万葉集 作者。 万葉集/第十一巻

防人の歌の作者の名前

万葉集 作者

1907 作者未詳歌 かくしあらば何か植ゑけむ山吹 (やまぶき)の止む時もなく恋 (こ)ふらく思へば 【意味】 こんなのだったら、植えなければよかった。 ヤマブキのように、揺れ止むこともなく恋しく思っていることを思うと。 【説明】 「見に来てくれると思って植えたヤマブキ。 しかし、恋しい相手は一度も見に来てくれない・・・。 作者未詳ですが、女性が詠んだ歌でしょうか。 1915・1916 作者未詳歌 1915 我が背子に恋ひてすべなみ春雨の降るわき知らず出でて来 (こ)しかも 1916 今さらに君はい行かじ春雨の心を人の知らずあらなくに 【意味】 〈1915〉あなたに恋焦がれて、どうしようもなかった。 春雨が降っているのも知らず、思わず私は外に出てきたのです。 〈1916〉 春雨は人を引き留めるといいますから、あなたはもうお帰りになりませんよね。 【説明】 「寄雨(雨に寄せる)」相聞歌。 1915は男性からの歌で、1916が女性からの歌。 1927・1964 高橋虫麻呂の歌 1927 石上 (いそのかみ)布留 (ふる)の神杉 (かむすぎ)神 (かむ)びにし我れやさらさら恋にあひにける 1964 黙然 (もだ)もあらむ時も鳴かなむ晩蝉 (ひぐらし)のもの思ふ時に鳴きつつもとな 【意味】 〈1927〉石上の神木の杉ではないが、こんなに古びてしまってから、また改めて恋に出逢ったよ。 〈1964〉 文句も言わずにすむ時に鳴いて欲しい、ヒグラシは物思いする時にかぎってうるさく鳴き続けるから、落ち着かない。 【説明】 1927の「石上」はいまの奈良県天理市の石上神社のあたりから西の一帯。 「布留」は石上神社周辺でいまの布町。 1966・1973・1974 作者未詳歌 1966 風に散る花橘 (はなたちばな)を袖 (そで)に受けて君がみ跡 (あと)と偲 (しの)ひつるかも 1973 吾妹子 (わぎもこ)に楝 (あふち)の花は散り過ぎず今咲ける如 (ごと)ありこせぬかも 1974 春日野 (かすがの)の藤は散りにて何をかもみ狩 (かり)の人の折りてかざさむ 【意味】 〈1966〉風に舞い散る橘の花びらを袖に受け止め、その香りをあなたの形見のように偲んでいます。 〈1973〉 彼女に逢うまで、アウチの花は散ってしまわないで、今咲いているままいてくれないだろうか。 〈1974〉 春日野の藤の花はとっくに散ってしまい、薬狩の大宮人たちは、いったい何の花を折り取って髪にかざせばいいのだろう。 【説明】 橘は、垂仁天皇の命を受けてタジマモリが常世(仙境)に赴き、持ち帰ったと伝えられています。 そのため、宮廷の貴族たちは好んで庭園に橘を植えました。 1973の楝は栴檀(せんだん)の木。 夏に薄紫色の可憐な花が咲きます。 1974の春日野には、藤原氏を氏神とする春日大社があります。 今でも巫女たちが藤の花を髪飾りにして神に仕えています。 1975・1976 作者未詳歌 1975 時ならず玉をぞ貫 (ぬ)ける卯の花の五月 (さつき)を待たば久しくあるべみ 1976 卯の花の咲き散る岡ゆ霍公鳥 (ほととぎす)鳴きてさ渡る君は聞きつや 【意味】 〈1975〉まだその時期ではないのに、玉を通す卯の花が咲く五月を待っていると、とても待ち遠しくてなりません。 〈1976〉 卯の花が咲き散る岡の上を、ホトトギスが鳴いて渡っていきましたよ、あなたは聞きましたか? 【説明】 五月に、花の実に糸を通して薬玉をつくり、健康を祈る風習があったようです。 1982・1983 作者未詳歌 1982 晩蝉 (ひぐらし)は時と鳴けども恋 (こ)ふるにし手弱女 (たわやめ)われは時わかず泣く 1983 人言 (ひとごと)は夏野の草の繁 (しげ)くとも妹 (いも)と我 (あ)れとし携 (たづさ)はり寝ば 【意味】 〈1982〉ヒグラシは悲しく鳴くといっても時を定めていますが、恋している手弱女の私は、時に関係なく泣いています。 〈1983〉 人のうわさが夏の野草が茂るようにうるさくても、あなたと私が手をとりあって寝てしまえば・・・。 2040・2041・2052 作者未詳歌 2040 彦星 (ひこほし)と織女 (たなばたつめ)と今夜逢ふ天の川門 (かはと)に波立つなゆめ 2041 秋風の吹きただよはす白雲は織女 (たなばたつめ)の天 (あま)つ領巾 (ひれ)かも 2052 この夕 (ゆふへ)降りくる雨は彦星 (ひこほし)の早や漕ぐ舟の櫂 (かい)の散りかも 【意味】 〈2040〉彦星と織女星とが今夜逢う、天の川の渡りに、波よ決して立たないで。 〈2041〉 秋風が吹き漂わせている白雲は、織女の領巾ではないでしょうか。 〈2052〉 この夕べに降る雨は、彦星が急いで漕いでいる舟の、櫂のしずくが散っているのだろうか。 【説明】 七夕の歌。 2041の「領巾」は、女性が肩にかける長いショールのような布。 七夕の宴が正史に現れるのは天平6年(734年)で、「天皇相撲の戯(わざ)を観(み)る。 是の夕、南苑に徒御(いでま)し、文人に命じて七夕の詩を腑せしむ」(『続日本紀』)が初見です。 ただし『万葉集』の「天の川安の河原・・・」(巻10・2033)の左注に「この歌一首は庚辰の年に作れり」とあり、この「庚辰の年」は天武天皇9年(680年)・天平12年のいずれかで、前者とすれば、天武朝に七夕歌をつくる風習があったことになります。 七夕の宴の前には相撲が行われました。 2089 作者未詳歌 天地 (あめつち)の 初めの時ゆ 天の川 い向ひ居りて 一年に ふたたび逢はぬ 妻恋ひに 物思ふ人 天の川 安の川原の あり通ふ 出 (いで)の渡りに そほ舟の 艫 (とも)にも舳 (へ)にも 舟装 (ふなよそ)ひ ま楫 (かぢ)しじ貫 (ぬ)き 旗すすき 本葉 (もとは)もそよに 秋風の 吹きくる宵 (よひ)に 天の川 白波しのぎ 落ちたぎつ 早瀬渡りて 若草の 妻を巻かむと 大船の 思ひ頼みて 漕ぎ来らむ その夫の子が あらたまの 年の緒 (を)長く ひ来し 恋尽すらむ 七月の 七日の宵は 我れも悲しも 【意味】 天地が初めて開けた大昔から、天の川に向き合って住み、一年に二度は逢えないで恋しく物思う人よ、天の川の安の川原の、通いなれた船出の渡に、朱塗りの船の後ろにも先にも船飾りをして、立派な楫を両舷に通し、旗すすきの根元から伸びる葉にもそよと秋風が吹いてくる夜に、天の川の白波を越え、落ちたぎる早瀬を渡り、若草のようにみずみずしい妻の手を枕に共寝しようと、大船のように頼みに思い漕いでくるその彦星が、長い間思ってきた恋を尽くす七月七日の夜は、なぜか私も悲しいよ。 【説明】 七夕を詠った歌。 七夕は中国で行われていた星祭りが起源といわれます。 一年に一度、七月七日の夜に牽牛と織女が天の川を渡って逢引をする。 その夜には「乞巧(きっこう)」と呼ばれる裁縫の上達を願う祭りが行われました。 2094・2095 『柿本人麻呂歌集』から 2094 さを鹿の心 (こころ)相 (あひ)思ふ秋萩 (あきはぎ)のしぐれの降るに散らくし惜しも 2095 夕されば野辺 (のへ)の秋萩うら若み露にぞ枯るる秋待ちかてに 【意味】 〈2094〉牡鹿が心に思う秋萩が、時雨が降るので散ってしまうのが惜しいことです。 〈2095〉 夕方になると野原の萩は、まだ枝が若いので露にあたって枯れてしまいます、秋を待たずに。 2096・2103・2107 作者未詳歌 2096 真葛原 (まくずはら)なびく秋風吹くごとに阿太 (あた)の大野の萩 (はぎ)が花散る 2103 秋風は涼しくなりぬ馬 並 (な)めていざ野に行かな萩 (はぎ)の花見に 2107 ことさらに衣は摺 (す)らじをみなへし佐紀野 (さきの)の萩 (はぎ)ににほひて居 (を)らむ 【意味】 〈2096〉葛が生い茂る原をなびかせて秋風が吹く度に、阿太の野の萩の花が散っていく。 〈2103〉 秋風は涼しくなりました。 馬を連ねて、さあ、野に行きましょう、萩の花見に。 〈2107〉 わざわざ着物を摺ることはしないでおこう、佐紀野の萩に、美しく染ませていよう。 【説明】 2107の「佐紀野」は、奈良市佐紀町・歌姫町あたりに広がっていた野。 平城京の北。 2110・2114 作者未詳歌 2110 人皆は萩 (はぎ)を秋と言ふよし我れは尾花 (をばな)が末 (うれ)を秋とは言はむ 2114 我が宿に植ゑ生 (お)ほしたる秋萩 (あきはぎ)を誰 (た)れか標 (しめ)刺す我れに知らえず 【意味】 〈2110〉人は皆、萩が秋を代表する花だと言う。 ならば私は、尾花だ、秋の花はと言おう。 〈2114〉 自分の家の庭で、自分が育てている秋萩に、誰かが標をした、私に無断で。 【説明】 「尾花」はすすきのこと。 『万葉集』で歌の数がいちばん多いのは萩であることから、この時代、萩が非常に好まれたことがわかります。 さらには、大伴書持(おおとものふみもち・家持の弟)は庭に萩を植えていたことが歌に出てくるので、庭に萩を植えることも流行っていたようです。 2115・2121 作者未詳歌 2115 手に取れば袖 (そで)さへにほふをみなへしこの白露 (しらつゆ)に散らまく惜しも 2121 秋風は日に異 (け)に吹きぬ高円 (たかまと)の野辺 (のへ)の秋萩 (あきはぎ)散らまく惜しも 【意味】 〈2115〉袖までも黄色に染まるような美しい女郎花(おみなえし)が、この白露で散ってしまうのは惜しいことだ。 〈2121〉 秋風が日増しに吹きつのる高円の野辺に、咲いている萩が散るのは惜しいことだ。 【説明】 2115の女郎花(おみなえし)は秋の七草の一つ。 美女のなかでもひときわ美しい姿であるとの意味でつけられた名です。 2121の高円山は奈良の春日山と地獄谷を挟んで南方の462mの山。 聖武天皇の時代には、狩りが行われたり、季節の野遊びが行われていました。 2137・2147 作者未詳歌 2137 朝にゆく雁 (かり)の鳴く音 (ね)は吾 (わ)が如 (ごと)くもの念 (おも)へかも声の悲しき 2147 山の辺 (へ)にい行く猟夫 (さつを)は多かれど山にも野にもさを鹿 (しか)鳴くも 【意味】 〈2137〉いま朝早く飛んでいく雁の鳴く声は、何となく物悲しい、彼らも私と同じように物思いをしているからだろう。 〈2147〉 山の辺に行く猟師は多くて恐ろしいものだが、それでも妻恋しさに、牡鹿があんなに鳴いている。 【説明】 2147について、斉藤茂吉によれば、「西洋的にいうと、恋の盲目とでもいうところであろうか。 そのあわれが声調のうえに出ている点がよく、第三句で、「多かれど」と感慨をこめている。 結句の、「鳴くも」の如きは万葉に甚だ多い例だが、古今集以後、この「も」を段々嫌って少なくなったが、こう簡潔につめていうから、感傷の厭味に陥らぬともいうことが出来る」。 2150・2171 作者未詳歌 2150 秋萩 (あきはぎ)の散りゆく見ればおほほしみ妻恋すらしさを鹿 (しか)鳴くも 2171 白露 (しらつゆ)と秋萩 (あきはぎ)とには恋ひ乱れ別 (わ)くことかたき我 (あ)が心かも 【意味】 〈2150〉秋萩が散っていくのを見て、牡鹿は心がふさぎ、妻恋しさに鳴いているよ。 〈2171〉 白露と秋の萩、どちらも好きで、選びかねる私の心です。 【説明】 2150は、萩が鹿の妻として詠まれています。 万葉の花のうち、もっとも多く詠まれたのが萩であり、広く愛好されていました。 梅と鶯(うぐいす)、ホトトギスと橘や卯の花も、愛し合う男女に見立てていたとされます。 2171の白露は、草木に置いた露が白く見えるのをいいます。 桜の花と同様に、すぐ散ってしまうはかなさから、細やかな自然観を表します。 白露も秋萩も、秋の代表的な風物です。 2177・2180・2181 作者未詳歌 2177 春は萌 (も)え夏は緑に紅 (くれなゐ)のまだらに見ゆる秋の山かも 2180 九月 (ながつき)の時雨 (しぐれ)の雨に濡れとほり春日の山は色づきにけり 2181 雁 (かり)が音 (ね)の寒き朝明 (あさけ)の露 (つゆ)ならし春日の山をもみたすものは 【意味】 〈2177〉春は萌え、夏は緑に、そして今、紅がまだらに見える秋の山です。 〈2180〉 九月の時雨に山の芯まで濡れ通り、春日山はすっかり色づいたことだ。 〈2181〉 雁の声の冷たい夜明けに降った露に違いない、あのように春日山を美しく色づけたのは。 【説明】 2177は、「山を詠む」歌。 春から夏、そして秋・・・一年の移ろいを詠んだ歌です。 2180・2181の春日山る奈良盆地の東部にあり、その原始林は、古来、神域として保護され、今では世界遺産となっています。 2185・2197 作者未詳歌 2185 大坂を吾 (わ)が越え来れば二上 (ふたかみ)にももみぢ葉流る時雨 (しぐれ)ふりつつ 2197 いちしろく時雨 (しぐれ)の雨は降らなくに大城 (おほき)の山は色づきにけり 【意味】 〈2185〉大坂を越えてくると、二上山の川には黄葉が流れている。 時雨が絶え間なく降り続いている。 〈2197〉 目に立って降るわけでもないのに、しとしと降る時雨のせいで、大城の山はもう色づいてしまった。 【説明】 大坂は以前の奈良県北葛城郡下田村(現在は香芝市)で、大和から河内へ越える坂になっています。 二上山は、北の雄岳、南の雌岳の双峰からなり、万葉人に神聖視されてきました。 大津皇子の悲劇にまつわる山としても有名です。 2197の「大城山」は、大宰府の庁舎の東方にある大野山。 2199・2201・2206 作者未詳歌 2199 物思ふと隠 (こも)らひ居りて今日見れば春日の山は色づきにけり 2201 妹 (いも)がりと馬に鞍 (くら)置きて生駒山 (いこまやま)うち越え来れば黄葉 (もみち)散りつつ 2206 まそ鏡 南淵山 (みなぶちやま)は今日もかも白露 (しらつゆ)置きて黄葉 (もみち)散るらむ 【意味】 〈2199〉物思いをして籠っていて、今日はじめて見ると、春日山はすっかり色づいていたよ。 〈2201〉 愛しい女(ひと)の許に行くというので、生駒山を越えてくると、紅葉がどんどん散っているよ。 〈2206〉 南淵山では、今日あたりは露が降りて、紅葉が散っていることだろう。 【説明】 2201のの「生駒山」は、奈良県生駒市と大阪府東大阪市との県境にある標高642mの山で、生駒山地の主峰。 2206の「御食向ふ」は南淵山にかかる枕詞。 南淵山は、蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳から南方に見える山。 年に一度、7月7日の夜に牽牛(けんぎゅう)と織女(しょくじょ)が天の川を渡って出逢う。 その日には「乞功(きっこう)」と呼ばれる裁縫の上達を願う祭りが行われた。 それが日本古来の「棚機(たなばた)つ女(め)」の信仰(水辺の女が袖衣を織って神を迎える信仰)と重なって、秋の宮廷行事となった。 「万葉集」には130を超える七夕の歌が収録されている。 日本語の確立 文字のない社会だった日本が漢字に触れ、自分たちの言語にこれを利用するまでに4〜5世紀にわたる期間を要した。 奈良時代にまとめられた「古事記」や「万葉集」は、漢字を並べて書かれてはいるが、漢文ではないので、中国人が読んでも意味が分からない(「古事記」の序文だけは漢文)。 「万葉集」で恋(こい)という語は、「古比」「古飛」「故非」「孤悲」などと記され、また衣(ころも)という語は、「乙呂母」「去呂毛」「許呂母」などと表記された。 万葉仮名とよばれる音仮名の例である。 当時の日本人は、日本語をあらわすに際し、中国語からは音に応じた文字だけを借りた。 やがて平安時代になると、万葉仮名のくずし字が発達して、そこから平仮名が生まれた。 こうして日本人は、漢字の音を借りて日本語を表記する方法を確立した。 万葉仮名 『万葉集』には、和歌だけでなく、分類名・作者名・題詞・訓注・左注などが記載されているが、和歌以外の部分はほとんどが漢文体となっている。 これに対して和歌の表記には、漢字の本質的な用法である表意文字としての機能と、その字音のみを表示する表音文字としての機能が使われており、後者の用法を万葉仮名と呼ぶ。 漢字本来の意味とは関係なく、その字音・字訓だけを用いて、ひらがな・カタカナ以前の日本語を書き表した文字であり、『万葉集』にもっとも多くの種類が見られるため「万葉仮名」と呼ばれる。 当時の日本にはまだ固有の文字がなかったため、中国の漢字が表記に用いられた。 たとえば、伊能知(=いのち・命)、於保美也(=おほみや・大宮)、千羽八振(=ちはやぶる・神の枕詞)などのように、漢字そのものに意味はなく、単にかなとして用いられる。 むろん、漢字の意味どおりに用いられる場合もある。 ちなみに、巻第8-1418番の志貴皇子の歌は、原文では次のように書かれている。 石激 垂見之上乃 左和良妣乃 毛要出春尓 成来鴨 ・・・石(いわ)走る 垂水の上の さわらびの 萌え出(い)ずる春に なりにけるかも) また、奈良時代の音節数は、清音60(古事記・万葉集巻第5は61)・濁音27だったことが分かっている。 たとえばア行のえ(e)とヤ行のえ(ye)、ず(zu)とづ(du)などは区別されており、そのため現代語の清音44・濁音18に比べてはるかに多かった。 『万葉集』『古事記』など上代の文学には、人間の心をありのままに写し出す素朴な美として表現されている。 明・浄(清)・直をかねそなえたものが「まこと」とされ、この理念は時代の推移とともに、「もののあはれ」「幽玄」など多彩な美の概念を生み出していく。 賀茂真淵ら近世の国学にたずさわった歌人たちは、『万葉集』にこの風があるとして尊んだ。 『万葉集』の「ますらをぶり」に対して、『古今和歌集』以降の勅撰和歌集で支配的となった歌風。 悲哀・優美・調和などに対する感動を伝える語で、「もののあはれ」と呼ばれるこの時期の文芸理念を形作っていく。 「あはれ」が主情的であるのに対して、「をかし」は客観的な色合いが強く、後に「滑稽(こっけい)」の意味で用いるようになる。 本居宣長は、『源氏物語』の作中から、「もののあはれ」の用例12か所を抽出してこの物語の本質が「もののあはれ」にあることを論証するとともに、この精神こそが日本文学の本質であると説いた。 その意味するところは、「あはれ」の感動が「もの」という他の存在を契機として高められた状態を指し、調和のとれた美感を尊ぶ文化にはぐくまれた感動・情趣が開花したものであるとする。 表現の外ににじみ出る、ある種の気分・情緒をいう。 本来この語は、中国の古典や仏教の経典に用いられ、奥深くしてきわめることのできないもの、本質的で不変なるものを意味する漢語だった。 『古今和歌集』真名序などに用いられて日本固有の文芸理念として変質した。 「さび」は「寂しさ」から来た語だが、寂しさにそのまま沈潜するのではなく、むしろそれを抑えたところに成立する美。

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万葉集【巻第十】

万葉集 作者

もくじ• 万葉集の作者(撰者)は大伴家持 万葉集の作者(編者)は『大伴家持』という人です。 読み方はふつうに読んだら『おおばんいえもち』ですが、正しくは『おおとものやかもち』です。 お名前が『家持』ですから、いかにもお金持ちなにおいがしますね。 w ですが、実際には家柄が原因で出世が停滞するなど、決して恵まれていたわけではなかったようです。 大伴家持(おおとものやかもち)は不屈の精神の持ち主。 大伴家持(おおとものやかもち)は貴族である大伴家の長男です。 貴族の中で家柄はそんなにいいわけではなかったようで、はじめは雑用係りからスタートし、途中で昇進停滞していた時期もありました。 藤原氏と橘氏の抗争に巻き込まれ、苦しい立場に立たされることもあったようです。 万葉集には家長としての責任感とあきらめの気持ち。 その間で揺れ動く気持ちが歌に込められています。 没後は、藤原種継暗殺事件に首謀者という汚名をきせられ、息子は島流しの刑に処せられます。 30年以上の年月の末、無罪であることが判明します。 大伴家持のプロフィール 生年月日:養老(ようろう)2年(718年) 父:大伴旅人(おおとものたびと)、貴族。 母:正妻ではなかった。 育ての母は旅人の正妻である郎女(いらつめ)。 経歴とポジション官僚 はじめは中務省に配属され、天皇の雑役や警護をつとめる。 その後、少納言、国守などのポジションにつく。 順調に出世しているようで、停滞期もあった。 藤原氏と橘氏の抗争に巻き込まれ、とばっちりを受ける。 一族を存続させるため、奮起する。 中納言・春宮大夫、陸奥按察使・持節征東将軍、鎮守府将軍など重要な役職にもつく。 赴任先:越中 『万葉集』大伴家持の代表作は? 大伴家持の最大の功績は『万葉集』の編さんをおこなったことです。 作者(編者)ですから、当然大伴家持自身の歌もたくさんのっています。 その数なんと、473首。 全部で4516首なので1割以上が大伴家持の歌なんですね。 春の苑紅にほふ桃の花下照る道に出で立つ美人 をとめ 春設 ま けて物悲しきにさ夜更けて羽振き鳴く鴫誰が田にか食 は む 万葉集の現代語訳でおすすめの本はこちらです。

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防人の歌の作者の名前

万葉集 作者

もくじ• 万葉集の作者(撰者)は大伴家持 万葉集の作者(編者)は『大伴家持』という人です。 読み方はふつうに読んだら『おおばんいえもち』ですが、正しくは『おおとものやかもち』です。 お名前が『家持』ですから、いかにもお金持ちなにおいがしますね。 w ですが、実際には家柄が原因で出世が停滞するなど、決して恵まれていたわけではなかったようです。 大伴家持(おおとものやかもち)は不屈の精神の持ち主。 大伴家持(おおとものやかもち)は貴族である大伴家の長男です。 貴族の中で家柄はそんなにいいわけではなかったようで、はじめは雑用係りからスタートし、途中で昇進停滞していた時期もありました。 藤原氏と橘氏の抗争に巻き込まれ、苦しい立場に立たされることもあったようです。 万葉集には家長としての責任感とあきらめの気持ち。 その間で揺れ動く気持ちが歌に込められています。 没後は、藤原種継暗殺事件に首謀者という汚名をきせられ、息子は島流しの刑に処せられます。 30年以上の年月の末、無罪であることが判明します。 大伴家持のプロフィール 生年月日:養老(ようろう)2年(718年) 父:大伴旅人(おおとものたびと)、貴族。 母:正妻ではなかった。 育ての母は旅人の正妻である郎女(いらつめ)。 経歴とポジション官僚 はじめは中務省に配属され、天皇の雑役や警護をつとめる。 その後、少納言、国守などのポジションにつく。 順調に出世しているようで、停滞期もあった。 藤原氏と橘氏の抗争に巻き込まれ、とばっちりを受ける。 一族を存続させるため、奮起する。 中納言・春宮大夫、陸奥按察使・持節征東将軍、鎮守府将軍など重要な役職にもつく。 赴任先:越中 『万葉集』大伴家持の代表作は? 大伴家持の最大の功績は『万葉集』の編さんをおこなったことです。 作者(編者)ですから、当然大伴家持自身の歌もたくさんのっています。 その数なんと、473首。 全部で4516首なので1割以上が大伴家持の歌なんですね。 春の苑紅にほふ桃の花下照る道に出で立つ美人 をとめ 春設 ま けて物悲しきにさ夜更けて羽振き鳴く鴫誰が田にか食 は む 万葉集の現代語訳でおすすめの本はこちらです。

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