アッシリア 王国。 『新アッシリア帝国』滅亡の原因はニネヴェの戦いだった?!

高等学校世界史B/オリエントの統一

アッシリア 王国

ヒッタイト・ヒッタイト人とは? ヒッタイト(Hittites)とは、アナトリア (アジア大陸最西部で西アジアの一部で、現在のトルコのアジア部分を成す地域)のハットゥシャ(Hattusa)を中心にして、紀元前15世紀辺りに帝国(王国)を築いた人々またはその帝国のこと。 ヒッタイト人は インド・ヨーロッパ語族としては最古のグループの一つで、同じ土地と言語を共有する部族の集団として一体となって発展し、一つの優れた帝国を築いていくことになりました。 つまり、 ヒッタイト人は人類史上で初めて鉄を材料とした道具を開発した人々であり、他の民族や国が青銅器しか作れなかった当時、高度な製鉄技術 (具体的には鉄鉱石から鉄を取り出す技術と鉄を加工して使う技術)を持つヒッタイト人は、 メソポタミアや周辺地域を圧倒的な力で支配することに成功した人々だったのです。 ちなみに、製鉄技術は当初ヒッタイト帝国内で独占的に守られていましたが、ヒッタイト帝国が力を失って滅亡していく過程で他の地域へも普及し、世界中で鉄器が作られるようになっていったと考えられています。 ヒッタイト文明の特徴 鉄や戦車によって高い軍事力を誇ったヒッタイト ヒッタイト文明の特徴の一つとして挙げておくべきなのが、鉄を開発したことで手に入れた圧倒的な軍事力。 ヒッタイト人は紀元前1500年頃から、鉄を用いた新たな技術を開発していたのは上述した通り。 それまで、人類が使っていた兵器は一般的に、青銅 (銅とスズの合金)から作られていました。 ( ヒッタイト人が開発した戦車「チャリオット」: 出典:) そのため、ヒッタイト人達が独自に製鉄する技術を開発したことは、ヒッタイトの軍事力を飛躍的に高め、それが、多くの戦いにおける勝利につながったのです。 またヒッタイト人が戦争で成功を収めたもう一つの理由、古代の戦車または「チャリオット」と呼ばれる戦闘用馬車の開発と使用も忘れてはなりません。 2頭の馬の力によって動かされることで、スピードもありながら小道や脇道を進むことも出来る戦車で、チャリオットを持たない他の国の軍に対して圧倒的に優位な状況を作り出せたのです。 楔形(くさびがた)文字を使っていたらしい またヒッタイト文明では、記録を残すためにくさび形文字を使っていたと考えられています。 くさび形文字とは紀元前3500年頃から起こったにおいて使われていた古代の筆記方法で、尖らせた筆 (アシを尖らせた物)で、粘土版の上に 楔のような形の文字を掘るようにして記録します。 ヒッタイト人達は、シリアからくさび形文字で文書を書ける筆記者を呼び、当時のヒッタイト人達に読み書きを教えるように指示していたようなのです。 その結果、現存するくさび形文字が刻まれた粘土版は、ヒッタイトの歴史研究を進めて行く上で最も優れた記録の一つであると考えられています。 ヒッタイトの歴史 ヒッタイトの歴史は紀元前1700年頃から紀元前1500年頃までの「 古王国時代」、そして紀元前1400年頃から紀元前1180年頃までの「 新王国時代」と大きく2つの時代に分けられます。 紀元前1500年頃から紀元前1400年頃までを「 中王国時代」とする説もありますが、この時代に関する記録はほとんど残っておらず、良く分かっていません。 ヒッタイト古王国時代(紀元前1700頃〜紀元前1500頃) ヒッタイト古王国は、ラバルナ1世と呼ばれた王によって、クズルウルマク川 (トルコを流れる川)の周辺に建国されました。 当時は幾つかの異なる部族が同地域に居住していたため、この時代の王達の目的は主に、 異なる部族からなるヒッタイトの人々を一つの帝国に治めて支配下におくことでした。 紀元前1595年頃には、当時の王「ムルシリ1世」の指揮の下、ヒッタイト軍はアナトリアからバビロンまで侵攻し、 当時メソポタミア全地域を支配していたバビロン第一王朝を滅ぼし、その帝国領土を大きく拡げることに成功します。 そして、紀元前1500年頃、当時の王であったテリピヌが死ぬことで、ヒッタイト古王国は一旦終わりを迎えます。 ちなみに、ヒッタイトの初代王「ラバルナ1世」の「ラバルナ」はその後、ヒッタイトの君主を指す称号として定着したため、ヒッタイトの歴代王達はラバルナと呼ばれていました。 ヒッタイト中王国(紀元前1500頃〜紀元前1400年頃) ヒッタイトの歴史において、紀元前1500年から1400年は中王国と呼ばれていますが、紀元前1500年まで続いたテリピヌによる治世後の この時代に関する記録は、現在までほとんど見つかっていません。 古王国と新王国は連続しないとする説がある一方、別な見解では 古王国と新王国は連続するとされるため、共通したまとまった見解がなく、それが基本的にはヒッタイトを二つの時代に区分し、そこへ中王国を追加する形を取ることが多い理由です。 しかし、この時代の重要な出来事として、エジプトと同盟が結ばれたと考えられています。 但し、エジプトがヒッタイトの新たな敵となった「ミタンニ(Mitanni)」とも同盟を結んだことにより、同盟関係は早々に行き詰まることとなってしまいましたが・・・。 ちなみに、「 なぜ記録がわずかしか無いのか?」という疑問に対する答えの一つとして、• 「この時代ヒッタイト人は他の民族集団や王国から攻撃の標的となっていたのではないか?」 というものがありますが、その真相は謎に包まれたままです。 ヒッタイト新王国(紀元前1400年頃から紀元前1180年頃) 紀元前1400年頃から始まった新王国の時代は「 ヒッタイトの帝国時代」とも呼ばれ、「シュッピルリウマ1世 (紀元前1344〜紀元前1322)」とその息子「ムルシリ2世 ( 紀元前1322年〜紀元前1295年)の治世は、ヒッタイト帝国が最盛期を迎えた時代でした。 特に、新王国時代におけるヒッタイト文明の発展、そして強大な軍事力の維持に必要な鉄などの資源確保は、交易路にかかっていたため、 帝国の領土を広げて交易を安定させることは当時のヒッタイトには重要なことだったのではないでしょうか。 また、この時代になってから 王位が親から子へと代々継承されるようになり、君主は王国の大祭司とされ、国民にとっては神のような存在となったのです。 一方で、ヒッタイト帝国と共に、 アッシリアやミタンニなどの王国も力を強めていきました。 そんな中、紀元前1285年頃にはシリアのカデシュにおいて、ラムセス2世 (エジプト新王国第19王朝のファラオ)が率いるエジプト軍と戦って撃退し、同時に世界最古の講和条約 (戦争状態を集結させるための条約)を結びます。 しかし、この カデシュの戦いを境にした頃から、ヒッタイト帝国の勢力は徐々に弱まっていき、対して他の王国(主にアッシリア)は台頭していくことになります。 この結果、ヒッタイトは国を維持するだけの力を失い、ついには紀元前1180年頃に崩壊したとされます。 この過程で、ヒッタイトは独自の文化を守っていくことも困難となり、ヒッタイト人が各地に拡散していく中で、製鉄技術も世界中に広まっていったのです。 ヒッタイトに関して知っておきたい5つのポイント ヒッタイト人やヒッタイト文明に関して、歴史も含めた基本的なことを紹介してきましたが、ここからはヒッタイトをより知るためにも、5つのポイントを見ていきましょう。 本当は負けたのにカデシュの戦いに勝利したとするエジプト 上でも述べた通り、ラムセス2世のエジプトとカデシュで戦ったヒッタイトは見事勝利し、この地域からエジプト軍を追い払うことに成功したわけですが、この件に関して、ラムセス2世側は全く事実と異なることを吹聴していたんだとか。 (ラムセス2世) 面白いことに、なんとエジプト人はこの戦いを エジプト軍の総合的な勝利としたらしく、しかも記念碑まで建てて祝福したそう。 現在は、歴史的な調査によってカデシュの戦いはヒッタイトが勝利したと判明していますが、歴史の描写は何とも信頼できないものであることが分かりますね。 (当時のヒッタイトとエジプトの領土:ピンクはヒッタイトで青はエジプト) ちなみに、カデシュはシリアに位置するため、エジプトから一見すると遠く、この地までエジプト軍が遠征してきたように思うかもしれまえんが、当時のエジプトはカデシュにまでその領土を広げていたため、ヒッタイトとエジプトはほぼ隣接していると言って良い国だったんです。 ヒッタイト人の起源は謎に包まれている 初期のヒッタイト人、そしてその起源については、未だに全くと言っていいほど分かっていません。 一方で、ヒッタイト人の文明には、ヒッタイト人の前にこの地域にいたハッティ人やフルリ人との共通点が見つかっています。 その結果、 ヒッタイト人は現在のウクライナがある地域からアナトリアへ到達し、その後、アナトリア半島に元々存在していた フルリ人とハッティ人と同化していったのではないかと考える向きもあります。 また、ヒッタイト人は旧約聖書にヘテ人として現れ、その中では古代イスラエル人と彼らの神の敵として描かれたり、ノアの子孫であるとも言われます。 ヒッタイト文化ではライオンはとても重要な存在だった ライオンはヒッタイト人の文化の中で、とても重要な存在であったのかもしれません。 と言うのも、ヒッタイトの遺跡の至る所から、 大きなネコ科の描写が発見されており、そのネコ科の動物はおそらくライオンだと考えられるから。 また、ライオンの身体にワシの羽を持ち、人間の頭と胴体が合わさった「 ヒッタイト版のスフィンクス」も存在していたようなのです。 他の地域の影響が見られるヒッタイト人の信仰 ヒッタイト人の神々に関して、しばしば 獣を背にして立つ様子や、動物の格好をしている描写が見られます。 例えば、ヒッタイトの神「Tarhunt」は雷神であり、スカンジナビアの神トールとよく似ています。 そして、このヒッタイトの雷神はイルルヤンカシュという蛇または竜と争ったとされており、 インド神話におけるヴェーダの神インドラと蛇のヴリトラとの戦いに酷似しています。 このことから、 ヒッタイトの神話はインド神話や古代スカンジナビアの信仰の影響を受けていたのではないかと考えられます。 加えて、ヒッタイトの宗教では1000もの神々が存在し、それぞれ特定の目的を持っていたとされ、例えば、農業、戦争、守護、豊穣、天気などを司る神が存在したらしいです。 また、ヒッタイト人は石に神々を彫り、その石は神聖なるものとして崇拝されていたと言われます。 トルコの元大統領アタテュルクはヒッタイトのファンだった!? ヒッタイト人時代に作成されたくさび文字が記された粘土板が、トルコ北中央部に位置するボアズキョイおよびその周辺で何点か発見されています。 そして、そのうちの多くはアンカラのアナトリア文明博物館に展示されていますが、このことを指揮したのはトルコの初代大統領 ムスタファ・ケマル・アタテュルクだそう。 アタテュルクは、オスマン帝国時代には将軍を務め、その後トルコ共和国を樹立するために起きたトルコ独立戦争やトルコ革命を指揮し、現在のトルコ共和国が出来てからは元帥と大統領として活躍した、 トルコにとっては生みの親とも言える偉大な人物。 そんなアタテュルクは、 長年トルコにヒッタイトに関する博物館を作ることを希望していたらしく、アナトリア文明博物館はアタテュルクの音頭によって建設され、そこへヒッタイト文明の遺産も展示されることになったそうなんです。 アタテュルクはトルコ建国だけでなく、 亡くなった後でもヒッタイト文明の解明に貢献し続けているってことですね。 合わせて読みたい世界雑学記事• 未だに多くの謎が残りますが、その功績からして、間違いなく人類が誇れる古代文明の一つだと言えそうです。

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アッシリア帝国ってすごく残酷でしたよね。

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アケメネス朝ペルシア(紀元前550〜紀元前330) ・ペルシアとは、イランの旧称で、アケメネス朝がおこったイラン高原南西部の パールス(パルサ)という地名に由来する。 ・アケメネス朝では、公用語として ペルシア語、エラム語、バビロニア語、アッシリア語、アラム語などが、文字は ペルシア文字が用いられた。 ・建国者キュロス2世(在位紀元前559~紀元前530)は、紀元前 550年にメディアを滅亡させ自立し、その後リディア、新バビロニアを滅ぼしてアケメネス朝を創始した。 ・第2代 カンビュセス2世(在位紀元前530~紀元前522)はエジプトを征服後、全オリエントを統一する。 ・第3代 ダレイオス1世(在位紀元前522~紀元前486)は、東のインダス川から西のエーゲ海北岸にいたる広大な領土を治めるため、全国を20の州に分けて サトラップ(知事)を各地に派遣して徴税と治安維持を命じた。 また、サトラップを観察するために、 「王の目」、「王の耳」という王直属の監察官を派遣し、中央集権体制を作り上げた。 その他にも、スサからサルデスに至る2500kmに及ぶ「 王の道」を整備し、 ペルセポリスという壮大な王都を建設した。 ・アケメネス朝は大帝国を作り上げたが、ダレイオス1世が始めたギリシアとの ペルシア戦争に敗れ、次第に衰退していった。 ・イラン独自の宗教としては、紀元前 7世紀頃に創始された ゾロアスター教が挙げられる。 ゾロアスター教は後に 北魏に伝わり、中国では 祆教と呼ばれた。 ・楔形文字解読のきっかけは、 ペルセポリス碑文を研究したドイツの学者 グローテフェントが見つけ、後に ベヒストゥーン碑文をイギリスの学者 ローリンソンが研究し、解読に成功する。 ・アレクサンドロス大王の東方遠征の際、紀元前 331年の アルベラ(ガウガメラ)の戦いで ダレイオス3世が敗走後暗殺され、アケメネス朝は滅亡した。 セレウコス朝、バクトリア、パルティア ・アレクサンドロス大王は、東方遠征の結果インダス川流域や中央アジアを含む広大な領土を治めたが、その後アレクサンドロスが死ぬと、ディアドコイという後継者たちが争い、 セレウコス朝シリア、プトレマイオス朝エジプト、アンティゴノス朝マケドニアなどが分立した。 ・ セレウコス朝シリア(紀元前312~紀元前63)は、西アジアの大領土を有したが、その後アム川上流域のギリシア系住民が独立し、 バクトリア(紀元前255~紀元前139)を建国した。 また、カスピ海南東で アルサケス朝パルティアが独立すると衰退し、最後は紀元前1世紀に ローマに滅ぼされた。 ・バクトリアはヘレニズム文化をインドに伝え、その後 シャーナ朝ク時代のインドで ガンダーラ美術が生まれるきっかけとなった。 ・バクトリアは、 スキタイ系の トハラ人に滅ぼされた。 ・パルティアは ミトラダテス1世の時代に王都 クテシフォンを中心に栄え、セレウコス朝滅亡後ローマと争い、東方では 漢と「絹の道」をつないだ。 ササン朝(226~651) ・ササン朝は、 イラン系の国家で、 パルティアを滅亡させた後建国された。 都 クテシフォンを中心に栄え、 ゾロアスター教を国教化し、ローマ・東ローマと争った。 ・ササン朝第2代の シャープール1世(在位241~272)は、東方で クシャーナ朝を破り、西方で エデッサの戦いでローマ皇帝 ヴァレリアヌスを捕虜にするなど、隆盛を誇った。 ・5世紀になると、中央アジアの騎馬民族 エフタル(中国名:白匈奴)が侵入し、一時国力が低下した。 ・ ホスロー1世(在位531~579)の時代になると、ササン朝は突厥と組んでエフタルを滅ぼし、東ローマ帝国の ユスティニアヌス帝と争うなど、最盛期を迎えた。 ・その後ホスロー2世の時代に、東ローマ帝国の ヘラクレイオス1世に敗れると衰退し、最終的に ニハーヴァンドの戦いでイスラーム軍に敗れ滅亡した。 ・日本に伝わったササン朝美術としては、法隆寺の 獅子狩文錦や正倉院の 漆胡瓶が有名。 ・西アジアの文字は、楔形文字に代わり アラム文字が使われ、その後中央アジアでこれを元に ソグド文字が発明された。

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アッシリアとは、現在の イラク北部を占める地域でした。 つまり、の北部を指し、メソポタミア南部は「」と呼ばれていました。 最終的に、アッシリアは・シリア・ エジプトを含んだ世界帝国を築き、王権や社会に影響を与えたのです。 初期アッシリアから 中アッシリア時代の歴史についてさらに詳しく知りたい方は、 こちらの記事を先にお読み下さいませ。 アッシリアは歴史上、周囲の覇権を拡大していた時もあれば、大国の覇権下に屈していた時期もあります。 しかし、その中でも珍しく 中央集権的な国家体制を維持していました。 鉄器時代には「 新アッシリア王国」と呼ばれ、現在で言うところの中東とエジプトである オリエント全域を征服する大帝国となりました。 この大帝国が滅んだ後も、 強制移住政策自体は、オリエント世界にもよく見られました! ですが、アッシリアのは規模が違いました。 アッシリアの支配は武力による強い統治だけではなく、征服地の文化や言語、宗教や政治体制をしっかりと理解して統治しました。 この統治政策は、アッシリア以降に登場したやのような広い地域を統治した帝国にも継承されました。 その典型的な捕囚政策の例が、「 バビロン捕囚」です。 ユダヤ教誕生のきっかけにもなったバビロン捕囚の歴史についてさらに詳しく知りたい方は、 こちらの記事をお読み下さい。 アッシリアとバビロニアの関係 こんな帝国支配の中でも、 バビロニアは別格でした。 アッシリア王がバビロニア王を 兼任する場合やバビロニアに 代理王を置く場合などがあったようです。 こんな柔軟性のある統治政策も、アッシリアの高度に発達した 官僚制度が支えていたからこそ出来たことです。 ですが、問題もありバビロニアを完全征服しても、.

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