき、この世に引き止めてくれたのは、他でもない、芸術や文学でした。 本当に心がパサパサになったときは、芸術に触れても無反応になると聞きます。 だから、肩をすくめられるかもしれない。 でも、事実、僕にはそうでした。 この曲をもっと聴いていたい、この画集をもっと見ていたい、この映画をもっと観たい、 この詩集をもっと読みたい、好きな作品を味わえなくなるくらいなら、どんなに辛くても 生きている方が 「まだマシ」、こうなりました。 僕は辛い時に、 この21世紀の今に生きていることを感謝して踏ん張っている。 もし100年前 に生きていたら手塚先生の作品は無かった。 150年前ならチャップリンの映画が、200年前ならゴッホ の絵画が無く、300年前ならベートーヴェン、400年前ならバッハの音楽が、500年前ならシェイクスピア の作品が無かった。 今このタイミングで生きているからこそ、一生では足りないほど膨大な数の傑作群を味わうことが できるんだ!その意味で、この「幸運」を自分から捨てることは不可能…。 もう人生の選択肢がなくなった、行き詰まって打つ手がない、そう思ったときに文学や映画を通して 違う価値観、 別の生き方の存在を知ることはいくらでもある。 悩める人も、悩まぬ人も、共に芸術は 内なる世界を広げてくれる。 新しい選択肢の存在を教えてくれる。 出会いたかった言葉に出会え、 人は救われるんだ。 若い時は人生経験が乏しいため、感情移入できなくて良さが分からなかった作品でも、生きて世間の 波に飛び込み色んな感情を味わううちに、様々な作品に「自分」が登場していることに気づき始める。 「この作品は…まるで自分そのものだ!」 こんな風に感情移入できる作品があちこちにあることを、やがてあなたは知る。 何なのだこの世界は。 冗談じゃない。 人生に勝ち負けなんてあってたまるか。 競走馬のように同じコースを皆で走っているのならともかく、人は誰も各人が その人だけの道を歩んでいて、進む方向もバラバラ。 コースが全然違うのに、最初からレースになるハズがなく、人は誰も 追い越せないし、追い越されることもない(スタート時の環境も千差万別)。 ところが、今や至る所にこの言葉は溢れ、子どもたちまで 「将来は勝ち組になりたい」と言い出す始末。 もちろん子どもにそんな価値観を教えたのは、僕もその一員である大人社会だ。 アホかと言いたい。 子孫を残すことなんか昆虫でもミジンコでも出来る。 何が幸せかはその人にしか分からない。 独身だから不幸とか、子どもが いないから敗者とか、勝手にくだらない人生観を押し付けないでくれ。 どうしてこんな酷い言葉をバラエティ番組や週刊誌が 無批判・無抵抗に使うのか、全く理解できない。 キリスト教とイスラム教の対立もそう。 この日記でも、しょっちゅう紛争の話が出てくる。 それでも僕が人類に対して完全に 絶望モードにならないのはなぜか?(A)ただの脳天気(B)何か特殊な宗教にハマッている(C)現実逃避の達人 答えは全部ノー!人類を信じざるを得ない確固とした証拠がある。 それがアート!文学!人間は文化・価値観がいくら 違ったところで、「相違点」より「共通点」の方が遙かに多いのだと、 芸術や文学が毎日実感させてくれる!アートは他人の心がむき出しになったもの。 作品に触れて心が動く度にいつも思う 「人間の感情はどこの国でも同じだなぁ」と。 映画を例にしても、イラン映画、中国映画、アフリカ映画、どの文化圏の作品にも、 僕にとって心の宝物になっている映画がある。 生活スタイルが全然違うのに喜怒哀楽はまるで一緒。 それから、海外で日本の古典芸能(歌舞伎や能)の公演が満員御礼になって喝采を浴び、黒澤監督の時代劇が絶賛されたり する、この事実も重要。 海外のアートが日本人に響き、日本のアートも海外の人の胸を打つ。 同じ日本人同士でも、ゴッホ展の長蛇の列(3時間待ち)に遭遇したり、好きなミュージシャンのチケットが即完売になって とれなかった時、超満員の劇場で外国映画を見る度にいつも思う、「みんな本当に芸術が好き」「我々はなんて似ているんだ」と。 ただし共通点はさらに多い」 と付け加えて欲しい。 僕の文芸研究家としての現時点での集大成です。

次の