柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺 技法。 関西の良い所・お気に入りの場所の写真集 奈良編 世界遺産の法隆寺と中宮寺・法起寺

「獺祭」名前の意味と由来とは|カワウソから正岡子規まで・・・

柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺 技法

日本の近代の俳句は、明治時代の俳人、正岡子規に始まります。 江戸時代の松尾芭蕉や与謝蕪村の俳諧、発句に親しみ、研究し、俳句の革新運動を精力的に進めた人物です。 生涯に 20万ともいわれる句を詠んだ子規の作品の中で、一番有名だともいわれる句 「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」。 今回はこの 「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」の 季語や意味・表現技法・鑑賞文・作者などについて徹底解説していきます。 「(前略)やがて柿はむけた。 余は其を食ふてゐると彼は更に他の柿をむいてゐる。 柿も旨い、場所もいい。 余はうっとりとしてゐるとボーンといふ釣鐘の音がひとつ聞こえた。 彼女は初夜が鳴るといふて尚柿をむき続けてゐる。 余には此初夜といふのが非常に珍しく面白かったのである。 あれはどこの鐘かと聞くと、東大寺の大釣鐘が初夜を打つのであるといふ。 」 (意味:女中がむいてくれる柿を食べていると、さらに続けて女中は柿を向き続けている。 奈良で食べる奈良の柿の格別な味に感慨を覚えていると、ボーンという鐘の音が聞こえてきた。 女中にどこの鐘かと尋ねると、東大寺の初夜の鐘(午後八時ころ鳴らす鐘)であるという。 ) 柿を食べていたら、意外にも鐘の音が聞こえてきたという体験は、宿で過ごしていた夜の出来事だったのです。 子規は、 このときの感動や驚きを法隆寺の茶店という舞台設定をこしらえて句を作ったのです。 二句切れ• 倒置法• 体言止め になります。 二句切れ 句の中で、「かな」「や」「けり」などの切れ字がつくところ、もしくは意味上、リズム上大きく切れるところ(普通の文であれば句点「。 」がつく箇所)を句切れと呼びます。 この句は 「柿食えば鐘が鳴るなり」で一度分が終止し、「。 」がつきます。 二句目にあたるところで切れるため、 「二句切れ」句となります。 倒置法 倒置法は、言葉の順序を普通の並びとは逆にする表現技法で、 意味を強める働きがあります。 この句は、普通の日本語の順序でいえば、「柿食えば法隆寺では鐘が鳴るなり」となるでしょう。 そこを「鐘が鳴るなり」をあえて先に持ってくることで、 折よく鐘の音をきたものだという面白みを表しています。 この句は「法隆寺」という体言で終わっています。 古都、奈良を代表する寺であり、 奈良らしさを強調しています。 「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」の鑑賞文 まことに奈良らしい風情の中に、 秋の訪れを実感していることを表す句です。 古都奈良の茶店で、地元名産の柿を食べていたところ、タイミングよく法隆寺の鐘の音が響いてきました。 柿を食べていたことと鐘がなったことには何の因果関係もないけれども、折よく鐘が響いてきて愉快に感じたのでしょうか。 茶店でのんびり柿を食べて休憩をするくらいですから、天気は秋晴れと想像することができます。 青い空に、鮮やかなオレンジ色の柿。 色彩感も豊かな句です。 奈良の御所柿は甘く、ジューシーで、そこはかとなく粘りも感じられる極上品です。 それを味わっているところに鐘の音が響いてくるわけですから、 五感がフルに働いていることになります。 ユーモアも感じさせる明るい句ですが、正岡子規が旅をすることができたのはこの時が最後となりました。 「柿食えば」の句を詠んだころの正岡子規 (正岡子規 出典:Wikipedia) 「柿食えば」の句を詠んだころ、正岡子規はどのような暮らしをしていたのでしょうか? 「柿食えば」の句からは、ほのぼのとした明るさやユーモアも感じるのですが、この時の子規はなかなかに深刻な状況にありました。 この句が詠まれた明治 28年( 1895年)、当時の 子規は28歳です。 明治25年 1892年)に日本新聞社に入社。 俳句の革新運動に本格的に取り組み始め、俳句に関する本を書いたり、新聞「日本」に俳句の欄を設けたり、精力的に活動し、明治 28年 1895年 には日清戦争従軍記者として、中国に渡っていました。 俳人として、ジャーナリストとして、活動の幅を広げていたところでした。 ところが、そんな子規に 病が襲ってきたのです。 中国からの帰国の途上、子規は大量の喀血をして帰国後すぐに入院。 一時は重体に陥りました。 喀血 血を吐く というのは結核の症状で、これは治癒率の低い、恐ろしい感染症です。 5月に帰国したものの、兵庫県の病院で入院して過ごし、住まいのある東京にはなかなか帰ることができませんでした。 8月末に子規は、故郷松山に療養のため向かいます。 この時、松山で子規を迎え入れたのは、かの有名な文豪、 夏目漱石でした。 (夏目漱石 出典:Wikipedia) 夏目漱石は、正岡子規とは帝国大学の同窓生でした。 子規と漱石は深い友情で結ばれており、「漱石」という雅号も、もとは子規がつかっていたもののひとつであったと言われています。 松山で、子規と漱石は多くの句を作って過ごしました。 このころの夏目漱石の句には・・・ 「鐘つけば 銀杏散るなり 建長寺」 (意味:建長寺の鐘をついた。 境内ではぎんなんが散っていることだ。 ) という句があります。 秋の木の実と寺の鐘と言う取り合わせ、句の調子がよく似ています。 子規の「柿食えば」の句は「海南新聞」 11月 8日号に発表されたのですが、それをさかのぼること約 2カ月。 9月 6日号に漱石の「鐘つけば」の句が発表されているのです。 「柿食えば」の句は、漱石の「鐘つけば」に触発されて詠まれたともいいます。 松山の漱石のもとで 2カ月近くを過ごした子規は、ようやく東京に向けて出発しました。 その途上で広島、大阪、奈良に立ち寄っているのです。 奈良で、「柿食えば」の句を詠んだのは 10月 26日。 実際は雨だったようですが、前夜に柿を食べながら聞いた東大寺の鐘の音に抱いた感興を法隆寺の近くの茶店という舞台設定に変えて、子規は「柿食えば」の句を詠んだのです。 このころ、子規は腰痛も抱えていました。 子規は、リウマチだろうと考えていたようですが、これは結核菌が脊椎に入り込んで病変を起こす、脊椎カリエスの症状の始まりでした。 病は確実に子規の体を蝕み、苦しめていたのでした。 このような子規の病状から、 子規は実際に法隆寺まで出向いてはいないのではないか、東大寺の初夜の鐘を法隆寺の鐘によみかえただけでなく、法隆寺を訪れたことさえもフィクションだったのではないかともいわれています。 そうだとしても、 これだけ人の口に膾炙し、愛されている句はそうあるものではありません。 正岡子規と柿の関係は切っても切り離せない 子規は 随筆「くだもの」の中で、このようにも述べています。

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完全初心者です:俳句の添削・・・否、完全修正お願い致します。 冥界

柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺 技法

正岡子規・選集 // 正岡子規・選集 〜 柿食へば 鐘が鳴るなり 法隆寺 〜 <松山城> / // / 選者: 星野 支折 INDEX = 選者の言葉 = <子規 の句の選集に当たって> 子規/明治維新・激動期の俳人 2011. 7.23 <・・・子規の生い立ち・・・> 2011. 7.23 柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺 2011. 7.23 風呂敷をほどけば柿のころげけり 2011. 7.23 柿くふも今年ばかりと思ひけり 2011. 7.23 雪ふりや棟の白猫声ばかり 2011. 7.23 = 選者の言葉 = 子規/明治の旅姿 2011. 8.14 春や昔十五万石の城下哉 2011. 8.14 行く我にとどまる汝に秋二つ 2011. 8.14 六郷の 橋まで来たり 春の風 2011. 8.14 芭蕉忌や芭蕉に媚びる人いやし 2011. 8.14 = 選者の言葉 = 子規/子規庵 2011. 9.12 山吹も菜の花も咲く小庭哉 2011. 9.12 紫の蒲團に坐る春日かな 2011. 9.12 牡丹画いて絵の具は皿に残りけり 2011. 9.12 牡丹ちる病の床の静かさよ 2011. 9.12 鶏頭の十四五本もありぬべし 2011. 9.12 句を閲すラムプの下や柿二つ 2011. 9.12 思ひやるおのが前世や冬こもり 2011. 9.12 何事もあきらめて居るふゆ籠 2011. 9.12 湯婆燈炉あたたかき部屋の読書哉 2011. 9.12 釈迦に問ふて見たき事あり冬籠 2011. 9.12 子規の句の選集に当たって 選者の言葉(1) 子規/明治維新・激動期の俳人 <明治神宮> <正岡子規> 「 星野支折です! 小林一茶、 松尾芭蕉、 与謝蕪村に続き...いよいよ、 近代/明治の 正岡子 規 (1867〜1902年)の 登場です。 ええと... 《当・ホームページ》では、この順で考察しました。 一茶が 没したのが 1827年であり... 子規が 誕生したのが 1867年 (明治元年の 前年)です。 あ、この 計 算は面白そうですね。 他も見てみましょうか。 芭蕉 (1644〜1694年)が 没したのが 1694年です。 ところが、その後、 大変なことが起こったわけです。 徳川幕藩 体制/江戸時代が... 大瓦解してしまうわけです。 さあ... 〔明治元年〕...になります。 天井の抜けたような、 若い上昇志向時 代が到来します。 正岡子規は... 明治元年の 前年に生まれ...この ダイナミックな時代の、ま さに 中枢を駆け抜け... 明治35年/満35歳で没しています。 子規 は、 もち ろん 俳号 です。 この 俳号 は、 啼 (な) いて血を吐く、 ホトトギスを意味しているそうで すよ...つまり、 子 規という 俳号は、 ホトトギスの 異名なのだそうです。 子規は、 21歳の時に 大喀血 (大かっけつ) して以来、 35歳で没するまで、 肺結核と 脊椎カリエスに苦しみました。 カリエスとは、骨が 壊疽 (えそ) を起こして、 崩壊して行く 疾患だそうです。 結核菌 による 脊椎カリエスが、代表的と言われます。 子規の 腰痛/激痛は、この 脊椎カ リエスから来ていたわけですね。 うーん...そのような 苦しい病床で...子規は、 死の直前まで、 新聞/ 『日本』 に 執筆していたと言われています。 俳句に打ち込んだ、 壮絶な人生だったよう で すね。 最後の句は 3句あったそうですが、 次の句はそのうちの 1句です... をとといの へちまの水も取らざりき (子規) ... ヘチマは 痰 (たん)を切る 効能がある、と言われていました。 でも、それも、 死出の旅の前には、忘れてしまっていたようです。 それ では間に合わないほどに、 症状が悪化していたわけですね。 子規は、 東京という 文明の中枢にいました。 また、 記者として、それなりの 収入 もあり、 地位もあり、 多くの友人もありました。 でも、 肺結核と 脊椎カリエスの 末期 であり、 当時としては、こんな 治療しかできなかったのでしょうか。 抗生物質/ペニシリンを 発見されたのは、 1929年です。 イギリス人医師/フレ ミングによるものですね。 でも、 ペニシリン系抗生物質は、 結核菌には 効果はあり ませんでした。 肺結核に対しては、 抗生物質/ストレプトマイシンの 発見まで、待 つ他はなかったのです。 子規が 没したのは...ええと... 日露戦争 (明治37〜38年/1904〜1905年)の 2年 前... 明治35年 (1902年) /9月19日 (・・・へちま忌/子規忌・・・) ですね... そして... 日露戦 争で ロシアが敗れ...若き日の セルマン・ワックスマン (ウクラ イナ出身/米ラトガーズ大学教授/生化学者)が、 ロシアの大地から アメリカの地に、渡ること になります。 これもまた、 運命なのでしょうか。 ワックスマンは... アメリカの大学で 農学を学び...やがて、 土壌中の 放線菌 から、 抗生物質/ストレプトマイシンを 発見することになるわけですね。 その 翌年の 1946 年のことですね。 子規の闘病生活には、とても間に合いませんでした... かつて... 日本にも、空気の澄んだ 高原や 海浜に... サナトリウム/療養所 が、数多くあったようですね。 それは、 結核療養所をさすことが多かったようです。 以前、 ボス (岡田)から教わった言葉ですが... 『チベット の死者の書/バルド・ソドル (BARDO THODOL) 』...の巻頭に、次のような言葉が ありました。 死ぬことを学ぶことなく。 死ぬことを学 べ。 そして汝は、生きることを学ぶだろう。 私は、ご存知の通りの 未 熟者ですが、一緒に、少しづつ 考察してみたいと思います...」 <・・・子規の生い立ち・・・> 支折が、顎に指を押し当てた。 かすかに汗ばんでいた。 今日も、ジリジリと暑く なって来ている。 ちょうど、ポン助がかき氷を盆に載せ、やって来るのが目に入った。 サーッ、と さわやかな風が入って来た。 彼女は、反対側の窓の方を眺めた。 開け放された 窓の外に、夏野菜が鬱蒼 (うっそう)と茂っている。 伸びたトウモロコシが毛を吹き出し、トマトが重そうに実をつけている。 隣のキュ ウリの藪は、葉の陰に瓜を隠し、黄色い花を無数に咲かせている。 そして、窓際 のヘチマは、窓に日陰を作っていて、上の方にヘチマ瓜が垂れ下がっていた。 「御苦労さま!」支折が、盆の上からかき氷を取った。 「今日も暑くなるよな!」ポン助も、窓を眺めた。 「そうね、」支折も目を細めた。 「今日は、何処かへ行くの?」 「オウ... ブラッキーのヘリで、 《軽井沢基地》へ行って来るよな...響子が、厨房を手 伝ってくれって言うからよう」 「そう...」支折が、サク、とかき氷にスプーンを立てた。 ポン助が、部屋を見まわし、ブラリと出て行った。 「ええ...」支折が、かき氷をソッと離し、姿勢を正した。 「始めます... ともかく 子規 は... 慶応3年9月17日 ( 1867年10月14日/ 明治元年の前年) に... 伊 予国/温泉郡/藤 原新町 (愛媛県/松山市/花園町) に 、 松山藩士/ 正岡常尚 の 長男 として生まれました。 母/ 八重 は、 藩の儒者/大原観山の長女ということです。 儒 者が、長女を嫁に出したわけですから、それなりの人物だったはずです。 そして、 子規が 没したのは... 満35歳... 明治35年 (1902年) 9月19日です。 つまり、 子規は、 維新の年/明治元年 (1868年10月23日) の 前年 に生まれ、まさに 大変革 の 激流の中で、その 35年の生涯 を駆け抜けた...ということになります。 (年齢にズレが出るのは... 明治元年が...10月23日か ら始まり、わずか2ヵ月と1週間ほどしかなかったか らです) 「うーん...」支折が、かき氷を口に入れた。 「 近代/明治時代に入り... 子規の 資料も、質の高いものが、相当にあるようですね。 写真資料もあり、 激動 の 明治時代の群像も浮かび上がります。 これが、 子規という 俳人の、 歴史上の ポ ジションの良さですよね... それは...そうした 時代に生まれた 人間の必然ですが...ともかく 国家全体 が、 希 (まれ) な上昇志向の時代にあり、 若いエネルギーに満ち溢れていました。 そうした中で、私にとって身近なのは... 司馬遼太郎の 小説/『坂の上の雲』 に描かれている、 正岡子規の姿です。 日本海海戦で、 ロシアの バルチック艦隊を 撃破した... 連合艦隊司令長官/ 東郷平八郎・提督 艦隊の総司令官 の 麾下 (きか: ある人の指揮下にあること)に... 秋山真之 (あきやまさなゆき) ・参謀がいました。 その 秋山真之が、 子規の 竹馬の友だったという ことです。 名前は、前にも言ったように、 常規 (つねのり) です。 幼名は、 処之助 (ところのすけ) で あり...後に、 升 (のぼる) と改めています。 子規の生い立ちは... 松山藩士の 長男として生まれたわけですが、 翌年は 明 治元年 (1868年10月23日)です。 江戸/徳川幕藩体制は、すでに 瓦解しているわけ ですよね。 そして、それ以後は、 武士階級は誰もが、 生活が困難な時代になって 行くわけです。 なぶること)されたのも、この時代の出 来事です。 高い気位が 邪魔をして、なかなか 商人にはなれなかったようです。 武 士階級が、 〔維新・・・大革命〕を引き起こし、 武士階級が 時代から抹殺されたわ けです。 ええ... 子規の父は、 明治5年 (1872年)に没しています。 それで、 子規は幼くし て 家督を相続しています。 そのために、 母方/藩の儒者/大原家と 、叔父の 加藤 恒忠 (拓川) の 後見を受けています。 幼少時代は、 大原観山の 私塾に通い、 漢書の 素読も しているようです。 それから... 明治13 年 (1880 年 ) に、 旧制・愛媛一中 (/現・ 松山東 高校 )に入学して います。 秋山 真之とは、ここでも 同級になっています。 そして、 明治16年に 中退し て、 上京しています。 東京で 受験勉強のために、 共立学 校 (/現・ 開成 高校)に 入学し ています... その翌年には... 旧・藩主家/久松家の、 給費生とな ります。 この点、 高松藩 というのは... 〔幕藩体制崩壊/明治維新〕...という 大混乱期において、非 常に 教育熱心だったようです...これも、詳しくは分かりませんが、 特筆すべきこ とかも知れませんね。 多くの人物を輩出しているようです。 ともかく... 秋山 真之 も、 子規を追いかけるように 上京しています。 それから、 二人とも、 東大予備門 (後の 一高 ・・・ 現/東大教養学部) に 入学し、 常盤会・寄宿舎 (ときわ かい・きしゅくしゃ) に入っているようです。 常盤会・寄宿舎というのは... 旧・松山藩主/久松家が、 本郷の 坪内逍遥 (つ ぼうちしょうよう/明治時代の、小説家、評論家、翻訳家、劇作家)の邸を買い取り、建て増しをし、 常盤会の 寄宿舎としたものです。 常盤会は、 給費生も募っていましたが... 秋山 真之は 兄/秋山好古 (あきやまよ しふる/当時は、陸軍大学1期生だったでしょうか...?)の 援助で、 就学していました。 この 兄 弟は、 官費の 士官学校の道を選び、 陸軍・軍人と 海軍・軍人の道を歩み、その方 面で トップに上り詰めています。 子規は... 東大予備門では、この 秋山真之 の他に... 夏目漱石 (小説家/1000 円札の肖像) 、 南方熊楠 (みなかたくまぐす: 博物学、生物学/特に菌類、民俗学 ) 、 山田 美妙 (やまだ びみょう/小説家、詩人、評論家/ 言文一致体、新体詩運動の先駆者) など ... 明治期のそうそう たる人物が、 同窓生だったようです。 まさに、 そういう時代だったわけですね... 明治23年... 子規は、 帝国大学 /哲学科に進学したのですが、 文学に興味 を持ち、翌年には 国文科に 転科しています。 ええと、 くり返しになりますが... 明治22年に、 子規は 21歳で 、 大喀血 (だいかっ け つ)を していま す。 そ れで... 血を吐いて啼 (な) く鳥/ ホトトギス/子規 (ホトトギスの 異称) としたよう ですよ。 『坂の上の雲』では...その後、 秋山真之は 官費の 海軍士官学校へ舵を切り ます。 子規は 大学を 中退し... 叔父/加藤拓川の紹介で 、 明治25 年に、 新聞/ 『 日本 』の 記者になります。 奈 良県/生駒郡/斑鳩町にある...聖徳宗/総本山ですね... 第31代/用明天皇 (?〜587年) は、自らのご病気の平癒 (へいゆ: 病が治 ること) を祈り、寺と 仏像を造ること誓願 (せいがん) されました。 しかし、その 実現を見ぬままに、御崩御されたのです。 そこで、推古天皇 (554〜628年) と摂政/聖徳太子 (574〜622年) が、そ の遺願を受け継ぎ、 推古 15年 (607年) に、本尊/薬師如来 (やくしにょらい) を納めるために、この寺を造営され たと、伝えられています。 《与謝蕪村・選集》でもコメントしましたが...この推古朝から、歴史区 分としての飛鳥時代が始まっています。 国宝・重要文化財に指定されたものだ けで...約190件/2300余点に及んでいるそうです。 これは、日本での初めての登録だったそうです。 世界的にも、非 常に貴重な、仏教文化の宝庫となっているわけですね。 その柿を、旅先で 食べていると...法隆寺の鐘が聞こえてきたのでしょう... 季節は、秋...鐘の音は、澄んだ秋空に響いたのでしょう...秋の旅 情を感じさせ る 名句です... ところで...この句は、最初は法隆寺ではなく、東大寺近くの宿屋で詠 んだという説があります。 研究家によれば、子規が奈良を訪れたのは、愛 媛県/松山での夏目漱石 (/先生として赴任。 松山は、『坊っちゃん』のモデルになっ た所) との共同生活を打ち切り、東京へ戻る 途次 (とじ: 道すがら) だったという ことです。 肺結核を病んだ後、脊椎カリエスのために、また腰が痛み始めた頃で、 健康状態は良くなかったようです。 でも、奈良を訪れることは、子規の長年 の願望だったといいます。 子規は奈良へ着くと、東大寺/南大門近くの旅館に宿をとったといいま す。 そこでは ... 大仏の足もとに寝る夜寒かな (子規) ...という句を残しています。 おそらく子規は、病気の回復を、大仏様に 祈ったことでしょう。 同時に、人は死に、時代は移り、歴史が重ねられて行 くことを...子規は、寒々と実感したのではないでしょうか。 さて...子規が部屋でくつろいでいると、旅館の女中が現れ、子規の好 きな柿の皮を剥 (む) いてくれたそうです。 その柿を食べていると...ゴー ン...と東大寺の鐘が鳴ったのだそうです。 この鐘の音が、非常に印象 的だったようですね。 子規は、その時のことを...『ホトトギス』 (俳句雑誌/明治30年に松山で創 刊。 正岡子規・主催。 翌年/東京に移し、高浜虚子が編集) の、明治34年4月25日 号 に掲載された...随筆/『くだもの・・・御所柿 (ごしょがき) を食ひし事』に 書いているそうです。 一方...子規が法隆寺を訪れたのは、奈良に来て4日目であり、その 日の天候は、あいにく雨/時雨 (しぐれ)だったようです。 子規は、蕪村の風景の写生/スケッチを高く評価し、それに傾倒したわ けですが...ここでは東大寺の鐘の音と、法隆寺を合体させたのでしょう か? ホホ...子規はどうしても、法隆寺にしたかったのでしょうね...むろ ん、そこにより迫真性があるのなら、それでも良いわけです。 写生ですか ら、写真とは違い、真実にこだわる必要はないわけです。 ピカソのようなキュビスム的な写生や...ダリのようなシュール・レアリ ズム/超現実的な写生というものもあるわけです。 その日は雨だったとか、天文学的に違うとか言われますが、芭 蕉は天文学者ではないし、天文学のことを言ったわけではありません。 子規も...柿を食べながら聞いた東大寺の鐘の音を...法隆寺とした のかも知れないということです。 面白いですね。 そして、この句が、まさに子 規の代名詞のような、名句になっているわけです。 写生と、かけ離れているといえば...子規が師と仰ぐ蕪村などは、丹波 太郎 (丹波の空に出る入道雲)と酒呑童子 (その辺りを根城にする鬼の頭領)を、合体 させていましたよね... ホホ...絵画による写生と、言語による写生の違いなのでしょうか... さて、句意ですが...柿を食べていたら、秋空の中 で... ゴーン...と 澄んだ鐘の音が響いて来た...と詠んでいます。 薄暮の中に沈んで行く...法隆寺・五重塔...法隆寺・金堂...法隆 寺・夢殿などの大伽藍が...また1日...尊い古 (いにしえ) からの...時 を重ねて行きます ... その鐘の響きに...推古朝の華やかな飛鳥文化が...1400年前の 歴史の彼方から...その笑い声が、かすかなさざめきのように...聞こ えて来はしないでしょうか... 子規は...脊椎カリエスで、腰の痛みが再発して来ている中で、過ぎ去 りし古代王朝の繁栄を、どのように感じたのでしょうか。 ちょっとなつかしい、 日常生 活の万能・小道具です。 これは、今でも非常に便利ですよね。 上 に、唐草 模様の風呂敷包みのイラストがあります。 何でも包んで、キュッと結べば、 1つのお荷物になります。 さて...この句を調べてみ たら、エピソードがありました。 明治32年の ことです。 大きな風呂敷包みだったのでしょうか。 子規が、さっそく風呂敷包みを開 けてみると、荷物の端から、柿がゴロゴロと転がり出て来たということです ね。 子規は、この柿がよほど嬉しかったのでしょうか。 それにしても...小平宗平とは、何者なのでしょうか?ネットで検索して みました が、ヒッ ト し ませんでした。 俳句関連の、ゆかりの人だったのでしょ うか。 ホ ホ...また、浅学のほどを、晒 (さら)してしまいました... 子規が没したのは、明治35年の9月19日ですから、明治32年といえ ばその3年前であり...まさに病床にあった時ですよね。 明治27年に、子規はこの家に 転居し、松山から母と妹を呼び寄せています。 子規はここで、多くの友人、門弟に支えられ、俳 句、短歌、国語学に邁進する人生を送ったわけです。 説明する必要もなく、明瞭な風景です。 子規は...写生/スケッチに...傾倒した句を作っていたわけです。 でも、少し行き過ぎの観があると言われます。 うーん...どうなのでしょう か...ともかく、次の句を見て行きましょう...」 柿くふも今年ばかりと思ひけり 「季語は...同じく...柿/秋ですよね ... この句は...いよいよ、不帰の客となる年に、詠んだ句のようですね。 子規が亡くなったのは、何度も言いますが... 明治35年 の 9月19日で す。 うーん...どうなのでしょうか?9月19日で...柿が、熟しているので しょうか?早生の柿なら、この季節には、食べられたということでしょうか? あ、でも...その年に、そう詠んだのだとしたら...やっぱり、そうなので しょうか?ホホ...浅学の徒が、余計な心配をしてしいます。 ええと...そう言えば...一茶も、父が今際 (いまわ: 死にぎわ)の時... 春だったか、夏だったか忘れてしまいましたが...何故か、梨が食いたい と言いだしたようですね。 それで一茶は...信濃/柏原宿から、善光寺の方まで...梨を買い に出ています。 でも、やっぱり売っているはずもなく、トロトロと引き返した ようですね。 笑えない話ですが、現在なら分かりませんよね。 冬でもスイカ やキュウリが売られている時代です。 肺結核と、脊椎カリエスを患っていた子規は...病床7年あま り...いよいよ、自ら死期を悟ったようです... それにしても...若い身で...これほど長く、自らの死を見つめた人間 も、珍しいのかも知れません。 2つの、屋根面が接合する部分 のことですね。 でも、その棟の上/表面ではなく、下/屋根裏側に、猫が 入り込んでいるのでしょうか。 子規は、愛媛県/松山で生まれ育ったため、雪の降る本格的な冬とい うものを体験していなかったと思われます。 そして、東京で初めてそれを体 験したのでしょう...明治初期 (/明治18年に詠まれた句) の、東京の光景で す... 子規は、明 治元年の前年に生まれていねわけですから...やはり子規 も18歳ぐらいの時ですしょう。 東京は、江戸幕藩体制から、近代/明治時 代に移行し、急速に変わりつつあったわけですね。 何百年と続いた、公方様がいなくなり、天皇が千代田のお城に入り... 周りには、西洋建築もどんどん建てられて行ったわけです。 でも、まだ明治 18年のことであり、江戸時代の家屋や街並みの方は、それほどの変化は なかったのでしょうか。 そんな時代に、詠まれた句ですね。 姿は見えないけれども、白猫と分かる関係のようですね。 松山を出て2年目... 東京で受験勉強のために、共立学校 (現・ 開成 高校) に入学し、それから、 東大予備門 (のちの 一高 ・・・ 現/東大教養学部) に入った 時代 の 句ですよね。 ちなみに... 明治18年1 月8 日付/ 松山の竹村鍛 (たん) に送付した 手 紙にも...この句が添えられていたようです。 つまり、詠まれたのは、それ 以前ということになります...正月前か、正月後でしょうか... 竹村鍛 たん/ 錬卿・黄塔 は ...子規の無二の親友であり、文学面の好敵 手でもあり...河東碧梧桐 (かわひがしへきごとう: 俳人、随筆家 ...松山生まれ。 高浜虚子とともに子規に師事) の 3番目の兄 のようです。 松山の学生時代は、共 に回覧・小雑誌を作ったりしていた仲間で、子規の文学的基盤は、この頃 に作られていたようです。 この頃すでに、靖国神社が あった ということでしょうか?ともかく、時代が急速に流れていますよね... ええと...子規が喀血するのは...明治22年/ 21歳の時です。 これ らの句は、それよりも4年ほど前のものです...」 選者の言葉 (2) 子規/明治の旅姿 <旅姿の子規・・・明治24年/房総の旅> <わらじの緒を結ぶ子規・・・明治25年/箱根の旅> 「 星野支折です... マグニチュード9.0の地震、 津波災害、 4機まとめての同時原発事故、そして 集中豪雨による水害、 被災地方での電力の逼迫 (ひっぱく)...そうした中で、 東北 は 新盆 (にいぼん/あらぼん: その人が死んで最初の盆)を迎えました。 盆は、 盂蘭盆 (うらぼん)の略で、 陰暦/7月13 日〜16日にかけて行われる 先祖供養です。 陽暦の、 8月13日〜16日になりま すね。 これは、 古い昔からの慣習です。 あ... 東京など、 陽暦の 7月13日〜16日に行う地方も多いようですね。 その 頃になると、 お坊さんが 街を歩いているのを見かけたりしますよね。 申し訳ございません。 これによれば、 目蓮は 釈迦の教えに従って... 7月15日の 自恣日 (じしにち: 夏安 居/げあんご・・・夏行の、最後の日) に、 百味の飲食で 僧侶を供養したので... 餓鬼道に 落ち た 母を救うことができた、と言います。 この 故事によって... 7月15日の 盆供養は、 7世の父母をも救いうる、と考え られています。 うーん... 7世前までの先祖ということでしょうか... 中国では 6世紀前半ごろ... 梁 (りょう) の武帝によって、 孟蘭盆会が始められた ようですね。 日本では 657年 (斎明天皇3年) に...初めて、 孟蘭盆会を設けたとさ れてい ます。 以後、 宮中でも 孟蘭盆会が催され、 恒例行事となっているようです」 「ともかく...」支折が、脇にあるハンカチの上に手を置いた。 「 東北の 被災地も、 お盆が過ぎれば、 例年のように、すっかり涼しくなるのではないでしょうか。 頑張っ て欲しいと思います。 〔未来社会への遺産・・・極楽浄土/パラダイス〕...は、もう 視界に入って 来ているのではないでしょうか...是非、それを、 実現して欲しいと思います、」 <明治の旅姿> 「ええ、さて...上の写真は、 旅姿の 正岡子規です... ようやく 写真資料が残る、 明治時代になりました。 これはネットで見つけたもの ですが、 著名な 文学者であり、今さら 肖像権もないと思い、掲載しました。 何かの 権利に抵触するようでしたら...申し訳ないことを致しました...」 「うーん...」支折が、団扇 (うちわ)を取り上げ、胸元を扇 (あお)いだ。 芭蕉も、 蕪村もそうでした。 そ して、それ以前の 歌人/連歌師である、 西行・法師も 宗祇・法師も、 法師などと呼 ばれていたわけですから、当然、 僧形だったわけですね。 歌や 発句を詠み、 日本中を 漂泊している 歌人や 俳人は、 遊行 (ゆぎょう: 僧などが、 布教や修行のために、諸国をめぐり歩くこと)の 僧形が、人々に怪しまれることもなく、都合が よかったものと思われます。 そうした 僧形というものが、一種の 職業的服装にもなっていたのでしょうか。 僧 形のようで、 本当の僧とは少し違い、しばしば寺にも出入りしている 姿ということ で、なんとなく 風流人だと分かるような...それで、周囲の 視線も、納得できたの かも知れませんね。 うーん...確証はないのですが... 子規はおそらく、 僧形だったことは一度も なかったと思います。 ともかく、上の写真のような姿で、旅をしていたわけですね。 やはり、 文明開化/明治時代の空気を感じますよね。 近代の 空気です... でも... 脚絆 (きゃはん: 旅行、作業などの時に、スネにつけて脚ごしらえをした布)に、 袴 (はかま) に、 草鞋 (わらじ)、そして、 大きな菅笠 (すげがさ)という 写真に残る 子規の 旅姿は、 江 戸時代と何ら変わらないものです。 明治時代は、急速に 西洋文明が入って来るわけですが... 写真/左の肩に 見える 振り分け荷物も... 写真/右の 風呂敷包も... 明治25年当時の 旅装を 偲ばせます。 これが、当時の 普通の旅の装備だったわけですね。 江戸時代/260年というより、それ以前から 何百年も続いて来た、 日本の 旅人 の姿です。 江戸時代には、 五街道 (東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道)をはじ め、 街道や 宿場が整備され、 旅/交通/物流も、随分と 洗練されて来ました。 でも、 個人装備は、 鉄道旅行が本格化するまでは、あまり変化はなかったよう ですね。 そして、やがて 鉄道旅行の時代が長く続きます。 そして、さらに 旅客機が 参入して、 距離が飛躍的に伸び、 旅は 国際的になります。 こうした 輸送力というものは、 軍隊の 機動力とも 不可分のものでした。 また、こう した 大輸送力と並行して、 自動車というものも、 旅を 大きく変貌させてきました。 も う、 草鞋と 菅笠は、何処にも見当たらなくなりました。 かすかに 名残りがあるのは、 ハイキングや トレッキングや 登山の 装備でしょうか。 うーん...写真では、 杖も見えます...これも、いかにも 時代を感じさせるもの ですね。 江戸時代では、 士分の者は 二本差しだったわけです。 ともかく、この 重い 無用の荷物は、無くなったわけですか。 要するに...この 写真では... ザンギリ頭の 髪型だけが、 文明開化の時代を 感じさせています。 日本全国に...急速に 鉄道が敷かれ... 輸送力が 飛躍的に増大して行きま す。 まさに、 富国強兵を見せつけるのが、 鉄道だったわけですね。 そして、いわゆ る 旅も、 旅行という 形態に変貌していくわけです。 西洋建築物が増え、 旅の形態 /旅姿も、 激変して行くわけです。 でも、それは... 鉄道の敷かれた周辺や、 ハイカラな船旅のことで、他では相 変わらず、 草鞋 (わらじ)が使われていたわけですよね。 草鞋や 草履 (ぞうり)は、手軽 に、自分で作れる 履物でした。 その意味で、 非常に便利なものだったのです。 子規の 親友の 漱石も...私たちは、 千円札の肖像/ダンディーな背広姿が馴 染 (なじ)んでいますが... 明治28年/松山中学 (/『坊っちゃん』のモデルになった所)へ赴 任した頃は、 子規の 写真のような 旅姿だったのでしょうか。 ホホ... 愉快ですよ ね。 あ... 漱石はこの後、 イギリスに 留学するわけですが...そこで、 英国風の ダ ンディーな 紳士服/背広が身についたのでしょうか。 そんな二人ですから、 仲が良かったわけですよね...」 <新聞『日本』への・・・入社に関して > <ホトトギス: 夏の季語/渡り鳥/ヒヨドリよりも大きく、ハトよりは小さい・・・> 「ええと... 子規は... 明治25 年/25歳の時... 後見人でもあった 叔父/加藤拓川 の 紹介で 、 新聞『 日本 』の 記者になります。 ここを、 文芸活動の拠点とするわけです。 新聞『 日本 』 について...ちょっと調べてみたのですが、 陸羯南 (くがかつなん/ 1857〜1907年/・・・青森県/弘前市の生まれ) によって 創刊されています。 彼は 上京し、 司 法省/法学校に 入学しましたが、 中退して 帰郷し... 青森新聞社の 主筆をして います。 子規もそうですが、当時はよく、気軽に 学校を 中退していますよね。 それから、 明治16年に再び 上京し... 太政官御用係、 官報局/編集課長を 歴任し... 明治21年に、 新聞『東京電報』を 発刊しています。 そして、その 翌年 /明治22年に、 新聞『日本』を 創刊しています。 子規が、 最初の喀血をした頃で しょうか。 陸羯南は、 新聞『日本』の 社長兼主筆でした...この時代に、 徳富蘇峰 (とくとみ そほう/1863年〜1957年/・・・九州/熊本の生まれ。 徳富蘆花の兄。 民友社を設立し、『国民の友』、『国民 新聞』を発刊・・・後に、政界に入る)等と 対峙し... 独自の論説を展開した、 孤高のジャー ナリストだったようです。 その代り月俸は 15 円である。 社の経済上予算が定まっているので、本年中は致 し方が無いが、来年になれば多少何とかなるであろう。 それ とも、 俳句をひねっていた 子規を、 よほどの逸材と見たのでしょうか...あるい は、 叔父/加藤拓川 の 紹介/コネが、よほど効いたのでしょうか...? もちろん... 家柄や 人脈で、乗り切れる 言論界ではないわけです。 やはり、 子 規の 才能/可能性を見ていたわけですね... その 前年/明治24年/写真左... 子規は 房総へ旅をしています。 そして、 明 治25年/写真右...今度は 箱根へ行っているわけです。 こうした、 旅/行動力 と、 俳句と、 文章力が、 高く評価されていたわけでしょうか。 ホホ...なんとも、お おらかな時代でした ... あ、この 新聞『日本』 ヘの入社の ことで... 子規は、 叔父/ 大原恒徳 (母/八重 の弟) に 手紙を送っています。 ふーん...互いに惚れ込んでいたのでしょう... ともかく、ようやく 給金をもら えるようになり... 松山にいる 母と 妹/律を呼び寄せ... 東京で一緒に暮らし 始めます。 21歳の時に 喀血していたとはいえ、 子規は男として、 独り 立ち ができ たわけですね。 これは... こうした世界では 非常に重要です。 一茶などは、 江戸で 俳諧宗匠と して 独り立ちする 夢を、ついに果たせず、 故郷/柏原に帰って行くわけです。 子規の場合は、 俳句はそれほどうまくはありませんが... 新聞『 日本 』の 記者 という... 明治/ 言論界の枢要なポスト を...楽々と得ているわけです。 入社・翌年/明治 26 年には... 新聞『 日本 』に... 『獺祭書屋俳話 (だっさいしょ おくはいわ) 』を 連載 し、 俳句の 革新運動 を開始します。 ともかく、その 評判が良かっ たというわけです。 評判が良くなければ、続けられません。 やはり、 実力の世界で すから... さらに... 翌・明治27年/夏... 日清戦争 が 勃発します。 すると、 子規は、 明 治 28 年/4月 に... 近衛師団 (このえしだん: 大日本帝 国陸軍 の 師団 の1つ。 一般師団とは異な り、最精鋭/最古参の 部隊。 天皇 と 皇居 を警衛/儀丈部隊としての任務もあり・・・ ) 付きの 従軍記者とし て、 中国大陸/遼東半島 に渡ります。 その前の、血気盛んな 子規の 句 です... 行かば我れ 筆の花散る所まで (子規) ホホ... 子規の 予想に反し... 日清戦争はあっけなく 勝利してしまいました。 俳句に見られるように... 勇んで参加した 従軍の仕事は、 物見遊山のような 遊 びになってしまいました。 子規のはしゃぎぶりは... 当時の戦争というものを考えると...仕方のないこ とと思われます。 戦争が本当に 不毛で、 悲惨なものになって行くのは... 第1次 世界大戦からだと... 軍事担当/大川慶三郎さんが、私に話してくれました。 第1次世界大戦では... 主戦場は ヨーロッパだったわけですが...本当に多 くの人々が死んで行ったようですよ。 西部戦線では、 塹壕 (ざんごう: 敵弾を避けるために、溝を掘り、前方に土や土のうをつみあげたもの) 戦が生起したと言います。 その長大な 塹壕線は... スイス国境から イギリス海峡 まで延び... 数百万もの 若い兵士が動員され... ライフル銃や 機関銃の前に、 生身の体をさらしたわけです。 塹壕に対する 迫撃砲 (/曲射弾道)や、 毒ガス、 飛行機、 戦車などの 新兵器も続々 と投入されましたが... 新兵器は、 量的に、 戦局を変えるものにはならなかった と言います。 そうした中で、 長期 ・消耗戦 の様相になり、 多くの若い命が失われて 行ったといいます。 推定/感染者6億人、 死者 4000 万人 〜 5000万人 (日本における死者は48万人) といわれ、 この インフルエンザ により、 第一次 世界大戦の 終結が早まったとも言われています。 ええ...諸説ありますが、 第1次世界大戦での 戦闘員の 戦死者は 900万人、 非戦闘員の 死者は 1000万人、 負傷者は2200万人と 推定されています。 これま での 戦争とは、 一桁も 二桁も違う 犠牲者が出ています。 まさに 巨大な悲劇でした。 日清戦争、 日露戦争は...それと比べれば... 旧来型戦争の比較的のんび りとし 戦争でした。 そんな戦争で、 戦地/大陸に渡った 子規 は、早々に 帰国を余 儀なくさせられるわけですね。 でも... 大陸では、 面白い邂逅 (かいこう: 思いがけなく出会うこと) もあったようです。 森 鴎外などとの、 戦地での再会です。 日本へ 帰国する前... 5月だったようです が、 子規は 第 2 軍 /兵站部/ 軍医部長/ 森林太郎 (森鴎外/もりおうがい: 明治/大正期の、 小説家、評論家、翻訳家、劇作家、陸軍軍医・・・後に、軍医総監=中将相当 ) 等に、 挨拶 (あいさつ) を し、 帰国の途についています。 子規と 鴎外の 交際は... 子規が没するまで続いていたようですね。 これは、 肺 結核と 脊椎カリエスを病む、 患者/子規に対し、 医師/鴎外のような 感情もあっ たのでしょうか。 ともかく、 子規には 鴎外のような、 医師の友人もいたわけですね。 そうそう...くり返しますが... 子規 と 鴎外 は、 大陸/戦地 で初めて会ったわ けではありません。 新聞『日本』 の 記者 として、すでに 文名 の高い 、そして 5歳年 長 の 鴎外 とは、それ以前にも 接触す る機会 はあったようです。 でも... 異国の戦地 での 再会 は、 特別 の 深い友情 を育んだようです。 鴎外 の 日記 にも、 子規 とは 俳句 のことを談じたという 記録 が残っているそうです。 鴎外 に とっても、 子規との友情 には、 特別の思い があったようです。 翌/明治 29 年/正月 ... 子規庵 での 句会 には、 鴎外 も招かれて 参加 してい ます。 またそれ以後も 何度 か 、 子規庵 での 句会 には 参加 しているようです。 子規庵 での 句会 には、 鴎外 、 漱石 、そして 虚子 や 碧梧桐 ( へきごとう) も、顔をそろ えていたことになります。 また、 子規 の方でも、 鴎外が創刊した雑誌/ 『めさまし 草』 には、 子規 一門 をあげ て、 俳句 や 評論 を寄せ、それに 花 を添えたと言うことで す。 うーん... 二人の交流 は、 鴎外 が 九州/小倉 に転勤する 明治32年 まで、続い たようですね。 そうですよね、分かる気がします... 鴎外は 、 軍人/軍医と しても、すでに 相 当に偉い人でした。 子規の周りの、 ジャレあっている仲間とは、 人間 の格 が 違って いたわけですね。 そこは、 子規も 十分に承知していたわけです。 また、 周りの者も、 子規の 才能を愛し、 そ れ を 許し、 慕っていたわけですね...」 「さて... 子規の 病を大きく 進行させたのは、 日清戦争への 従軍だったようです。 やはり、 死病を持つ身であり、 無理があったのでしょう。 また、 子規も若いわけですから、 国を離れ、 羽目を外してしまうこともあったのでしょうか。 子規は... 明治28年 5月/帰国の船上で... 大喀血し 重態となります。 そし て、 上陸地/神戸で、そのまま 病院に 入院しています。 それから、 神戸/須磨・ 保養院で静養した後... 故郷/松山へ帰っていますよね。 うーん...この頃は、 母も 妹/律も、 東京に呼び寄せていたわけですが、 故郷 には 親戚や 友人も多くいたというわけですね。 また... 親友/漱石が...ちょうど 松山中学校に赴任して来ていたわけです。 子規は、しばらくして、 漱石の 下宿に 同宿するようになり、そこで 俳句会などを開 いたりしています。 この辺りは...どうなのでしょうか... 明治/近代になったとは言っても、 一茶 が没してから、それほどの 歳月がたっているわけではありません。 行動範囲/見聞が 飛躍的に拡大していても、 素朴な楽しみというものは、 伝統 的な 句会であったり、 茶会であったりしたわけですね。 それが、 国の 文化というも のなのでしょう... あ、 余計な心配ですが... 子規は 茶室というのは、あまりにあわないように思 うのですが、どうなのでしょうか...ホホ...浅学を、恥じ入っております...」 「ええと... ここで、 鉄道のことを少し説明しておきましょうか。 明治の 日本の 風景が、 年々 日々、 変貌して行った様子がうかがえます。 草鞋/二本差し/長持・毛槍 (けやり: 先端に羽毛の飾りをつけた槍。 大名行列の先頭などで、振り歩くもの)の 大名行列の時代から、 鉄道 旅行の時代に流れて行きます。 明治28年... 子規の 松山から 東京への 帰京の 旅は... 松山/三津浜から、 船 で 広島/宇品まで行き... 山陽鉄道で 広島から 神戸まで行った ようですね。 うーん...私には、経験がないので分からないのですが... 広島/宇品 から 神戸へは、やはり 鉄道の方が良かったのでしょうか。 当時は、 旅客列車の方が ハ イカラであり、 珍しくもあり、 便利だったのでしょうか...? 現在の私なら... 瀬戸内海の島々を眺めながら... 海路の方を選択すると思 うのですが...ホホ...勝手なことを申しました。 現在 の愛媛県 松山市を中心に、久米郡・野間郡・伊予郡などを領有した藩のこ と です。 江戸幕藩体制下では...石高 (こくだか: 収穫する米穀の数量) で、その藩の 国威と、おおよその広さが分かりました。 したがって、城下町や、山野の豊 か さや、文化・経済の潤いまでが、この一言で推し量れます。 そうした藩の版図/石高/藩主がいて...お国自慢があり、人々のア イデンティティー (自己同一性)が育まれ...またその中で、様々な悶着や遺 恨や、大騒動などもあったわけですね。 日清戦争の従軍から帰り...神戸に上陸/入院した子規は ...神戸 の須磨・保養院で静養した後、東京へは直接帰らずに、伊予/松山に帰 郷したわけですね。 病身の子規にとっては、母や妹は東京にあっても、懐かしい故郷 の海であり、 山野であり、 町のたたずまいだったわけです。 細かいことは分かりませんが...ともかく、8月27日に...子規は、親 友/漱 石の下宿に移り、しばらく同居生活を送っています。 ちなみに 、 漱 石は、明治28年4月から1年間、松山中学校の英語教師を務め ていたよ うです。 うーん...明治の文豪/子規・漱石・鴎外は...明治28年当時、こん なことをやっていたわけですね。 もっとも鴎外は、この時すでに、第2軍/ 兵站部/軍医部長でしたから、相当に偉かったわけです。 でも、子規が生まれたのは、明治元年の前年であり...城が城として機 能していたの は、その幕末の1年たらずでした。 でも、その栄華の頃を懐かしんでいるわけですね。 明治維新の時期...松山城下の人口は、旧・武士階級を含め、3万人 ほどだったそうです。 そんな田舎の風景の中で、漱石が教鞭をとり、大喀 血した子規が療養に帰り、秋山真之は海軍将校として海戦に参加していま した。 維新前夜...松山藩は、佐幕派 (/幕府の側) に属していました。 それ で、官軍/土佐藩の占領を受ける わけですが、その時に、 15万両の戦争 賠償金が要求され、支払っています。 それと、こんな句もあ ります... 春や昔 古白 (こはく) といへる男あり 子規 ...古白 (こはく/俳号)は子規の従弟 (いとこ)で、この年、ピストル自殺を しています。 明治28年4月24日...子規は、遼東半島の先端/金州にいました。 その子規のもとに、東京の川東碧梧桐 (かわひがしへきごとう) より、古白の訃 報 (ふほう: 死去したという知らせ) を伝える手紙か届きました。 古白/藤野潔は、子規の母/ 八重 のすぐ下の妹の長男です。 子規よ りは3〜4歳ぐらい年下のようです。 彼は 子規とともに俳句を志しましたが、 途中で文学に転向しています。 その、文学上の失意から、ピストル 自殺をはかったようです。 子規がそ ばにいれは、こんなこともなかったのでしょうか...うーん...それは分 かりませんが、 ピストル自殺ですか... あ、中国/ 遼東半島/ 金州といえば... 子規 はここに滞在中に、旧・ 松山藩主/久松定謨 (ひさまつさだこと) に招かれ、金州第一の割烹店/宝 興園で一夜の宴を賜っています。 子規の日清戦争従軍の仕事は、このようなもの だったわけですね...」 行く我にとどまる汝に秋二つ (なんじ) 「季語は...秋/秋ですね... この句は、 日清戦争から帰国した...明治28年10月末 ... 子規が 故郷/松山での漱石との共同生活を打ち切り、東京に帰る際、漱石に贈 った挨拶句です。 この句は、後に、新聞『日本』/明治31年9月25日付に、掲載されたと いうことです。 ええと...芭蕉翁が、似ている句を詠んでいるので、掲載 し ておきます... 蛤 (はまぐり) の ふたみに別れ行く秋ぞ (芭蕉) この芭蕉翁の句は...俳人/楠本憲吉が、似ている、と指摘したとの ことです。 うーん...確かに似ていますよね... でも...子規の句の方は、まだ若く、青臭く、直接的な表現ですよね。 浅学な私には...よく理解できないのですが...蕪村のようには成功 していないのではないでしょうか。 まだ、何とも言えませんが... ホホ...でも、芭蕉の句と比較して...蛤の出汁 (だし) が十分に効いて いないような...固い味ですよね。 このあと、 明治28年10月19日...子規は 松山の三津浜 (/三津浜港) を船 で発ち、宇品 (/広島港) まで行ったわけです。 そして、山陽鉄道で、広 島から神戸まで行った ようです。 それから、 10月22日には、大阪へ行っているわけですが、この日、左 の腰骨が痛みだし、歩行困難になっています。 つまり、結核菌が、脊椎にカリエス (骨が壊疽を起こして、崩壊して行く疾患)を 起こして行くわけです。 須磨・保養院で、病状の検査をした直後に、カリエ スが発病するとは、皮肉なことですね。 現代医学なら、そんなことはなかっ たはずです。 ともかく子規は、大阪には8日ほど留まったようです。 そして、そのうちの 3日間は、奈良の旅に当てています。 大阪から奈良 までは、大阪鉄道 (/ 現在の国鉄関西線) が、その3年前に開通していますから、奈良へは鉄道を 使って行ったと思われます。 東海道を下って行くと、東京都と 神奈川県の間に、多摩川が流れています。 そこに架かる橋が、六郷橋で すね。 現在は、箱根駅伝などでもおなじみの、国道15 号/第一京浜国道の、 多摩川の橋です。 あ、これはもちろん新 六郷橋で、 子規が詠んだのは、旧 橋の方です。 この橋を渡れば、もう川崎に入ります。 その道すがら、数多くの句を詠んでいます。 大師 (だいし) というのは、本来は徳の高い僧 の敬称です。 これは、朝廷から贈られる称号で、最初に与えられたのが、 最澄 (さいちょう) /伝教大師 (でんぎょうだいし) です。 でも、最も有名なのが、空海/弘法大師 (こうぼうだいし) だということです。 歴史上、 天皇から下賜された大師号は、全部で27名に上るそうです。 で も、一般的に、大師 /お大師様といえば、弘法大師を指すようです。 ええと...ついでに...川崎大師について、もう少し説明しましょうか。 ここでは... 本尊 に 厄除 (やくよけ) ・ 弘法大師 ...を祭っています。 そして、堂内には... 稚児大師 (ちごだいし) 、 救世観音 像、 不動明王 、 愛 染明 王 (あいぜんみょうおう) 、 金剛界曼荼羅 (こんごうかいまんだら) 、 胎蔵界曼荼 羅 (たいぞうかいまんだら) ...を奉安 (ほうあん: 尊いものを、つつしんで安置すること) しています。 翌年、奈良を回って帰京 する時には、汽車の窓からこの六郷橋を見たわけですね。 それから...明治 33年といえば、子規が亡くなる2年前ですね。 向こう岸は、もう川崎になるわけですね。 うーん...これは、歩いて来たの でしょうか?これも、調べておく必要がありますね。 ええと...神奈川県/ / に ...神社とい う所があるそうです。 そして、その神社の境内に、この句碑があるそうで す。 機会があったら、見ておきたいと思います。 ええ...その他の、大師詣での折々に詠んだ句を、列記しておきます。 川崎や 畠は梨の帰り花 (子規) 川崎や 小店小店の梨の山 (子規) 多摩川を 汽車で通るや梨の花 (子規) 麦荒れて 梨の花咲く畠哉 (子規) 百舌 (もず) 鳴くや 晩稲掛けたる大師道 (子規) 波音の 由比ケ浜より 初電車 (高浜 ) ふーん...子規は...柿だ梨だと...本当に果物が好きな様子です ね。 肺結核や、脊椎カリエスを患っていれば、お酒というのもムリですよ ね。 それは、元禄7年 (1694 年 ) 太 陰暦/陰暦で...10月12日です。 グレゴリオ暦 / 現行の 太陽暦/陽暦では... 11 月 28 日 になります。 でも今は、 陽暦 の 10月12日に行われているようです。 芭蕉忌は...時雨忌 (しぐれき) とも...桃青忌 (とうせいき) とも...翁忌 (おきなき) とも...あるいは、時雨会 (しぐれえ) ...芭蕉会 (ばしょうえ) ... 翁の日、などとも呼ばれます。 当然、時雨忌となれば、時雨の季節でなければならないわけで、これは 陰暦で10月12日ということになるのでしょうか。 ともかく... 松尾 芭蕉は 、 元禄7年... 大阪御堂筋/花屋仁左衛門宅 で亡くなり... 滋賀県/大津市/膳所/義仲寺に...葬られたということ です。 義仲寺では、11 月の第2日曜日に、 時雨忌が行われているようです ね... 芭蕉の辞世の句...最後の句は...こういうものでした... 旅に病んで 夢は枯野をかけ巡る (芭蕉/辞世の句) 芭蕉忌は、昔から俳諧の世界では、各地で毎年行われているよう です。 蕪村は、芭蕉忌のことはあまり触れていないようですが、一茶や子規は、 よく句にも詠んでいます。 うーん...そのような、歴史的経緯があるので しょうか。 芭蕉 去って そののちいまだ年くれず (蕪村) 芭蕉忌や 三人三色の天窓哉 (かな) (一茶) ばせを忌と 申も只 (もうすもただの) 一人哉 (一茶) ばせを忌や ことしもまめで旅虱 (たびしらみ) (一茶) 芭蕉忌や 芭蕉に媚びる人いやし (子規) 芭蕉忌に 芭蕉の像もなかりけり (子規) 芭蕉忌の 下駄多き庵や町はづれ (子規) 芭蕉忌や 吾に派もなく伝もなし (子規) 芭蕉忌や 我俳諧の奈良茶飯 (子規) 芭蕉忌や 茶の花折つて奉る (夏目漱石) 芭蕉忌や 遠く宗祇 (そうぎ) に溯 (さかのぼ) る (高浜虚子) 子規は...与謝蕪村を、芭蕉よりも上ではないか...と評価していた わけですが、その微妙な機微が、少しづつ分かって来たような気がします。 でも、そもそもの、格の違いがあります...また、蕪村も悟り澄ましてい たわけではないようですね。 色々と迷い、様々なことをやったあげく...芭 蕉のような求道者に憧れつつ、それに精進しながらも、そうなれなかったよ うにも思います。 ホホ...だからこそ、その人間味を感じさせるのかも知 れませんね。 子規は35歳で没したわけですが...その辺りも...病身の孤独の中 でこその、深い洞察があったものと思われます。 ともかく子規は、芭蕉忌に は、強いこだわっていたのでしょうか。 芭蕉もまた、51歳という意外な若さで夭折 (ようせつ)したことと、重なるも のがあったのかも知れません。 子規もそうですが、若くして世を去ったこと と、その人の業績とは、必ずしも一致しませんよね。 若くして...偉大な業績を数々残し...晩年はあまり振るわなかった、 ということもあるわけです。 アインシュタインは、その典型かも知れません ね。 でも、ともかく...高杉・塾長の言葉を借りれば...全てが、この人類 文明の記憶です。 そして、生命潮流の記憶/地球生命圏・ガイアの記憶と なって行くわけですね。 【子規庵】は... 曲がりくねった小路の奥にありました。 ここは、 江戸時代 には、 加賀藩/前田家 の 下屋敷 であり、 2軒続きの侍長 屋 (さむらいながや) だったと言われ ます。 子規は 明治27年から、 母と 妹の 3人で住み始めたようですね。 子規の 没後、 大正12年の 関東大震災で被災し、 修復工事をしたようです。 それから 昭和20年 に 、 戦災で 一度 焼失しています。 現在の建物は、戦後、 門弟や 有志の人々により、 元の姿に 忠実に復元された ものだと言うことです...かつて、ここから 上野の森が見えたといいますよね。 で も、今はすっかり ビルの谷間に埋まり、 路地裏の 様相です。 それだけ、 月日がたっ ているということでしょうか。 下は... 【子規庵】 で撮って来た 小庭の写真です。 秋の 展示期間の最中とか で、 部屋の中は写真は撮れませんでした...」 <子規の小さな文机から見た・・・ヘチマの棚> <庭正面から見上げたヘチマの棚> <隣の濡れ縁から見た・・・ヘチマの棚> <庭の鶏頭/けいとう・・・14、5本?> <ちょうど、萩も咲き始めていました> <左端に咲いているのは・・・芙蓉の花です> <庭から見た子規庵。 右奥が書斎とヘチマの棚> <鶏頭・・・鶏のトサカのようですね> <井戸のそばに・・・萩が茂っていました> 「ええ...」支折が、一瞬強くなった萩の風に、髪を押さえた。 その方面に志 (こころざし) があったようで、 子供の頃から、 勉強熱心でもあったわ けですね。 ホホ... 東大予備門では、色々と エピソードもあったようですが、とも かく 子規は、 高級官僚を目指していたのでしょうか...うーん... ええと、くり返しますが... 子規 が 最初に喀血したのは、 明治21年8月の、 鎌 倉旅行の時でした。 そして、 翌/ 明治22年5月 に、 大喀血があり、 医師に 肺結核 と 診断されています。 結核 は、この時代には 不治の病とされていました。 したがって、 子規も、 早死 (は やじに) を 覚悟せざるを得なくなったわけです。 病気もあって... 子規は 落第をくり 返したようですが... 明治25年に、 東京帝国大学を 退学しています。 そして、 新聞『日本』に 入社し...これまで話して来たように... 日清戦争の 従 軍 記者 として 大陸 に渡り、 帰路/船上 で 大 喀血 します。 それから...上陸した 神 戸で 入院し...その後、 療養 を兼ね、 故郷/松山 ヘ帰ったわけですよね。 これも前に話しましたが... この年 の 10月に 松山を離れ... 再び上京する途 上、 腰痛で歩行に支障をきたすようになります。 当初は ... リューマチと考えてい たようですね。 でも、 翌/明治 29年... 結核菌が 脊椎を冒し 、 脊椎カリエスを 発 症していると 診断されます。 以後... 子規は、 病床 に伏す日々が多くなります。 数度の 手術を受けますが、 病状は好転せず、やがて 臀部 (でんぶ: 尻の部分) や 背中に 穴があき、 膿 (うみ) が流れ 出るようになったと言いいます。 こうした中で、 子規庵の 病床を訪れる... 高浜虚子 (たかはま・きょし) 、 河東碧梧桐 (かわひがし・へきごとう) 、 伊藤左千夫、 長塚節 (ながつか・たかし) らの 門人に... 後進の指 導を行っています。 いずれも、 子規の後に、 大きな足跡を残した人たちですね。 そうすれば、 人生は 非常に単純で、 情熱的 で、 楽なものになりますよね...」 「あ、ええと...」支折が、モニターに目を落とした。 「 子規の、主な 著作は... 『俳人蕪村』 (明治30年/1897年) 、 『俳諧大要』 (明治32年/ 1899 年) 、 句集/ 『春夏秋 冬』 (明治34年/1901年) 、 随筆日記集/ 『病牀六尺』 (明治35年/1902年/ 子規の没年) 、 歌集/子規遺稿/ 『竹の里歌』 (明治37年/1904年・・・ 死後/ 伊藤左千夫らが編集 ) などです ね。 それから、 短歌の方ですが... 『 歌よみに与ふる書 』を、 新聞『 日本 』に 連載し ていますね。 子規は、 『 古今集 』を 否定し、 『万葉集』 を 高く評価したようです。 ええと... 和歌/短歌の方は...響子さんが、 『万葉集』の考察を始めました ので、ここ での コメントは差し控えたいと思います。 そちらの方でお願いします。 ええ... 子規の 短歌を... 4首...紹介しておきます...」 くれなゐの 二尺伸びたる 薔薇の芽の 針やはらかに 春雨のふる (子規) 松の葉の 葉毎に結ぶ 白露の 置きてはこぼれ こぼれては置く (子規) いちはつの 花咲きいでて 我目には 今年ばかりの 春行かんとす (子規) 足たたば 不尽の高嶺の いただきを いかづちなして 踏み鳴らさましを (子規) 「 子規は... 慶応 3 年9月17日 ( 新暦/1867年 10月14日 ) に 誕生し... 明治35年9月19日 ( 日 本では、 1873 年からグレゴリオ暦/新暦/太陽暦が正式な暦として採用されます。 子規は、旧暦の9月17日 に生まれ、新暦の1902年/明治35年9月19日に没したことになります・・・ ) に 没しています。 少々ややこしいのですが ... 子規は、 数え年で... 36歳の 誕生日をむかえ た... 翌々日の 永眠 のということになるようです ... うーん...こうなると、 満年齢が 微妙ですよね。 この辺りは、もう少し深く考察し たいと思います...」 山吹も菜の花も咲く小庭哉 (やまぶき) (かな) 「季語は...山吹/春ですね... これは、明治33年の作ということです。 うーん...この年に、 川崎大師 を訪れてい るようですが...病状も進み、いよいよ子規庵 の小庭が、 子 規の視界の全て になって来るわけですね。 これは、本当に重い病気になった人にしか分からないのかも知れませ んが...1つ小さな窓...猫の額ほどの小庭...というのも、実は無限 の深さ、大宇宙にも匹敵するほどの広さを持っているわけです。 そこには...葉に光る春や夏の陽射し... 季節の草花や、風に揺れ る梢の囁き... 昆虫の戯れや、小鳥の訪問...蟻や、小さな虫たちの世 界が、無限に展開して行きます。 そうした日々の情景を...絵にしたり、音楽にしたり、子規のように、俳 句に詠むこともできるわけですね。 人間は、1つの窓/1つの小庭で、そ れを 無限の世界に拡大することもできる わけです。 その結 果...季題や連句など、俳諧のよき伝統を軽視したとも言われます。 また そのことが、俳句から遊びの部分、ゆとりの部分、優雅さの部分を、切 り 落としてしまったとも言われるようです。 うーん...そうなのでしょうか? この句も...そうした写生で... 特に 人に訴えるものは無いようですよ ね。 人間の幸福とは...突き詰めれば...案外そんな所にあるのかも知 れません。 そして、たったそれだけの事に気が付くのに、長く苦しい修行を したりするわけです。 でも、そうした人生も...同じ苦行をした僧であれば、さわやかにうなづ き、笑い流してくれるわけですね。 それが、至福の時なのでしょうか... ええと、句意は...紫の布団に座り...春の陽光を浴びている自分 が...まさにここ に存在している...という覚醒と主張ですね... 他に望むものは何もなく...ただ、うららかな春の陽光が散っているば かりだ...と詠んでいるわけです、」 牡丹画いて絵の具は皿に残りけり (ぼたん) 「季語は...牡丹/夏です... 今回、わたくしメが...子規庵を訪れた際...散りかけたような、牡丹 の彩色画の展示がありました。 そこで、この句のことを思い出しました。 でも、何やら... 中村不折 (なかむら・ふせつ/子規より1つ年上の洋画家、書 家。 漱石の『吾輩は猫である』の挿絵画家として有名)とありました... ああ、不折の書いた牡丹なのかと分かったのですが...この句のことも あり、せっかく子規庵まで来たのだからと思い、尋ねてみました。 すると、 秋の展示会の期間 (/9月1日〜9月30日)でなければ、子規の描いた牡丹 を見られるということでした。 うーん...残念でした...ホホ... 子規は...俳句は、詠みあげられた時、その情景が浮かび上がって来 なければならない、と言います。 でも、 それ以上の深い意味はありませんよね。 ちょうど、デジタル・カメラの1ショ ットのように、深い意味はないわけです。 さて、句意ですが...牡丹を描いて、絵具がさらに残ったということです ね。 うーん...その写生的事実に、他意はありません。 そして、説明をす る必要も無いわけで、そこが物足りなさになっているのでしょうか。 でも、前にも言いましたが...子規の闘病生活を知る者には...そう した行為のスケッチにも...別の深い共感を覚えるわけですね...」 牡丹ちる病の床の静かさよ (ぼたん) (とこ) 「季語は...牡丹/夏です... 病床の...想いの静まる時です...これを悲しいと思うか、淋しいと思 うか。 それとも、無心に...この時/この時空/この世を見つめるか... それは、人それぞれです。 まさに...静かで濃密な...充足した時が流 れて行きます。 まさに、俳句の真骨 頂の、1ショットになっていますよね。 さあ...いかに騒いでも、わめいても...死は全ての命を、確実にあ の世へ運んで行きます。 若鮎は死に際し、ピシッ、と気品よくひと撥 (は)ね ます。 そういう死に方も、あるわけですね... そして...子規も私たちに、1つの生き方と死に方を、提示してくれまし た。 この句は、その子規の病床での感性です。 さすがに子規は...俳人であり...その静謐 (せいひつ: 静かで落ち着いて いること)な...限りなく貴重な...時の流れ/時間の結晶風景を...見 つめています。 句意は...病の床にあって、牡丹の散る光景/命の散る光景を... 恐ろしいほどの深淵/その静寂の中の充足感を...5・7・5にまとめて、 詠んでいます。 でも、実は、高浜虚子の句だと勘違いしていまし た。 でも、ここでは、そうしたものには触れず、素直に句を詠んでおくことにしま しょ う。 ええと...次のような句もありまよ...」 鶏頭の 皆倒れたる 野分 (のわき) かな (子規) 鶏頭を 伐るにものうし 初時雨 (子規) 鶏頭の とうとう枯れて しまひけり (子規) 鶏頭の まだいとけなき 野分かな (子規) 鶏頭の 黒きにそそぐ 時雨かな (子規) うつくしき 色見えそめぬ 葉鶏頭 (子規) 冬近き 嵐に折れし 鶏頭哉 (子規) 藁葺 (わらぶき) きの 法華の寺や 鶏頭花 (子規) 句を閲すラムプの下や柿二つ (えっ) 「季語は...柿/秋ですね... 明治32年の作のようです。 秋の夜半...ランプの下で、たまっている句稿の整理をしている様子で す。 子規の好きな柿が2つあります...さあ、いつ食べようかと思いながら も、句の方に 集中しています。 私たちにも、似たような覚えがありますよね...子規は、前年の秋に も、こんな句を作っています... 三千の俳句を閲 (えっ) し柿二つ (子規) ふーん...柿は2つがいいのですか。 ホホ...いいことを教わりまし た。 それにしても、3000もの俳句に、子規はどうやって目を通していたので しょうか。 米・味噌・漬物などを備蓄し、 炭や薪を積み上げ、雪国では雪囲いもします。 さて...この句は、 明治 32年の 作 と言われています。 子規は、日清戦 争の従軍から 、 東 京へ帰って以来、病床に臥 (ふ) すことが多くなったと言 われま す。 句意は...そうした前世を思いやりながら...それを受け入れ...静 かに冬籠りをしている...と詠んでいるわけですね。 最近言われるような...鬱 (うつ) になるのではなく...非常に安定した 精神を 保ち...句などを詠んでいるわけです...」 何事もあきらめて居るふゆ籠 (ごもり) 「季語は、もちろん...ふゆ籠/冬ですね... うーん...何事も諦めていると子規は詠んでいますが...実はそこか ら...御仏の悟りの道が始まっています。 そこから、何物にもとらわれな い...生死にこだわらない...この世の、真の姿/真の自由が見えて来 るようですよ...あ、未熟者の言葉です。 ボス は若い頃、ウィスキーの空瓶にお湯を入れ、湯タンポにしていたこ とがあ ったそうです。 でも、子規庵には、大型の暖房器具 はむりですよね。 全てをあきらめた末に...手の届く、身の回りのことだけで十分に満足 し、好 きな読書をしていられるのは...まさに極楽だということです。 でも、やがてまた、ジワジワと痛みがぶり返し、痰 (たん) が喉にからみ、 死をのぞく苦痛が始まります...そうしたことをくり返し、体は徐々に衰弱 して行くわけです。 心もまた、乱れて行き...何故、自分がこんな苦痛を背負うのかと... 御仏に問いたくなる心/この世の理不尽さをうったえる自分を...子規は 冷静な心で、詠んでいます。 死ぬことを学ぶことなく。 死ぬことを学 べ。 そして汝は、生きることを学ぶだろう。

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『柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺』から読み解く正岡子規の想いとは・・・

柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺 技法

成立 [ ] 5月、子規は連隊付き記者としてに従軍中に喀血、神戸に入院したのち故郷に戻り、松山中学の教員として赴任していたの下宿(愚陀仏庵)に50日ほど仮寓した。 漱石は2階、子規は1階に棲み、子規はら松風会のメンバーに漱石を加えて句会三昧の日々を過ごしていた。 その後病状がよくなったため10月下旬に帰京するが、その途中で奈良に数日滞在している。 子規の随筆「くだもの」(『ホトトギス』1901年4月号掲載)によれば、このとき子規は漢詩にも和歌にも奈良と柿とを配合した作品がないということに気付き、新しい配合を見つけたと喜んだという。 そして「柿落ちて犬吠ゆる奈良の横町かな」「渋柿やあら壁つゞく奈良の町」「渋柿や古寺多き奈良の町」などの句を続けて作った。 もともと子規は大の柿好きで、学生時代には樽柿(酒樽に詰めて渋抜きした柿)を一度に7、8個食べるのが常であった。 1897年には「我死にし後は」という前書きのある「柿喰ヒの俳句好みしと伝ふべし」という句を作っている。 さらに「くだもの」では、奈良の宿先で下女の持ってきたを食べているとき、折から初夜を告げるの釣鐘の音が響いたことを記している。 しかしこのときは「長き夜や初夜の鐘撞く東大寺」として柿の句にはせず、翌日訪ねた法隆寺に柿を配した。 ただし子規が法隆寺を参詣した当日は雨天であったため、この句は実際の出来事を詠んだものではなく、法隆寺に関するいわばフィクションの句であると考えられる。 なお当時の子規の病状などから考えて、実際に法隆寺を参詣したこと自体を疑問視する意見もある。 また『海南新聞』の同年9月6日号には、漱石による「鐘つけば銀杏散るなり」という、形のよく似た句が掲載されていた。 は、子規が「柿くへば」の句を作った際、漱石のこの句が頭のどこかにあったのではないかと推測している。 受容 [ ] 現在では非常に著名な句であるが、『海南新聞』に掲載した際にはとりたてて反響があったわけではなかった。 、によって編まれた俳句選集『春夏秋冬』(1902年)や『子規句集講義』(1916年)、虚子の『子規句解』(1946年)などにもこの句は入れられておらず、子規の俳句仲間の中で評価されていた形跡はない。 子規の自選句集『獺祭書屋俳句帖抄上巻』に収録された後、碧梧桐は『ホトトギス』誌上の書評において、この句はいつもの子規調であれば「柿喰ふて居れば鐘鳴る法隆寺」としたはずではないかと述べた。 これに対して子規は「病牀六尺」で、「これは尤(もっとも)の説である。 併(しか)しかうなると稍々(やや)句風が弱くなるかと思ふ」 と答えている。 9月、法隆寺境内に子規の筆跡によるこの句の句碑がらによって立てられた。 この場所は句の前書きにある茶店のあった跡地である。 前述の坪内は、このころから法隆寺の一種のとしてこの句が広まっていったのではないかとしている。 、全国果樹研究連合会はを子規がこの句を詠んだ日として「柿の日」と制定した。 この句のパロディがいろいろあるが、オマージュとして「柿食えば遥(はる)か遠くの子規思う」は小林凜(りん)の句で出版され、ベストセラーになった『ランドセル俳人の五・七・五 いじめられ行きたし行けぬ春の雨--11歳、不登校の少年。 生きる希望は俳句を詠むこと。 』()に載っている。 脚注 [ ]• 夏井いつき選 「子規二十四句」『正岡子規』 河出書房新社<KAWADE道の手帖>、2010年、21頁• ただし初出の『海南新聞』1895年11月8日号では前書きは「茶店に憩ひて」となっている。 「病余漫吟」では「法隆寺茶店にて」。 「病床六尺」では上五が「柿食へば」。 『寒山落木』『獺祭書屋俳句帖抄上巻』では前書き・表記とも掲出したものに同じ。 (宮坂、129頁)• 坪内、121-122頁• 正岡 1985 、167頁• 坪内、122-123頁• 宮坂、130頁• 和田悟朗 「子規と法隆寺」「岳」1987年7月号(宮坂、131頁より)• 坪内、122頁• 正岡 1958 、176頁 参考文献 [ ]• 正岡子規 『病牀六尺』 岩波文庫、1958年• 正岡子規 『飯待つ間』 岩波文庫、1985年• 坪内稔典 『正岡子規 言葉と生きる』 、2010年.

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